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米原氏
六角定頼の甥にあたる治綱が定頼の養子に入り、近江国米原郷を領して米原氏を称するようになったという。治綱は尼子経久に仕えて軍功をたてたと伝える。
綱寛の守った高瀬城は、原手郡の穀倉地帯をおさえ、東方にある加茂の大西城、揖斐伊川上流にある三刀屋・三沢城、またその下流にある鳶巣城・平田手崎城などとともに、尼子氏の重要な平站基地で、尼子十旗の一つに数えられる堅城であった。
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三刀屋氏
三刀屋氏は清和源氏満快流の後裔である。満快流為扶の子室賀二郎盛扶の子幸扶は諏訪部氏を称し、その子孫が出雲国飯石郡の三刀屋郷の地頭職を得て出雲に下向して三刀屋氏がうまれた。
戦国時代の後期、尼子氏配下の出雲十旗の三として三刀屋久祐(久扶)が出ている。久祐は対馬守某の子に生まれ、三刀屋城主として尼子晴久に仕え、天文九年の安芸毛利氏攻めに従軍、その敗戦後大内氏に属し、同十二年の大内義隆の出雲侵略失敗により尼子氏に帰順した。弘治三年、尼子晴久から久の遍諱を受けている。
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三沢氏
出雲の国人領主三沢氏の出自は、木曽系・飯島系などがあって、名前や戒名などに不整合なところが多いが、清和源氏の一流であることに間違いないようである。
出雲守護京極氏に代わって、守護代尼子氏の台頭に際して、国人領主の雄としてこれと対立した。さらに、清定・経久父子の富田城追放の際も、その中心的存在であった。その後、曲折を経て尼子氏に属した。
尼子晴久が天文八年(1539)安芸の毛利元就と争ったとき、為幸は尼子軍に属して出陣した。この戦いで、晴久が包囲に陥ったとき、為幸は先登に進んで敵の首級をあげること十三級に及んだが、戦は大敗戦となり、元就を討ち取らんと駆け入ったが、矢を七本まで身に受けて討死にした。
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牛尾氏
牛尾氏は鎌倉時代に、信州諏訪の豪族神氏の一族である中沢真直が出雲国大原郡牛尾荘に入ったことに起こる。
牛尾氏は応仁の乱の頃、三笠山・高平山に城を構え、やがて尼子氏の傘下に入った。家老衆の一角を努めた牛尾遠江守をはじめ、一族中に重臣を多く出し、尼子家中でも重い家柄であった。「尼子分限帳」には、御家老衆牛尾遠江守 備前之内十万石と見え、大身であったことが知られる。
牛尾幸清は、 尼子経久・晴久・義久三代に仕え、宇山久兼、佐世清宗らと並んで、尼子家最上層部を形成した。天文九年(1540)晴久の安芸遠征にも随行して安芸武田氏を援護した。
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赤穴氏
赤穴氏は、佐波氏の分家で、佐波常連が出雲赤穴荘の地頭になり、姓を赤穴と改めたものである。
赤穴氏の居城赤穴城(瀬戸山城)は、尼子十旗のなかでも特に重要な軍事的拠点であった。それゆえ、尼子経久・晴久は赤穴一族を重用し、赤穴氏も良くこれに応えてきた。
天文十一年二月、義隆みずから大軍を率いて山口を発し、出雲に入り赤名瀬戸山城を陥れようとした。久清は子光清とともに大内軍の猛攻に屈せずよく戦った。毛利の将熊谷直続を討ち取るなどして大内軍を一時退却させたが、大内方の陶隆房の家臣某に喉咽を射られて討ち死にした。
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大西氏
経久の頃には、兵庫介高範が鞍掛城に拠り、高範は経久に従い、武功を重ね三万石を領し重臣に列した。兵庫介高範の子、大西十兵衛高由に関して、尼子分限帳には、中老大西十兵衛備中之内三万石を領有したと記され、かなりの勢力を持っていたことが知られる。
天文十二年、大内軍来攻に際して富田八幡の後ろにある宮尾に陣を置いて毛利軍を破り、同二十三年(1554)の新宮党の変においても、その討っ手に選ばれ抜群の働きをした。永禄八年(1565)の富田城功防戦では、高由は塩谷口の第一線を守り、攻め寄せる吉川軍をよく押し返した。
富田城開城後、高由は立原氏らとともに、尼子氏の安芸幽閉に従い、のちに義久が幽囚の身を解かれて志道の根の谷に館を構えたあともこれに随った。
■出雲国内、主要豪族割拠図
太字の武将家が尼子十旗。
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宇山氏
宇山氏は、宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木六角氏から分かれたとされている。
尼子氏家中において、筆頭家老の重職を担い、また尼子氏分限帳にもその禄高は十八万七千七百石と、他家に隔絶した大身であったことに繋がったことは間違いない。また、尼子氏の創業のころより、同じ佐々木一族として苦楽をともにしたことは想像に難くない。そして、代々が精励し、飛騨守は、経久より晴久、義久の三代忠勤誠実に仕えた。
飛騨守は久兼を名乗り、嫡子弥四郎とともに尼子家中で重要な地位にあり、牛尾幸清・佐世清宗らとともに御家老衆の筆頭であった。
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立原氏
立原氏は「立原系図」によれば、近江源氏佐々木盛綱の流れであるという。
立原幸綱の子に、備前守幸隆と源太兵衛久綱があり、ともに尼子家の直臣であった。兄幸隆は、備前守を称して、尼子晴久・義久の二代に仕え、本城経常光の応援、白鹿城応援などに出陣した。久綱は、尼子氏の中老衆、山中幸盛の叔父でもあった。毛利家の出雲侵攻にさいして、山中鹿介らとともに義久の近習馬廻衆として活躍する。
