米原氏
隅立四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流六角氏族) |
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近江源氏佐々木氏は、鎌倉幕府の発祥とともにその一族の功績によって、佐々木五兄弟で十七ケ国を領した。そして、その嫡流は定綱より三代信綱にいたり、その子四代泰綱の流れより嫡流六角家と、弟氏信の流れより京極家とに分かれて、近江国を南北各六郡に分半知行した。
六角家は泰綱より、頼綱−頼明−時信と続き、その後十四代六角定頼の甥にあたる治綱が定頼の養子に入り、近江国米原郷を領して米原氏を称するようになったという。治綱は尼子経久に仕えて軍功をたてたと伝える。また別説によれば、米原宗勝入道が尼子清定、経久の頃に出雲に来住したともいわれ、米原治綱の法名が宗勝であったものかも知れない。
ところで、米原は近江では「まいばら」と読むが、出雲には「よねはら」と読む姓もいまに残っている。
米原氏では、高瀬城主をつとめた平内兵衛綱寛の名が最も名高く、尼子御手廻り衆の一人として一万七千五百石を領していた。また、綱寛は幼くして秀抜、容姿も端麗であったようで、尼子晴久の寵童であったという説もある。
綱寛の守った高瀬城は、原手郡の穀倉地帯をおさえ、東方にある加茂の大西城、揖斐伊川上流にある三刀屋・三沢城、またその下流にある鳶巣城・平田手崎城などとともに、尼子氏の重要な平站基地で、尼子十旗の一つに数えられる堅城であった。
綱寛は、天文九年(1540)晴久の毛利攻めに参加している。永禄三年(1560)晴久が没し、その子義久の代になって、毛利元就の出雲侵攻が開始されると逸早く毛利方に帰順した。永禄八年の富田城総攻撃には小早川隆景に応じて奮戦している。そして、尼子氏の降伏後は毛利の大友攻めに従って九州に転戦して毛利氏に忠勤を励んだ。
しかし、尼子勝久の復興戦にあたって、勝久の与党である大友宗麟は綱寛に勝久応援を求め、元就は出雲の尼子勢を攻めるため綱寛の帰国を命じた。この間勝久からも恩賞を厚くして招かれていた。綱寛は慎重に構えたが結局、高瀬城に拠って勝久に応じた。布部山の合戦にも尼子方として奮戦した。以後尼子劣勢となっても新山城、高瀬城は奮戦を続けた。元亀二年三月綱寛は力尽きて吉川元春に降った。元春は一命を助け、綱寛は京都に上った。
以後、武士を退き可春斎と号して和歌を詠じ、上杉景勝からの招きも断わって、寛永二十年に死去した。子の綱俊は亀井氏に仕えた。
【参考資料:尼子一門のルーツ ほか】
■参考略系図
・治綱は仮に氏綱の子としています。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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