亀井氏
隅立四つ目結/井桁に稲
宇多源氏佐々木氏流
/穂積姓鈴木氏流? |
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亀井氏は宇多源氏佐々木氏の支流といわれている。すなわち、佐々木秀義の子で出雲守護・隠岐義清の孫頼清にはじまるという。しかし、同じく佐々木氏の分かれとしながらも、佐々木義清の孫時清の子が頼清であるという説もある。また、紀州の鈴木氏の一族で、源義経に仕えた亀井六郎重清の後裔とするものもある。いずれにしても、亀井氏の発祥は、不詳としかいいようがない。
その亀井氏が尼子氏と姻戚関係を生じ、尼子の一門と認められるに至った経緯については明確な史料に乏しいが、いずれの頃かにおいて近江源氏と関係が生じたものと想像するしかない。それは尼子分限帳の御一門衆に、尼子下野守(播磨之内十万石)、宍戸大炊頭(宍道か?隠岐之内七万石)、京極相模守(備前之内五万石)、亀井淡路守(三万八千石)、朽木河内守(三万二千石)とあって、尼子の一門に加わった事は明瞭だからである。少なくとも文明十八年(1486)、尼子経久決起後は尼子御一門衆の一人として相当重用な位置にいたことは疑いない。
尼子時代になってから登場する亀井氏には永綱、安綱(武蔵守)、秀綱(能登守)、利綱(新次郎_などがみえる。秀綱と利綱が兄弟であったことははっきりしているが、安綱が秀綱の父であったか、また、永綱が安綱の父であったかについては、これを明確にする史料が乏しい。また、亀井淡路守が上記のうち、いずれに街頭するのか、またそれ以外の人物であったのかも詳らかではない。
天文九年(1540)竹生島奉加帳にみえる亀井太郎左衛門は、亀井秀綱であったと思われる。それは、天文三年(1534)尼子興久の謀叛事件に関与した興久の家来、亀井新次郎利綱の兄が亀井秀綱であったからである。また、それより先の大永三年(1523)毛利元就が家督相続の時、元就排斥の謀議に関係があったのも秀綱であった。戦国大名尼子氏の下で活躍した亀井氏は、その殆どが亀井秀綱であった。そして、当時の尼子家臣団における秀綱の権力は最高のもので家老職筆頭でもあった。
湯新十郎、亀井氏を嗣ぐ
その後、秀綱は毛利氏との攻防戦のなかで戦死したとも、毛利氏に投降したともいわれ、名門亀井氏は断絶せざるを得なくなった。このとき、山中鹿之介が秀綱の女と結ばれ家名を継いだが、のちに山中に復した。その際、鹿之介は妻の妹を養女として湯新十郎に嫁がせて新十郎に亀井氏の名を託した。そのいきさつについては、山中鹿助幸盛が、茲矩の武勇を感じ、外舅亀井氏の名跡を継がせたものだともいう。
茲矩は尼子氏の家臣で重臣の一人でもあった湯左衛門尉永綱の子であったが、上記のように亀井氏を継ぎ、終始鹿之介とともに行動し、尼子勝久を擁して尼子氏再興を図り因幡国などを転戦したが、尼子の旧領の回復は毛利氏の前に挫折した。その後、尼子勝久・山中鹿之介らは、秀吉に属して播州上月城に拠った。上月城は秀吉軍の最前線として毛利軍三万の大軍に包囲され、秀吉は尼子主従を救おうとして、亀井茲矩を上月城に潜入させた。しかし、鹿之介らはそれに応ぜず、結局上月城は毛利氏の攻撃の前に落城、勝久は自刃し、鹿之介は捉えられて、のちに殺害された。
上月城の落城で尼子氏が滅んだあと茲矩は秀吉に仕え、天正九年(1581)の時点ですでに因幡国の鹿野城主となり一万三千五百石を与えられている。なお、そののちの恩賞で秀吉から他国を与えようといわれたとき、「我日本においてのぞむところなし、ねがはくは琉球国をたまはらむ」といって、秀吉から琉球守の受領名をもらったことは有名。
のち小田原征伐・朝鮮出兵にも戦功をああわし、伯耆国の日野銀山の開発にもたずさわっている。
関ヶ原の戦いのときは東軍に属し、戦後、三万八千石に加増され、石見国津和野を領した。あとは子の政矩が継いで、幕末にいたっている。
【参考資料:尼子一門のルーツ ほか】
■参考略系図
湯氏の系図は『湯氏』の項も参照ください。また、亀井氏の系図は『古代氏族系譜集成』に収録されているものを掲載しました。
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