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九戸氏
対い鶴
(清和源氏南部氏流)


 九戸氏は南部氏の始祖光行の六男・行連を祖とする南部氏の族で、代々北奥の九戸を領知し九戸氏を称した。鎌倉中期以降、初代行連より最後の当主政実まで十一代にわたって連綿したというが、累代の事蹟は不明な点が多い。 
 諸国が戦乱に明け暮れるようになった室町時代の中期、七代の光政は三戸南部政盛の庶長子に生まれ、九戸氏を継いだものといわれる。そして、この光政が本拠を代々の九戸城から二戸の白鳥城に転じたと伝える。この城はその後宮野城と称され、戦国時代になると九戸城と呼ばれるようになった。光政の娘は久慈備前守に嫁ぎ、以来、九戸氏は久慈氏との姻戚関係を濃くしていくことになる。
 光政の曾孫連康の代になると、二男兼実に姉帯を領知させ、姉帯城に居住させた。このころから九戸氏の勢力は優勢となり、姻戚関係も北は金田一城主の四戸氏と結び、南は不来方城主福士氏および高水寺斯波氏と関係するなど、三戸の南部氏宗家をしのぐほどの勢いを示すようになる。

九戸氏の出自異説

 前記のように、九戸氏は三戸を本宗とした奥州南部氏の一族とされている。奥州南部氏は、建久三年(1192)始祖光行が三戸に着任して平ケ崎城を築き、そこを本拠として地頭代職を置き、光行自身は鎌倉に帰ったと伝えられている。ところが鎌倉期の北条得宗領関係の文書と三戸南部氏の記録とはまったくといっていいほど噛み合っていない。言い換えれば、鎌倉中期から南北朝初期のころまで、三戸南部氏はまったく北奥に存在していなかったといえるほどである。そして、建武元年(1334)を前後とする年代では、北奥羽の各地にあったという三戸南部氏の領地の痕跡さえ見当たらない。加えて、鎌倉時代から南北朝初期まで南部氏の本宗は甲斐国に存在していたことも知られている。
 以上のことから、九戸氏の祖行連が南部氏から九戸郡を分領されたとする説もにわかに信じがたいものとなってくる。元弘三年(1333)の北畠顕家の下文にも、九戸郡は結城親朝の領知するところで南部氏とは無関係であった。このような状況のなかで九戸氏は、鎌倉時代の初めより九戸を領して代々続いてきたとしているのである。そして、九戸氏の世代数は三戸南部氏の代数と比較して、随分と少ないことが見てとれる。九戸家の代々がすべて長寿であったとは考えにくく、何代かの欠があったものか、あるいは九戸氏系図は後世に伝承をもとに改作されたものであろうと思われる。
 九戸家の祖について、永享十二年(1440)の結城城攻撃の総大将であった小笠原政康ではなかったかという伝承もある。すなわち、九戸村の九戸神社に伝えられた「小笠原系図」に記されているものである。しかし、この系図も近世初期に作成されたものであり信憑性に欠けるものである。とはいえ、九戸政実の乱を書いた『九戸軍談記』のなかで、政実は家門を誇って「結城総大将美濃中川の惣領小笠原正安の子孫」と名乗り、また『霊山武鑑』に二戸城主は「結城七郎正安」と記されている。
 いずれが真を伝えているのかは、いまとなっては証明することは困難であり、一応、南部氏の一族であるとするしかないようである。

九戸氏の立場

 九戸氏十一代の政実は武将としての力量が優れ、政実の代に九戸氏はその軍事力が急成長を遂げた。のちに三戸南部氏と対立し、津軽氏の独立を容易にさせたのは、九戸氏が南部宗家の動きを掣肘したためとされる。勢力を大いに拡大した九戸氏であったが、その立場は南部氏宗家から自立した大名ではなく、三戸南部氏の家臣であったと認識されている。
 しかし、九戸政実は南部氏のなかの単なる館持ち武将ではなかったことは当時の記録からうかがわれる。室町末期の永禄六年(1563)、足利将軍義輝が室町幕府諸役人の名前を書き出している。そのなかに、関東衆として南部大膳亮と九戸五郎が並んで記されており、九戸五郎は九戸政実をさすものと考えられている。このことから、当時の九戸氏は南部氏とともに北奥を領地として、北奥を二分する勢力であった。政実は三戸南部氏に匹敵する勢力を持っていて、中央の室町幕府からも九戸政実は三戸南部晴政と対等な戦国大名として認識されたいたとみて間違いない。従って、九戸氏と南部氏の関係は、従来いわれる主従関係というよりは対等の立場であり、ともに北奥地域の治安と平和を守ることに協力していたと考えられる。
 九戸氏がこのように独立した大名に成長したのは、永禄八年(1565)に秋田近(愛)季が鹿角を侵略しようとし、翌年、長牛城を攻撃した。この変を聞いた南部晴政は一族の石川信直を大将として鹿角に派遣し、近季は形勢不利となって退去していった。しかし、その後ふたたび鹿角に侵入し、南部軍は敗れたため鹿角は秋田近季の領地となった。これに対して南部晴政は、永禄十二年、鹿角の奪還をはかり、石川高信と九戸政実をそれぞれ大将として鹿角の秋田近季を討ち取るため兵を進めた。両将は秋田軍を相手に奮戦し、ついに秋田勢を鹿角から追い払い鹿角郡を奪還することに成功した。
 その後、岩手郡に進出してきた斯波氏に対して石川高信は九戸政実の協力を得て、不来方で斯波軍と激突し数ケ月にわたって戦闘を続け、戦いは稗貫大和守の斡旋によって和平がなった。このように、北奥の戦国時代において九戸政実はその武威を示し、独立した大名としての立場を固めていったようだ。

