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三刀屋氏
●梶の葉
●清和源氏満快流諏訪部氏


 三刀屋氏は清和源氏満快流で、信濃源氏の一族と伝えられている。すなわち、満快の曾孫為公が信濃守に任じられて信濃に下向、その子為扶は伊那氏を称して信濃源氏の祖となった。為扶の子室賀二郎盛扶の子幸扶は諏訪部氏を称し、中津乗・林・室賀などの諸氏も一族である。そして、諏訪部幸扶の子孫が出雲国飯石郡の三刀屋郷の地頭職を得て出雲に下向、地名によって三刀屋を称したのが始まりである。
 諏訪部助長(扶長・扶永とも)のとき承久の乱が起こり、助長は幕府方に属して活躍、乱後の承久三年(1221)に三刀屋郷の地頭に補任された。いわゆる新補地頭で、三刀屋郷はそれまで御門屋・三刀矢・三屋などと呼ばれていたようだが、助長の下知状が「三刀屋」の地名のあらわれたはじめとなった。
 三刀屋郷には、飽間斉藤四郎時綱という前任の地頭が居座っていたようで、助長の子助盛との間で紛争があった。貞応二年(1223)、北条義時は助盛に知行を安堵し、飽間斉藤四郎との紛争をやめるように命じている。当時、幕府御家人は複数の地の地頭職に任じられ、惣領は鎌倉にいて幕府に出仕し、領地には一族や代官を送って支配することが多かった。おそらく、諏訪部氏も東国を本拠としていて、三刀屋郷に対する支配力は脆弱なものであったと思われる。
 その後、鎌倉幕府は執権北条氏の権力が確立され、多くの御家人たちにとって鎌倉は住みやすいところではなくなっていった。鎌倉時代の中ごろから、御家人たちが鎌倉を離れて地方の領地に赴く例が見られるが、執権北条氏の専制政治を嫌った結果であった。諏訪部氏もそのような一人であり、出雲三刀屋郷を一族の本拠地としたものであろう。

諏訪部氏の出雲土着

 蒙古襲来によって、鎌倉幕府は未曾有の危機に直面した。二度にわたる元寇を撃退したものの、幕府の戦後処理に対する不満が御家人の間に広まっていった。元寇は一方的な襲撃を受けたもので、勝利を得たからといって領地が増えたわけではなかった。一方、元寇に出陣して奮戦した御家人たちは恩賞を求めたが、ない袖をふれない幕府は論功行賞に苦慮した。加えて、北条得宗家の御内人と呼ばれる被官たちが、幕府政治を壟断するようになり、執権政治にもようやく弛緩がみえてきた。
 やがて十四世紀のはじめ、後醍醐天皇が倒幕を計画し、正中の変、元弘の変が起こった。その後の動乱のなかで幕府は滅亡し、建武の新政がなった。しかし、新政も武士たちにとって満足のいくものではなく、武士たちは武家政治の復権を望み、足利尊氏に武士たちの与望が集まった。建武二年(1335)、中先代の乱をきっけとして尊氏が新政府に反旗を翻した。その直後、尊氏の弟直義は諏訪部家の惣領扶重に対して軍勢催促状を出している。
 建武三年、摂津湊川の戦いで楠木正成を破り、新田義貞を敗走させた尊氏は京都を制圧した。後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開き、尊氏は京都に北朝を立て足利幕府を開いた。時代は南北朝の動乱へと動いたのである。出雲守護塩冶高貞は尊氏に味方し、扶重も一族をあげて尊氏方に属した。建武四年には北陸を転戦して越前金崎城攻めに参加、金崎城が落ちると美濃に移動して北畠顕家軍に備えた。まさに、扶重は異郷の地で戦いに明け暮れる日々を過ごした。
 その後、出雲守護の塩冶高貞が幕府に叛して討たれ、山陰地方には山名氏が勢力を伸ばした。諏訪部氏は山名氏に属して行動し、南北朝の動乱期を生き抜いた。山名氏は幕府の有力者に成長し、その所領も「六分一殿」と称せられるまでになった。将軍足利義満は山名氏の勢力解体を企図し、一族の内訌を誘った。そして、康応元年(1389)、山名氏で家督争いが起こり、将軍に追放された山名満幸は明徳二年(1391)に京都を攻めたが敗れて没落した。明徳の乱とよばれる争乱で、諏訪部氏は山名氏から離れていたらしく、翌明徳三年(1392)幕府から山名氏追討の御教書を発せられている。

