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北 氏
南部鶴/花菱/違菱
(清和源氏南部氏流)


 南部信直股肱の臣と称される北信愛の北氏は南部氏の一族と伝えられるが、実はその家系は定かではない。『奥南旧指録』では、北氏の祖を南部三代南部時実の四男北孫三郎宗実とし、その子を宗愛とする。しかし、その後を伝える系図はない。
 信愛は大永三年(1523)に剣吉城主左衛門尉致愛の子として剣吉村に生まれた。『参考諸家系図』は信愛の父致愛を、南部家二十一代信義の子とし、外祖父剣吉左衛門五郎に養育された後、家督を継いだとしている。一方で、致愛は信義の弟堤弾正左衛門光康の孫とする説、藤原姓の工藤氏の出とする説もある。ちなみに『種市氏系図』によれば、信愛が慶長八年に末子北勘兵衛愛久に封禄を分け与えたとき「種市は我が家の本名にして本(もと)工藤氏藤原姓なり」と告げて種市氏を名乗らせ、木瓜と引龍の紋を与えたと伝えている。そして、そのとき与えた書状には南部北新六「藤原」愛久と宛名している。
 信愛が男子愛久に封をあたえるとき、藤原を称したのは重要である。主家である南部氏と同族ということは名誉なことであり、ことさらに藤原姓工藤氏を称するのは、それなりの理由が背景にあったことを感じさせよう。

北信愛の活躍

 北信愛は晴継が死去したのちの南部家の跡継ぎ問題で、議論が紛糾するなかで、かつて晴継の父晴政の養嗣子に据えられ、のちに晴政と対立した信直を擁立したことは有名な話である。信愛が信直を擁立した経緯は、『南部根元記』によれば、浅水城主南遠江守とともに「すぐりたる侍百人鉄炮百挺、何れも物具竪め田子におはします九郎信直公の御迎に越されけり」と、強引とも読み取れる行動があった。
 北信愛は南遠江守の娘婿であり、南遠江守は信直の叔父にあたる人物であった。お
そらく、北信愛の背後には南遠江守がいたとみてまず間違いないだろう。ともあれ、信愛は南部一族の有力者八戸政栄を味方にして、信直擁立の立役者となったのである。
 以後、信直の側近として活躍、相続問題のとき信直と対立した九戸政実が三戸南部氏に不穏な姿勢を示したとき、信愛は豊臣秀吉の重臣である北陸の前田利家のもとに使者として立った。戦乱のなかを遠く北陸まで赴いた信直は、南部信直が南部氏正統の家督であることを訴え、秀吉への執り成しを願ったのである。
 南部信直と対立していた九戸政実は、天正十九年(1591)、ついに乱を起したが秀吉軍の征伐を受けて滅亡した。九戸氏の乱の終息をもって、奥州の戦国時代も終わりをつげた。以後、南部氏は豊臣政権下の大名として行動することになる。北信愛は南部氏の重臣として、信直の治世を助けた。
 信愛の二男直愛(秀愛)は九戸政実の乱に出陣し、腰に銃弾を受けながら戦ったという豪勇の武将であった。葛西・大崎一揆ののち、八千石を以て鳥屋ヶ崎城代となり、鳥屋ヶ崎を花巻に改めている。慶長三年(1598)、直愛は死去したため信愛が花巻城に入り、本丸・二の丸・三の丸を整備し併せて花巻城下町を構築した。
 慶長五年(1600)、「関ヶ原の合戦」が起ると、南部氏は山形に出陣した。その留守を狙って、旧和賀領主和賀義忠の子忠親が一揆を起こし、花巻城は本丸まで攻囲された。北信愛は城兵を指揮して、よく花巻城を守りきった。信愛は信直が死去したのちは利直に仕え、慶長十八年八月花巻城にて死去した。享年九十一または九十三であったと伝えられている。



■参考略系図


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