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宇山氏
隅切り角に四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 宇山氏は、宇多源氏佐々木氏の一族で、佐々木六角氏から分かれたとされている。すなわち佐々木泰綱の子頼綱の流れが六角氏を称し、その弟輔綱が鳥山左衛門尉を名乗り、その後裔が宇山氏を称するようになったというのである。
 輔綱から四代が輔真で、輔真は新田義貞に従い鳥山を烏山(うやま)に改めた。これは、新田氏の一族に鳥山氏に譲歩して鳥の字を烏に変えたといわれ、のちに烏山の烏に宇の字を当て、宇山姓となったと「宇山家系図」に記されている。また、南北朝期宇山氏が宮方であったことも知られる。
 宇山氏の系図をみると、その代数が時代年数に合わせて比較すれば四代以上多いことに気付かされる。これは、おそらく兄弟間あるいは叔父甥間という家督相続を中心に世系が記されたためと考えられる。また、系図に記された人名と、文書や戦記物語などに記された人名も一致しないところが多い。いずれにしても、宇山氏は佐々木氏没落のときに誅殺という憂き目にあったことから、家の文書などが紛失したと思われ、その結果、このようなことになったものであろう。
 さて、宇山氏が出雲に入ったのは、信定のころであったと推定されている。すなわち、出雲守護に佐々木京極氏が任じられ、同系佐々木氏に繋がる宇山氏を日登地頭佐藤氏の旧領に充てたと思われ、その時代は京極氏が尼子氏を守護代に任じたころと考えられる。また、日登郷所領について島根県史は佐々木文書に残る足利義詮の御判ものとして、元日登郷地頭は佐藤二郎左衛門尉であったが、観応二年(1351)また別説に文和二年(1353)佐々木高氏の子近江守秀綱が戦死をして、その報賞として佐々木氏にこの地を与えたと記されている。この地を信定が与えられたのであろうか。
 このように出雲に入部した宇山氏は、佐々木氏の嫡流から出た家系であることから、尼子氏の宗家である佐々木京極氏とは発祥の時点では同格対等の位置にあったと思われる。そのことが、尼子氏家中において、筆頭家老の重職を担い、また尼子氏分限帳にもその禄高は十八万七千七百石と、他家に隔絶した大身であったことに繋がったことは間違いない。また、尼子氏の創業のころより、同じ佐々木一族として苦楽をともにしたことは想像に難くない。そして、代々が精励し、飛騨守は、経久より晴久、義久の三代忠勤誠実に仕えた。

尼子氏筆頭家老-宇山飛騨守

 飛騨守は久兼を名乗り、嫡子弥四郎とともに尼子家中で重要な地位にあり、牛尾幸清・佐世清宗らとともに御家老衆の筆頭であった。 その所領は、先にも記したが石見国内一八万石ともいわれ、一族には、美作国に大きな所領を与えられている。
 久兼は飛騨守となって以降、中央との連絡にあたった。 その後、毛利軍の出雲遠征に際して前衛白鹿城が包囲され援軍が求められると、軍議の場で自信過剰となり、山中鹿介や立原久綱ら若年の進言を無視。 亀井秀綱らととも尼子倫久を報じて援軍に駆け付けたが、元就の老獪な戦術の前に敗戦。 このときは鹿介の活躍などによりかろうじて富田城に逃れ得たものの、白鹿城はまもなく落城しいよいよ尼子方の敗色は明らかとなった。
 そして、永禄八年(1565)元就によって富田本城が包囲攻撃される。元就は小森口、菅谷口、塩谷口の三面攻撃を行ったが、尼子方は善戦して、毛利氏の攻撃を撃退した。このため、元就は包囲作戦をとり、城兵の降伏投降を許さず、 城内の兵糧の枯渇を早めようと企てた。 このとき、久兼は城内の窮状を憂い、自ら私財を投げ打ち、遠く丹波、若狭方面より糧食を求め、 中海安来浦から、間道伝いに運び込ませていた。 これを察した元就により、やがて間道も押さえられ城内はついに兵糧がそこを付いた。 満を持して元就は投降を優遇する高札を揚げたことから、城兵は城を去り毛利の軍へと降るものが続出した。
 ここに至って、牛尾、佐世らの宿将も義久を見捨てて富田城を去ってしまった。 このような中で、最後まで富田城に止まったのが宇山久兼であり、手持ちの兵糧を分け与え、 兵たちの投降を押しとどめようとしたのである。
 ところが、永禄九年正月元日、義久の側近大塚与三右衛門が、「久兼が城内の兵糧を私物化し、いざ毛利に降ろうとしている」などと讒言。 もはや、疑心暗鬼の塊となっていた義久によって、哀れ久兼父子は誅殺の憂き目に遭ってしまった。 これは、讒言であったされるが、毛利氏の謀略ともいい、あるいは、宇山氏が毛利氏に通じようとしていたことが顕われたためともいわれている。いずれにしてもここに宇山氏は没落し、その後、一族は尼子を見限り、毛利へと降った。

参考資料:尼子一門のルーツ ほか】



■参考略系図
「尼子一門のルーツ」に掲載されていた系図。出自を佐々木氏とするものだが、世代数が異常に多いことが分かる。下記系図はそのままに受け入れることができないが、参考として掲載しました。ちなみに(A)の部分に下に記した系が入ることになっている。
 


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