戦国時代への序奏

 山名氏が没落したあとの出雲守護は京極高詮が補任され、諏訪部菊松丸(詮扶)は高詮から三刀屋郷の安堵を受けた。さらに翌年には将軍義満から、惣領地頭職を認められた。かくして、出雲は新しい体制が成立したが、山名氏の勢力も残存していて三刀屋に山名の残党が攻め寄せた。諏訪部氏は惣領菊松丸をはじめとして、雅楽助・勘解由左衛門尉ら一族総がかりで防戦、敵を撃退した。ついで、古志の戦いに出陣し、一族・郎党から多くの負傷者を出す奮戦をみせた。戦後、守護高詮から恩賞として、下熊谷の内に土地を与えられている。
 このように諏訪部氏が出雲で、山名残党との間で戦いを展開しているころ、南北朝の合一がなり半世紀にわたる動乱にもピリオドが打たれた。その後、室町期における三刀屋氏の事跡は不詳な点が多いが、「三刀屋文書」として伝わる古文書は、数少ない山陰地方の中世文書として、きわめて貴重なものである。
 室町時代になると、守護は領国内の国人領主たちを被官化し、守護大名として権力を行使するようになった。出雲では守護京極氏の下、三沢・神西・牛尾・松田氏らが被官となったようで、三刀屋氏も安堵状を受けていることから被官に組み込まれたものとみられる。そして、出雲の国人らは守護代の尼子氏が守護に代わって掌握し、次第に尼子氏の影響力が強くなっていった。
 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が勃発すると、出雲守護京極持清は東軍に属し、因幡・伯耆・石見の守護山名氏は西軍の中心勢力であった。出雲の赤穴氏、牛尾氏、三刀屋氏らは上洛して西軍の斯波義廉の軍と戦い、三刀屋助五郎(忠扶)は持清の子勝秀から感状を与えられている。翌二年、京極氏は西軍に属す同族の六角佐々木氏と近江で合戦、三刀屋氏ら出雲の国人らも参戦したようだ。

尼子氏の台頭

 出雲は守護代尼子清定が留守を守っていたが、応仁二年の夏、松田備前守の反乱に動揺した。しかし、尼子清定は迅速に対応して、備前守の反乱を鎮圧した。ついで文明二年(1470)、三沢対馬守が反乱を起こしたが、これも清定によって鎮圧された。その後も土一揆や国人衆の反乱が続いたが、尼子氏によって平定され、出雲における尼子氏の勢力は強大化し、ついには守護京極氏から独立して戦国大名を目指すようになった。
 清定のあとを継いだ経久の代になると、尼子氏ははっきりと独立への道を歩みはじめる。経久は守護京極氏への公用銭や段銭の納入を無視し、寺社領を押領するようになった。幕府と京極氏は経久に注意を与えたが、経久の行動は改まらなかった。ついに文明十六年、経久討伐の命が発せられた。これに三沢・朝山・古志、そして三刀屋氏らが応じて富田城を攻撃、経久は母方の実家真木氏をたよって蟄居した。
 その後、経久は謀略をもって富田城を奪還して再起すると、対抗する三沢氏を屈服させた。当時、出雲では三沢氏と三刀屋氏が有力勢力であったが、三沢氏があっさりと降されたことを見た三刀屋忠扶は経久の力量を痛感し、経久に帰服した。三刀屋郷を安堵された忠扶は、その後、大原郡福武村を給わり、さらに熊谷郷一円を取得した。
 このころ、中国地方の覇者は山口の大内義興で、永正四年(1507)、義興はかねてより庇護していた前将軍義尹を奉じて上洛軍を起こした。この陣には尼子経久をはじめ三沢・三刀屋・牛尾・朝山らの出雲国人衆も従った。翌年、義尹を将軍に復帰させた義興は管領代に任じられ、義尹を援けて京都に滞在した。永正十年、出雲へ引き上げた経久は義興が留守にしている隙をついて領土の拡大に乗り出し、永正十五年に義興が帰国したときには中国地方の東部を支配下においていた。義興は領国の回復を企図し、以後、大内氏と尼子氏の抗争が展開されるようになった。
 経久は石見に進出し、さらに安芸方面にも兵を出した。このころ三刀屋氏の当主は対馬守頼扶で、経久に従って石見や安芸に出陣したようで、経久から所領の安堵を度々受けている。享禄元年(1528)、対馬守は家督を嫡男の新四郎に譲ることを願い、経久は新四郎の相続を安堵している。新四郎は尼子氏配下の出雲十旗の一として勇名を馳せる、三刀屋弾正忠久扶(久祐)である。

