南部氏の家紋は「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも見られるように武田氏族らしく「割菱紋」であった。室町時代の応永十八年(1411)、南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦ったが、その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ勝利をおさめることができた。戦後、これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたのだという。 一方、初代光行が建久四年(1193)の春、源頼朝に従って浅間山に狩をした。そのとき陣所近くの池に鶴が二羽まいおりたのを、頼朝は鶴を殺さないようにして射とれと部下にいった。光行は進みでて一羽は翼を、もう一羽は足を射て生け捕りにした。頼朝は一羽を天皇に献じ、一羽を陣中において光行を大いに誉め讃えた。南部氏の「対い鶴紋」はこれを記念したものだともいう。 永享七年(1435)に鎌倉公方が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』には「ひすつるは南部かもん」とあり、南部氏がこのころには「菱鶴」を家紋としていたことが知られる。戦国時代に至って、現在のような「対い鶴紋」に変化したようだ。 南部氏の対い鶴紋は胸に記された「九曜」が特長的なものだが、この九曜紋は下総の千葉氏の例でも知られるように、武家が信仰した「妙見信仰」にちなんだものであろう。南部氏は定紋の「対い鶴」を据えた軍旗が知られるが、この「九曜」のみを取出して旗印に据えた軍旗も用いている。江戸時代の川柳に「鶴の胸 出来物らしく 紋をつけ」というのがあるが、たしかにそのようにも見える。
【掲載家紋:割菱(武田菱)/鶴菱/対い鶴】 ■南部氏 |