南部氏の内訌

 南北朝期から室町中期にかけて、奥州南部氏の惣領は八戸南部氏であったようだ。しかし、南北朝合一がなってのち八戸南部家は後退を余儀なくされ、また戦国乱世を乗り越えるような傑出した当主がでなかったこと、加えて一族の間で内紛が起こるなどして次第に衰退していった。一方、三戸南部氏は着々と勢力を拡大し、やがて南部氏の惣領的立場を占めるようになった。それは三戸南部晴政の時代であり、晴政を叔父の石川高信が支えて三戸南部氏の惣領的立場は確固たるものとなった。
 晴政には長く男子が無かったため、長女に石川高信の嫡子信直を長女の婿として嗣子と定め、三戸城内に居住させていた。ところが、晩年になって実子が出生したため継嗣問題が起こった。すなわち、晴政は実子晴継に家督を譲ろうと思い、養子信直との間に不和が生じたのである。南部家関連の史書はこのことをほとんど取り上げていないが、『八戸家伝記』によれば「南部嫡家晴政には五女子があり、長女田子信直に嫁し、次女九戸実親に嫁す。(中略)然るに家督相続の男子無し。晴政平日謂う、第一子婿田子信直を養い以って我が家を継ぐべし。永禄年中、晴政実子出生、寵愛も深し。これより以来、漸く信直快からず。この間讒者あり、晴政に告げ曰く、信直怨み讎を構うと。晴政これを聞き、甚だこれをにくみ、便宜をうかがい信直を殺さんと欲す云々」と。
 そのようなとき、信直の大器であることに期待をかけていた南部氏重臣の北信愛は、信直が不幸にあうことを憐れみ、八戸政栄と心を合わせて信直を三戸城から逃れさせ匿った。それを知った晴政は兵を発し、ついに合戦沙汰となった。このとき、九戸政実は晴政方に加担して信直と戦った。
 やがて天正十年(1582)、晴政は病を得て死没した。その跡を継いだ嫡子晴継はわずか十三歳の少年であった。そして、父の葬儀終了後に三戸城に帰る途中を何者かに教われ暗殺されてしまった(病死説もある)。この事件に象徴されるように、晴政の跡をめぐる南部氏の相続問題は容易ならざるものであった。

三戸南部氏との対立

 後継者決定のため、南部氏一族、重臣らによって大評定が開かれたが、後継者としては、晴政の養嗣子でもあった田子信直、一族の名門で最大の所領をもつ大身九戸政実の弟で晴政の娘婿である実親が有力と思われた。評定では晴継暗殺の疑いが濃厚とされ、九戸実親を推す空気が強かった。そのようななかで、北信愛がひそかに八戸政栄の協力を得て信直を説得し、三戸城に招じ入れたことで信直の南部氏家督相続に決定した。かくして、戦国大名南部信直が誕生したのである。
 三戸南部氏の相続問題は、信直が入ることで一応の解決をみたが、そこに至るまで九戸政実は終始信直に反対しつづけており、信直の家督にも不満であり従おうともしなかった。次第に、信直と政実の間は深刻なものになっていった。そのことが、津軽地方において勢力を拡大し、ついには津軽を制圧した大浦為信に対する信直の対応を鈍らせることにもなった。津軽地方は南部氏の支配するところで、信直の父石川高信が代官として治めていた。その死後は、信直の弟の石川政信が代官として津軽にあった。そして、為信はその補佐役の一人に過ぎない存在だった。
 南部氏からの独立を企てた為信は、政実の不満をみて協力を求めた。地侍とならず者を集めた為信は、石川城を攻めこれを落すと、津軽地方をたちまち切り従えていった。これに対し信直は政実に出撃命令を出したが、政実は動くはずもなく、信直も政実の態度が不審で大軍を津軽に送ることができなかった。
 結局、大浦為信は、南部氏から津軽地方を奪って、まんまと独立を果たしたのである。大浦氏はのちに津軽氏を称し、豊臣秀吉に接近して、独立した大名としての地位を得る。近世を通じて津軽氏と南部氏とが犬猿の仲であったことは、ここに原因があった。

