戦国山城を歩く
山名一族の磯部豊次が拠った平山城─磯部氏館


磯部氏館は但馬東部に位置する山東町の大内集落東端にあり、城址の南麓直下を東の京方面から丹波を越えて西方の但馬へと通じる山陰道が走っている。さらに、西方すぐのところで丹波から遠坂峠越えで但馬に入る古山陰道と交差し、その西方の和田山では但馬から播磨方面へと通じる但馬街道が分岐している。文字通り交通の要衝に位置し、丹波と但馬の境目を押さえている。
城主の豊次は因幡山名氏の一族という山名上野介の子に生まれたが、父上野介が天文四年(1535)に領地を失ったため兄豊直とともに但馬の山名祐豊に預けられたのだという。兄弟を預かった祐豊は部将の波多野秀光に兄弟の養育を託し、兄弟を育て上げた秀光は兄の磯部兵部大輔豊直を夜久野城主に、弟の豊次は新たに野間館を築いて城主とした。この野間館が磯部氏館のはじめである。
戦国時代、但馬守護山名氏は垣屋・太田垣らの重臣の下剋上に悩まされ、但馬南部の朝来郡一帯は竹田城を本拠とする太田垣氏が勢力を張っていた。天文十一年、山名祐豊は朝来郡南部にある生野銀山を直轄領としたが、生野銀山の領有をめぐって太田垣氏との間には不穏な空気が流れた。祐豊は太田垣氏に対する押さえとして、竹田城の北東にあたる要地―磯部・夜久野に城砦を構え、養育していた豊直・豊次兄弟を入れたものであろう。
城址は大内集落を貫通する道が国道九号線と合流する北側の尾根先にあり、城址の一角にある墓地への登り道が そのまま城址へと通じている。

・城址を西方より遠望する



墓所西方の平坦地 ・ 城道と城址 ・ 南端曲輪より城道と帯曲輪を見る ・ 二の曲輪の切岸 ・ 二の曲輪の土壇と主郭西方曲輪切岸


二の曲輪から南端曲輪を見る ・ 主郭西南腰曲輪切岸と二の曲輪 ・ 大手道を見る ・ 主郭西南腰曲輪土塁と主郭切岸 ・ 主郭切岸


上段の墓地左手に広い平坦地があり、東端の切岸は絶壁を呈していて曲輪のようにも見えるが近世の削平地のようだ。 平坦地の西北部を掠める山道を登ると左手に土塁を伴った帯曲輪、登りつめると広い南端曲輪へと至る。 南端曲輪より北方に曲輪が一段、主郭より西方に登る広い曲輪と続く。それぞれ削平は十分で、切岸も見上げるほどに 高く切られている。主郭部の西方斜面には横堀、畝状堀切が切られ、主郭北端には堀切が切られ、北の尾根筋を 遮断している。相当な労力を投入した土木工事であることが実感される。
最高所の主郭は北端に櫓台と思しき土壇があり、東方に帯曲輪を設け、その先に二段の曲輪が築かれている。そして、 南斜面には数段の帯曲輪が築かれ、全体の印象としては山城というより近代城郭を思わせる縄張りで築かれた 居館址というべきものである。城址にたってみると、東南部より主郭部へと至る尾根筋が大手であったように見える。 現在、城址は植林に覆われているが、往時は大手から尾根筋に築かれていたであろう建物群が威容を見せていたことと 想像される素晴らしい城址である。



竪堀を見る ・ 見事な畝堀 ・ 主郭北端の堀切 ・ 北西尾根から主郭を見る ・ 主郭東北の帯曲輪 ・ 東腰曲輪群


東腰曲輪から主郭を見る ・ 主郭への登り土塁 ・ 主郭北端の土壇 ・ 東南曲輪より主郭を見る ・ 磯部豊次/波多野秀光の墓所


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磯部氏館は西方斜面の畝堀、西南に張り出した尾根の曲輪群など、西方を意識した構造となっている。弘治二年(1556)、祐豊は竹田城主太田垣朝延によってより生野銀山を奪い返されるなど、山名氏勢力は衰退の一途をたどっていく。磯部氏館、夜久野城に拠る磯部兄弟は、山名勢力圏の南東部に拠って、丹波方面からの敵に備える一方で竹田城の太田垣氏に対する最前線の任を担っていたのだろう。山名氏の衰退とともに磯部氏も勢力を後退させたものと思われるが、城主豊次、磯部氏館の動向はよく知られない。一説によれば、子の新右衛門は福知山城主となった有馬氏に仕え、有馬氏の久留米転封に従って遠く九州へ移住したという。
一方、夜久野城主の兄豊直は、羽柴秀吉の但馬攻めが起こると秀吉に帰服して、その後の因幡攻めなどに従軍して因幡景石城の城主となった。しかし、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦が起こると西軍に属したため所領を没収され京都に隠棲したという。磯部氏館の豊次も兄と行動をともにしたように思われるが、それを語る史料なない。現在、磯部氏館西方にある墓地の一角に磯部豊次と、古湯台を援けた波多野秀光の墓が祀られている。墓所の説明板には、豊次は此の地にあって寛永二十年(1643)に死去し磯部氏館も廃城になったという。そのままに受け取れば、豊次もずいぶん長生きをしたものである。
ところで、日下部系図を見ると磯部氏という名字がみえる。磯部氏は太田垣氏とは同族関係にあり、祐豊は豊直・豊次兄弟を磯部氏に入れて太田垣氏領の東北部に楔を打ち込んだとも考えられる。ひょっとして、豊直・豊次兄弟は磯部氏そのもので、太田垣氏から祐豊に転じて豊の字を拝領したものであったかも知れない。

・磯部氏館址縄張図 (山名城跡保存会:西尾孝昌氏作成)*曲輪名称は便宜上いれさせていただいた。




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