南部氏
南部鶴
(清和源氏義光流) |
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南部氏は清和源氏武田氏の分かれで、甲斐国南巨摩郡南部邑より興ったとされる。すなわち、新羅三郎義光の五世の孫にあたる加賀美次郎遠光の三男光行をもって祖とする。光行は父遠光とともに鎌倉幕府の創業に尽して、幕府が成立すると源頼朝の側近として仕え、文治五年(1189)の奥州征伐に従軍し、その功績によって糠部五郡を賜わったという。
南部氏の家紋は、「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも見られるように武田氏族らしく「割菱紋」であった。室町時代の応永十八年(1411)、南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦ったが、その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ勝利をおさめることができた。戦後、これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたのだという。
一方、初代光行が建久四年(1193)の春、源頼朝に従って浅間山に狩をした。そのとき陣所近くの池に鶴が二羽まいおりたのを、頼朝は鶴を殺さないようにして射とれと部下にいった。光行は進みでて一羽は翼を、もう一羽は足を射て生け捕りにした。頼朝は一羽を天皇に献じ、一羽を陣中において光行を大いに誉め讃えた。南部氏の「対い鶴紋」はこれを記念したものだともいう。
永享七年(1435)に鎌倉公方持氏が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』には「ひすつるは南部かもん」とあり、室町時代前期ころの南部氏は「菱鶴」を家紋としていたことが知られる。鶴紋ではあるが、武田氏族らしく菱をベースとした鶴紋だったのである。やがて鶴丸となり、戦国時代に至って現在のような「対い鶴紋」に変化したようだ。そして、南部氏の対い鶴紋は胸に記された「九曜」が特長的なものだ。江戸時代の川柳に「鶴の胸 出来物らしく 紋をつけ」というのがあるが、たしかにそのようにも見える。南部氏の「対い鶴に九曜」紋は、とくに「南部鶴」と呼ばれる。
九曜(月星)紋は下総の千葉氏の家紋として有名なものだが、北天に輝く北極星・北斗七星に対する信仰心から起った「妙見信仰」から生まれたものである。南部氏も北辺に領地を保った武家らしく、「妙見信仰」から九曜も用いるようになったのであろう。南部氏の軍旗をみると、定紋の「対い鶴」を据えたもののほかに、「鶴丸」「九曜」のみを据えた軍旗も用いている。
江戸時代、南部氏は盛岡南部氏を宗家として、八戸南部氏、七戸南部氏の分家があった。そして、各家とも「対い鶴に九曜」の「南部鶴」を定紋に、「割菱」を替紋として用いた。「割菱」をみると、南部氏が武田の流れを誇りとしていたことがうかがわれるのである。
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・九曜紋の軍旗
【掲載家紋:割 菱(武田菱)/鶴 菱】
[南部一族家伝]
■南部氏
■八戸南部氏
■九戸南部氏
■北 氏
■毛馬内氏
■南 氏
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