富田城篭城戦においては、他の直臣・旧臣が次々と毛利に投降するなか、最後まで抵抗を止めることはなかった。
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佐世氏
佐世氏は、佐々木五郎義清に発する出雲佐々木氏の一族である。義清の四男頼清は湯氏を称し、頼清の三男清信が大原郡佐世郷に住して佐世氏を称した。
清信から八代(七代とも)が清宗で、尼子分限帳によれば、佐世清宗は御家老衆のうち、宇山飛騨守についで二番目の重臣として備後之内において十二万石を領していた。清宗は尼子氏と毛利氏との合戦に度々参戦した。
永禄八年四月、元就が富田城を三面攻撃したときには、尼子倫久の麾下に属して菅谷口をかため、小早川隆景の進撃を食い止めたばかりでなく、これを破って敵を後退させている。
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湯 氏
湯氏は宇多源氏佐々木氏の一族である。出雲守護佐々木義清の孫頼清が出雲国仁多郡湯村を領し、地名に拠って湯氏を称したのがその始まりといわれる。
永正の頃の泰敏は尼子経久に仕え、その子が湯信濃守惟宗である。惟宗は、尼子晴久・義久の二代に仕えた。天文八年八月の毛利元就攻撃に参陣し、永禄元年五月の小笠原応援軍にも加わり、石見出羽表において吉川軍を破る功を立てている。
毛利元就が出雲侵入して白鹿城を攻めると、尼子義久は応援軍を派遣、惟宗はこの軍に加わって出陣した。この合戦は『雲陽軍実記』にその激戦ぶりが描かれている
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亀井氏
亀井氏が尼子氏と姻戚関係を生じ、尼子の一門と認められるに至った経緯については明確な史料に乏しく不祥である。尼子経久決起後は尼子御一門衆の一人として相当重用な位置にいたことは疑いない。
大永三年(1523)毛利元就が家督相続の時、元就排斥の謀議に関係があったのも秀綱であった。戦国大名尼子氏の下で活躍した亀井氏は、その殆どが亀井秀綱であった。そして、当時の尼子家臣団における秀綱の権力は最高のもので家老職筆頭でもあった。
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隠岐氏
天文元年(1523)、隠岐宗清は国府尾(甲尾)城を築き、宮田城から本拠を移した。宗清はここを拠点に、隠岐の統一をめざし、尼子氏の援軍を得て、島前・島後を支配するにいたり、以後、宗清の子豊清、孫為清の三代にわたって隠岐に威勢を振るった。
為清は同族の故もあって尼子氏に仕え忠勤を励んだ。そして隠岐を支配し、永禄三年七月、尼子晴久の本城常光応援軍に参加している。また、隠岐の名馬を晴久に献じて賞せられたことが伝わっている。
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山中氏
「山中系図」によれば、出雲山中氏の祖は尼子清定(貞)の弟幸久であるという。山中鹿介幸盛の名が広く知られている。
三代満盛の注記には、尼子経久に従い塩冶掃部助を討つとあるから、文明八年元旦に経久が富田城奪回を果たした時、これに従って戦功を挙げたということになる。『雲陽軍実記』で、活躍する山中勘兵衛勝重なる人物は、さしずめ満盛に比定されるだろう。
永禄九年尼子氏が滅亡すると、鹿介は尼子氏再興の中心となって各地で転戦するが、天正六年(1578)播磨上月城において、総力を結集した毛利氏の大軍に包囲された。
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本城氏
尼子氏、中期の武将。本城氏の出自については明確ではないが、一説には藤掛城主高橋氏の一族といわれる。経久の時代には盛光の子常光が頭首となり、尼子氏の旗下に入って、三沢・三刀屋と並ぶ有力国人領主となった。常光はその武勇によって重用され、晴久の代には須佐高矢倉城主となる。
特に、石見口の攻防戦で活躍。永禄初年には温湯城に押し寄せた吉川元春の軍と激戦を演じ、一進一退を繰り返しつつ良く守った。
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小笠原氏
阿波守護小笠原長経の孫・長親は弘安の役における功によって、石見国邑智郡村之郷を賜り、同地に移住して南山城を築き同城に拠り石見小笠原氏の祖となった。
戦国時代になると、出雲の戦国大名尼子氏に属して大内氏・毛利氏と対立した。弘治元年(1555)毛利元就は厳島に陶晴賢と戦って敗死させ、周防・長門を領国に組み入れ、石見計略も着々と進めるに至った。
これに対して、尼子晴久は出雲須佐高屋倉の城主本城常光を石見に派遣した。このとき、川本温屋城主の小笠原長雄はこれに協力し、晴久みずからも太田に出陣した。そして、同年七月下旬、忍原において毛利氏と戦い大勝した。
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多胡氏
多胡氏は、大江氏の後裔といわれる。上野国多胡に住んで多胡氏を称するようになった。文永年中に出雲郷地頭となって下向したことが出雲多胡氏の発祥と伝えられる。
多胡氏で最も有名なのが、辰敬で、尼子晴久に仕えて天文九年の毛利元就の居城郡山城攻めに従軍した。 晴久に仕えて軍事、政治につとめた辰敬は学問、弓馬、算術など諸芸十七箇条からなる「多胡家家訓」を記したことも有名であり、 彼自身その実践者として自らを厳しく律し続けた人物でもあった。
主君尼子氏の西の木戸柱として刺賀(石見国)に居城し、永禄五年毛利元就の攻囲を受け、奮戦したがかなわず城と運命えおともにして果てた。
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