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戦国山城を歩く
丹波・摂津の境を扼する、数掛山城址
数掛山城は亀岡市の西部に屹立する半国山から東南に伸びた長い尾根の先に築かれた山城で、標高538メートルという高所にある。
平松の土豪森氏が築いた城というが、記録などによれば、天文十九年(1588)、天文二十一年に
八上城主波多野氏の一族波多野与兵衛秀親の名があらわれ上村荘の代官職を有した波多野氏の支城であったことが知られる。
天文二十二年、松永久秀が攻めた「波多野与兵衛方城」は数掛山城であるようだ。
城址は主郭を中心に五つの曲輪、北東の腰曲輪、堀切を隔てた北方高所に出曲輪が築かれている。それぞれの削平は十分ではないが
自然の岩石を巧みに用いて曲輪群を構築している。城址の南西には虎渓谷千軒といわれる中世の寺院跡があり、数掛山城の
大手は千軒寺側であったと思われる。また、水の手は千軒寺のあった谷にあり、おそらく寺院と共有していたのではなかろうか。
いまでこそ不便な山上の城址だが、千軒寺の存在を考えると、さほど不便なところではなかったとも思われる。
もっとも、虎渓谷千軒寺がいつまであったのかは不明だが…
・井手方面の林道から城址を遠望(2009年4月5日撮影)
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起点の広峰神社 城址への分岐 虎口を思わせる岩 城址へ到着 登り道はそのまま竪堀?
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北曲輪の切岸 腰曲輪状の窪地 主曲輪群への土橋と堀切 堀切上の櫓台跡 腰曲輪との切岸
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腰曲輪を歩く - 主曲輪との切岸・石積みが随所に・曲輪は結構広い 北西の竪堀
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城域北西端の切岸 西尾根を防御する土塁道 登り口へ帰還 広峰神社の社殿 大黒山永徳寺の山門
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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