戦国乱世を生きる

 天文六年(1537)、尼子経久は嫡孫の晴久に家督を譲った。安芸吉田城の毛利元就ははじめ尼子氏に属していたが、やがて大内氏に通じるようになり、晴久が家督を継いだころは大内方の有力部将として知られる存在であった。晴久は元就討伐を企て、天文九年、一族・家中の慎重論を押えて安芸に出陣した。『隠徳太平記』によれば、出雲・石見・隠岐・伯耆など十一州の将兵が従ったといい、出雲からは三刀屋久扶、三沢為幸らが従った。
 尼子の大軍を迎かえ撃つ毛利氏の戦意は旺盛で、大内氏の援軍を待って籠城策をとっていた。晴久は攻撃を繰り返すものの、小競り合いが続き戦果はあがらなかった。そのようななかで、三刀屋久扶は土取場の合戦において活躍している。一方、この土取場の合戦では三沢為幸が戦死している。戦況は大局的にみて尼子方に不利であった。やがて、大内氏の援軍が到着すると、尼子方の包囲陣はつぎつぎと破られ、敗色が次第に濃くなっていった。翌十年、毛利軍は尼子軍を攻撃、ついに尼子軍は力尽き、兵をまとめると出雲へ撤収していった。
 敗戦後、久扶は大内氏に属したが、同十二年の大内義隆の出雲侵略失敗によりふたたび尼子氏に帰順した。晴久は出雲の国人たちをつなぎとめることに苦慮し、弘治三年、久祐は晴久の嫡男義久から一字を賜り久扶と名乗った。しかし、久祐にとっては領地が増えるわけではなく、少なからず不満が残ったようだ。
 その後、毛利氏の勢力は着々と尼子領を蚕食し、永禄元年(1558)元就は石見の攻略に取りかかった。晴久はみずから兵を率いて出陣、大森銀山をめぐる戦いが行われた。この陣に三刀屋久扶も参加し、晴久は毛利勢を撃退して本城常光を大森の山吹城将とした。永禄三年、尼子晴久が死去し、嫡男の義久が尼子氏の当主となった。
 晴久の死は、出雲の国人衆の動揺を呼び、三刀屋久扶は三沢為清とともに毛利方に転じた。同じころ大森の本城常光も毛利に通じ、尼子氏は石見を失った。永禄五年、毛利勢は石見から出雲へ侵攻、その補給路を担ったのが三刀屋城であった。尼子氏は三刀屋城を攻撃して、毛利氏の補給路を断とうとした。宍戸隆家、山内隆通の援軍を得た三刀屋久扶は、八畔峠で熊野入道西阿が指揮する尼子勢を撃退した。

