佐世氏
花輪違に花角(七宝に花角)
(宇多源氏佐々木氏流) |
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佐世氏は、佐々木五郎義清に発する出雲佐々木氏の一族である。すなわり、義清の二男は泰清、そしてその二男晴清は隠岐氏、三男頼泰は塩冶氏、四男頼清は湯氏、頼清の三男清信が大原郡佐世郷に住してその地名をもって佐世氏を称したことに始まるという。余談ながら、佐世の郷は『出雲風土記』の地名説話によると、素佐鳴尊が佐世の葉を頭にかざして舞ったことに因るとされている。
尼子氏重臣-佐世氏
清信から八代(七代とも)が清宗で、尼子分限帳によれば、佐世清宗は御家老衆のうち、宇山飛騨守についで二番目の重臣として備後之内において十二万石を領していた。また、一族のうち佐世勘兵衛尉は備中で一万四千石余、助三郎は伯州で一万石余、惣三衛門は出雲で五千石を領していた。尼子家中における佐世氏の威勢がしのばれる。
清宗は尼子氏と毛利氏との合戦に度々参戦した。天文九年(1540)九月、尼子晴久が毛利元就の居城安芸郡山城を攻めたとき、永禄三年(1560)七月、晴久が大森銀山山吹城を攻めたとき、ついで同六年八月、毛利元就が吉川元春・小早川隆景らとともに、尼子の拠点白鹿城を総攻撃したときには、亀井安綱・牛尾幸清らと共に義久の弟倫久を総大将とした救援軍の先鋒となって白鹿城に赴いたが、元就の巧みな作戦によって敗れて総退却となった。
永禄三年(一説に五年)十二月尼子晴久が死去し嫡男義久が跡を継ぐと、尼子氏の衰運は目に見えて顕著となってきた。このころ、自分の娘婿である高瀬城主の米原綱寛は毛利に降り、清宗と婿の綱寛とは敵味方に分かれて複雑な関係に置かれることとなった。
そして、永禄八年四月、元就が富田城を三面攻撃したときには、尼子倫久の麾下に属して菅谷口をかため、小早川隆景の進撃を食い止めたばかりでなく、これを破って敵を後退させている。このとき、米原綱寛は小早川軍の第一陣にいたので、清宗と綱寛は敵味方として相まみえる破目となった。戦国の常とはいいながら、二人の心境はどのようなものであったのだろうか。
富田城の三面攻撃に失敗した元就は作戦を一変した。それは、城中に温存されている兵力をなるばく速やかに減退させる作戦で、そのために尼子氏の降将を優遇し、降参の雰囲気を盛り上げることであった。この作戦に対し、すでに食糧も欠乏の極みとなりつつあった富田城内は動揺し、亀井能登守安綱・河本隆任・湯信濃守惟宗ら比較的大身の諸将は続々と毛利軍に投降した。このとき、佐世清宗も嫡男正勝、次男元嘉ともどもに降参の列に加わった。ただ、三男の大二郎だけは城内に残されたので、父兄降参の犠牲となって殺害された。
毛利氏に降る
このように、尼子家中にあっては尼子御家老衆四人の一人としてその武威を輝かした清宗であったが、結局毛利氏の軍門に降った。
ところで、清宗は武事だけではなく、連歌や絵画などのも優れた技量を発揮したことが知られている。天文二十三年一月、尼子晴久は富田城内に逗留していた連歌師宋養らとともに連歌会を催したが、清宗もこれに参加したことが「多胡家文書」にみえている。また清宗が描いた絵は雲谷派の筆意をもって描かれ、地元の旧家に蔵され、その画技の並々ならぬものであったことを今に伝えている。晩年は法体となって源友と号し仏門に帰依した。
毛利に降参した清宗ならびに正勝・元嘉らはそれぞれ毛利氏氏より厚遇されたが、とくに正勝・元嘉兄弟は、朝鮮の役にも従軍し、関ヶ原の役にも参戦して功をたてたことから、戦後、毛利氏が防・長二州に削封され萩に移った後も、彼等の俸禄は減らされることなく、むしろ加増されている。正勝は晩年にいたって朝鮮の役などの功によって、郷里佐世の地に帰ることを許され、父に劣らぬ画技を発揮し、社寺の修復などにも努めた。正勝には子がなかったことから佐世家は弟元嘉の子正景が継ぎ、明治維新に至った。
ちなみに、明治維新が成ってから「萩の乱」の首謀者となった前原一誠は佐世清宗の後裔で、父は佐世彦七といい一誠はその長子で、通称佐世八十郎と呼ばれていたことはよく知られている。
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