南 氏
南部鶴
(清和源氏南部氏流)

    
 戦国大名南部氏のもとを築いたのは、右馬允安信といわれる。安信は南部氏二十二代政康の嫡男に生まれた。
 大永四年(1524)、政康の代に反乱を起して滅ぼされた津軽の三代利右衛門の子主水がが乱を起こし、堤ヶ浦にあった郡代の居城を落とした。安信は弟高信に兵を率いさせて主水を討ち、たちまち津軽を鎮めた。以後、高信は津軽郡代に任じられ、ともすれば反乱が起る津軽の安定につとめたのである。さらに、弟信房には不来方城を守らせて南の斯波氏に備え、弟秀範には毛馬内城に居住させ秋田氏に備えた。そして、もうひとりの弟長義には浅水城を守らせ、領内安定に大きな布石を果たしたのであった。
 浅水城主となった長義の屋敷は三戸城の南にあったことから、「南殿」と呼ばれ、それがそのまま南氏の姓になったのだという。南長義は三千五百石を領し、しばしば軍功があり、晴継死後の相続会議にも参加した南部氏家中の有力者であった。南長義は天正十一年(1583)に死去し、嫡男の康義が家督を継承したが、七年余で世を去ったようだ。
 康義の嫡男義晴は早世していたため、次男の弾正少弼盛義が家督を継承した。盛義の代の天正十九年(1591)、「九戸政実の乱」が勃発した。浅水城は九戸政実の一党である櫛引氏の攻撃を受けたが、南弾正と弟たちはよくこれを撃退した。そして、兵を退く櫛引氏を追撃して馬淵川を渡河した。ところが、櫛引氏の撤退は南弾正兄弟を城から誘い出そうとしたもので、浅水勢は法師岡館付近で壊滅、弾正兄弟らは討死した。  その後、南氏は南部氏の重臣となったが、跡継ぎに恵まれず断絶。南氏の断絶を惜しんだ南部利直は、庶子利康に南の名跡を継がせている。

【主な参考文献】・岩手県史 など  

■略系図