   
三刀屋城址を訪ねる
・三刀屋川越しに城址を遠望 ・登り口に残る苔むした石垣 ・主郭東方の見張台址
→ 三刀屋城址に登る    


毛利氏麾下として活躍

 三刀屋城は尼子方と毛利方の間にあって重要拠点の度を強め、尼子氏にすれば毛利氏の攻撃を斥けるには三刀屋城の攻略は必至となった。永禄六年、尼子方は宇山久兼・牛尾幸清・立原源太兵衛らを大将とする、軍勢をもって三刀屋城に押し寄せた。地王峠の戦いで、三刀屋方は城を出て尼子勢を迎撃し激戦のすえに双方兵をひいた。
 かくして、三刀屋城は尼子方の攻撃を防戦、毛利勢は尼子十旗のひとつ白鹿山城を攻略した。そして永禄八年、毛利氏は尼子氏の本城である富田城の攻撃を開始した。三刀屋久祐は三沢為清・米原綱寛らとともに小早川隆景の陣に属して、菅谷口の先陣をつとめた。尼子氏は籠城戦をもって果敢に毛利氏に抵抗したが、翌九年、ついに力尽き富田城を開いて毛利氏に降った。
 その後、山中鹿之介ら尼子の遺臣は尼子勝久を擁して尼子再興の軍を起こし、あなどれない勢いを示した。天正二年(1574)から三年にかけて。因幡の各所において毛利氏と尼子再興軍との間で戦いが展開された。天正三年、吉川元春・元長父子は、私部城に籠る尼子氏を討つため出雲に出陣した。この陣に三刀屋久扶は元春の麾下に属し、平田に出頭して毛利輝元への忠誠を誓約する起誓文を提出している。とはいえ、毛利氏からの軍事動員を忌避することもあり、なお自律的性格を保っていた。また久扶は天正元年に天台座主補任問題に尽力し、正親町天皇より毛氈鞍覆弓袋などの使用を許可されている。
 私部城を落された尼子軍は京に逃れ、中国地方は毛利氏が支配するところとなった。やがて、織田信長の勢力が中国地方に伸び、三刀屋久扶は山陰方面で毛利方の部将として転戦した。織田軍の中国方面の司令官は羽柴秀吉で、毛利氏は山陰・山陽両方面で秀吉軍と戦いを展開した。天正六年、羽柴秀吉を後楯とした尼子の残党は上月城に入り、毛利氏と対峙した。上月城攻めには三刀屋久扶も参加して激戦が展開されたが、秀吉の撤収によって孤立した上月城は落城、戦国大名尼子氏はまったく滅亡した。
 その後、毛利氏は備中高松城で羽柴軍と対戦、その最中の天正十年、織田信長が本能寺の変で横死し、信長の天下統一の事業は秀吉が受け継いだ。毛利氏は秀吉に帰服し、天正十四年には秀吉の命を受けて九州に出陣、三刀屋久扶も毛利氏に従って九州に渡り小倉城の戦いに参加した。翌年、秀吉みずから九州に入り、島津氏は降伏して九州は平定された。その後、肥後で国衆一揆が起こると、三刀屋久扶・孝扶助父子、三沢為清らも吉川広家に従って一揆鎮圧に働いた。

三刀屋氏、出雲を去る

 天正十六年、毛利輝元、吉川広家、小早川隆景が上洛した際、久扶もこれに同行し徳川家康と面会したという。このことが毛利輝元の疑心を呼び、ついには出雲から追放される結果となった。しかし、久扶が京都に上ったという史料はなく、さらに家康に拝謁したとする記録もない。おそらく、外様である三刀屋氏は毛利氏にとって邪魔な存在になっており、加えて三刀屋城の戦略価値の高さなどから、毛利氏は機会をみつけて三刀屋氏を追放しようと考えていたようだ。
 かくして久扶は父祖代々の地を失い、天正十八年、三刀屋を退去した。その後、京にのぼった久扶に対して家康が八千石をもって仕官を誘ったが、久扶はこれを断わり四日市村で亡くなったと伝えられている。久扶の嫡男孝扶は、文禄・慶長の役が起ると毛利氏に属して渡海して軍功を立てた。しかし、家名の再興はならず、毛利氏を去った孝扶は細川氏と行をともにし、関ヶ原の合戦に際しては丹後田辺城に籠り功があった。
 その後、細川氏からの仕官の誘いを断わり、紀州徳川家に仕えて三千石を給されたという。いまに伝わる『三刀屋文書』は、水戸光圀が行った大日本史の編纂に際して、紀州藩士の諏訪部扶明の蔵していた文書が写されたものである。諏訪部扶明は孝扶の子であったと伝えられ、三刀屋を改めて本姓である諏訪部を名乗っていることが興味深い。・2005年5月11日

参考資料:三刀屋町誌/島根県史/陰徳太平記 ほか】


■参考略系図


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