多胡氏
組み合い一文字に六つ星*
(大江氏流)
仮に付けた名称。大江氏の代表紋は一文字に三つ星として有名なもので、
一文字に三つ星を組み合わせて変形させたものとも想像される。正しい呼称をご存
じの方ご連絡をください。
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多胡氏は大江氏の後裔といい、上野国多胡に住んで多胡氏を称したことに始まる。
文永年中(1264〜74)に出雲郷地頭となって下向したことが出雲多胡氏の発祥と伝えらていれる。一方、
多胡氏はもともと京極氏の被官で、越前守俊英が応仁の乱の功によって石見国中野の地を与えられた。
俊英は余勢城を築くと出雲に土着した。その後、京極氏に代わって
尼子氏が台頭してくるとそのの旗下に入って奉行人となったとする説もある。
また、多胡氏はバクチ打ちの家系であったというものもある。
すなわち、足利義満に仕え「多胡バクチ」といわれるほどバクチの名人であった多胡小次郎重俊の子孫で
重行、高重と続いたが、俊英はバクチを止め京極氏に出仕して応仁の乱で活躍、邑智郡中野四千貫の領地を与えられ、
余勢城を築いたというものである。四千貫の領地を与えられたというのは、にわかには信じられないが、
バクチ打ちの子孫とは面白い話ではある。
いずれにしても、俊英以前の多胡氏の事績は出自も含めて不明というしかない。
文武の名将、辰敬
永正五年(1508)多胡忠重は、尼子経久が願主となって出雲大社の造営に着手したとき、普請奉行となって
工事にあたった。この工事は大工事であったようで、着工後十二年を経過した永正十六年三月にいたって
上棟式を行ったことが知られる。
多胡氏で最も有名なのが辰敬で、父は俊英の子という久秀、いやさきの忠重ともいい判然としない。おそらく、
久秀と忠重は同一人物だったのではなかろうか。
辰敬尼子晴久に仕え、天文九年(1540)の毛利元就の居城郡山城攻めに従軍した。同十二年には、鰐淵寺造営に就いて
僧中が評定の上に造営の事僧中が無断に離山すること、山林の伐採を禁ずるとの晴久の掟を命じ、
さらに、鰐淵寺領の掟を定め、寺領の陣夫、寺領百姓は下地を他所の人に売らない、寺領の百姓は武家奉公を禁ずる
等の晴久の命を伝えている。この後、石見銀山の防衛拠点でもあった刺賀岩山城主に任ぜられた。
天文二十三年(1554)元日、富田城内で連歌師宗養を招いて尼子主従が連歌会を催したときに、辰敬は「ゆくと来と契や花に深見草」を詠じたことが「多胡文書」に伝わる。
永禄元年(1558)五月、尼子晴久は毛利元就の包囲を受けた石見温湯城の小笠原長雄を援助するために大軍を派遣した。この軍に辰敬も参陣した。しかし、この援軍は成功せず、温湯城は毛利氏の攻撃によって長雄は降伏し、毛利家臣となった。
晴久に仕えて軍事、政治につとめた辰敬は学問、弓馬、算術など諸芸十七箇条からなる「多胡家家訓」を記したことも有名であり、 彼自身その実践者として自らを厳しく律し続けた人物でもある。「多胡家家訓」は、手習学問以下容儀まで十七ケ条からなり、
「人の用にたつ」ひとになれ、という実用主義で貫かれたものである。
このように辰敬は教養豊かな武将であり、尼子領の西の守りを担った。
永禄二年、福屋氏が毛利氏に反したことが
きっかけとなって、余勢城は毛利軍の攻撃を受けるようになった。多胡勢は辰敬の弟正国の奮戦もあって、毛利勢を撃退した。つづく
永禄四年の戦いでは、毛利方に夜襲をかけ散々に討ち破った。余勢城の反撃に手を焼いた毛利の吉川元春は調略の
手を伸ばし、正国の家臣別所小三郎を味方につけると総攻撃を行った。裏切り者が出てはさずがの多胡勢も叶わず、
永禄五年、辰敬は奮戦のすえに城と運命をともにして果てた。
津和野藩家老として活躍
辰敬には一男一女があり、娘は湯永綱に嫁ぎ、新十郎を生んだ。新十郎はのちに亀井氏の亀井を継いで、のちに、
津和野藩亀井氏の祖となった人物である。一方、多胡氏は重盛が継ぎ、亀井氏に仕え家老職を務めた。しかし、
寛永十二年(1635)信濃守勘解由のときに、重臣官の反目騒動が起こり、一方の立役者であった勘解由は罪を得て
絶家となった。
重臣間の騒動に際して、事態の収拾につとめたのは、もう一つの多胡家の真清であった。真清は辰敬の孫
新十郎の姉と小原豊前守との間に生まれた子供で母の実家多胡氏を名乗ったものである。
真清は執政として騒動鎮定後、家臣団を再編して亀井家中の刷新を図るととともに検地の施行をみるなど
藩政の基礎固めに尽くした。。
真清の跡は真益・真武・真蔭らの兄弟が相継ぎ、父の遺志である津和野藩政確立に尽力し、
耕地の拡張、産業の開発に尽力した。以後、真蔭の子孫が多胡家を継ぎ、亀井家の家老として明治維新に至った。
■参考略系図
「尼子一門のルーツ」に掲載されていた系図をもとにして、亀井氏との関係も含めて再構成、辰敬の父に関しては異説がある。
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