九戸の乱、勃発

 このように、九戸政実は反信直の態度を変えず、信直に対する反抗的姿勢は天正十八年(1590)の豊臣秀吉による「奥州仕置」ののちも変わらなかった。同年十月、奥州仕置で改易された大崎・葛西氏らの遺臣が一揆を組んで反乱を起した。反乱は和賀・稗貫にも広がり、北奥は大混乱となった。
 この状況をみた九戸政実は南部氏打倒を決意し、天正十九年(1591)正月三戸城で行われた新年会に出席せず、信直への対決姿勢を明かにした。そして時をおかず、九戸方に協力しない諸城主を攻撃するに至った。『南部根元記』によれば、天正十九年三月、九戸党は一斉に蜂起して、近郊の一戸城・伝法寺城・苫辺地城などを攻撃したとあり、一戸城の一戸図書が九戸政実に与して討死したと伝え、その跡に信直方の北主馬が据えられている。さらに岩手郡においても、九戸方と三戸方との間で確執があり地頭の改易が行われている。
 九戸政実の反乱には櫛引河内・七戸彦三郎が同心し、一戸の者らが九戸に内通し三戸南部を凌ぐ勢いとなった。北主馬の急報により、三戸から実父の北信愛が一戸城に派遣され、信愛は東・上斗米・浄法寺氏を駐在させ一戸城を強化して帰還した。同じころ、九戸方の櫛引氏は苫米地城に攻撃を加え、七戸家国は六戸および出法寺城を攻撃した。かくして、三戸南部信直は九戸勢と日夜合戦におよんだが、信直旗下の旗本以外の外様の家臣らは形勢を見て出陣をしない者が多かった。九戸政実は武将としての力量も高く、その領地も三戸南部氏に拮抗するもので、多くの武士が政実方に加わった。九戸方の攻勢に対して、信直の立場は段々と苦しいものになっていた。
 ついに信直は自力での九戸征伐をあきらめ、豊臣秀吉に窮状を訴えその支援を仰ぐため家臣を京都に派遣し、さらに世子彦九郎に北信愛を付けて京都に遣わした。南部氏の要請を入れた中央では、仕置軍を北奥に送った。栗原郡三迫方面からは会津蒲生勢・浅野勢ら、出羽側からは仙北郡より山を越えて和賀方面に、本吉気仙方面には石田勢がそれぞれ進撃した。八月、中央軍は和賀・稗貫・志和・岩手の仕置を決定し、不来方を経て沼宮内に至り、中山峠を越えて九戸方諸城に攻撃を加えた。攻撃開始は九月一日で、攻撃軍には南部勢はもちろんのこと、出羽から小野寺義道、戸沢政盛、秋田実季、由利衆、さらに津軽からは大浦為信が参陣し、その総勢は六万余に上った。
 対する九戸方は、上方勢来攻ときいていよいよ抗戦の覚悟を決め籠城を強化した。しかし、その兵力は五千余人であり、合戦が開始されると、たちまちにして姉帯城・根反城が攻略され、九月二日には早くも九戸本城が攻撃にさらされた。四日夕方になると、抗戦が不可能なことを悟った九戸勢は降伏した。主将の九戸政実・櫛引清長らは髪を剃り、法衣姿で囚われの身となった。そして、三迫の豊臣秀次の許に護送され、籠城の将領百五十人とともに斬首に処せられた。ここに、九戸氏は滅亡した。この時、女子供も容赦なく斬り殺され、のちに「九戸の撫で斬り」と呼ばれた。

戦乱の時代の終焉

 武辺者である政実には、豊臣秀吉の認可した南部信直を攻撃することが、豊臣政権に対する反逆であることが理解できなかった。 また、自分と同じく南部氏に謀叛を起こした大浦為信が独立した大名に取り立てられたこともあり、信直に対する反乱で九戸氏の独立を確固たるものにせんと考えたのかも知れない。しかし、中央政権の九戸氏に対する認識は南部氏の家臣というものであり、大浦為信の独立が容認されたときとは時代も一変していた。
 結局、九戸政実は天下の情勢を読み違えたといえよう。小田原征伐後の奥州仕置によって秀吉を頂点とする天下体制が確立され、戦国時代は終焉を迎えていた。九戸政実の南部信直への反乱は、中央政権への反逆ということでもあり、政実の行動は滅亡せざるをえない選択であった。この「九戸の乱」の終結で、群雄が割拠して戦いに明け暮れた戦国時代はまったく終息した。

●南部氏の家紋─考察


■参考略系図
 
 


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