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毛馬内氏
南部鶴
(清和源氏南部氏流)


 鹿角郡毛馬内は山間野静かな一帯である。南北朝の争乱期には奥州南朝方の拠点の一つであったことから、建武四年(1336)、北朝方曽我貞光が津軽から鹿角へ侵攻し、拠点の一つ当館が攻め落とされている。当館とは、毛馬内の古館当麻館であるといわれている。
 毛馬内館(当麻館?)は、南に汁毛川、西に小坂川の低地、東北は深い谷に囲まれた要害の地で、中世豪族の毛馬内備中が築いたといわれている。天文年中(1532〜54)、この毛馬内館に南部政康の五男靭負佐秀範が二千石を賜って封ぜられ、毛馬内を名乗ったのが南部氏流毛馬内氏のはじめである。秀範はのちに信次と改めている。
 秀範が毛馬内館に配置されたのは、南部信直の鹿角侵攻に関わるものと思われ、信直の信を賜って信次と名乗るだけに、秀範は信直から厚い信頼を寄せられていたようだ。とはいえ、三戸から遠く離れた地にあるだけに、秋田氏に下らざるを得ない場合もあったようだ。たとえば、『湊合戦覚書』には「愛季公ノ時、南部領ノ内、シワ・シツクシ・カドノ・ナマナイ殿カシラ也、コレラヲシタガエ礼ニキリ」とあり、ナマナイ殿とあるのは毛馬内氏とみられる。秋田愛季は秋田安東氏の勢力を拡大した名将で、毛馬内氏も愛季のもとに参礼したのであろう。
 その背景には、南部氏の家督を信尚が継いだことに対して、鹿角地士の中には不平ももつものをあったようで、かれらの動向によって毛馬内氏の秋田氏参礼ということになったのかも知れない。しかし、毛馬内秀範の子政次・直次兄弟らは信直の従兄弟として、信直を支援し信直の子利直にも仕えて、その厚い信頼を得た。  政次の流れは孫の則氏の代に嗣子なく断絶し、毛馬内氏は直次の子孫が南部藩士として続いた。

参考資料:岩手県史 など】 


■参考略系図


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