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戦国山城を歩く
丹波氷上郡に勢力を振るった芦田一族の城─沼城址
沼城は芦田氏の主城である東芦田城の南―加古川を隔てた栗住野集落の東方山上に築かれた山城で、
芦田一族の本城というべき栗住野城(館)の詰めの城といわれている。沼城の東方から北方には丹波から但馬、
氷上郡から天田郡へと通じる街道が走り、北方の東芦田城と連携してそれらの街道を押さえる格好の地にある。
城址一帯はかつて修験者が往来したというところだけに、稜線には大岩が連なり、かつて行者堂があったという岩場も残っている。ひたすら岩だらけの稜線を攀じ登っていくと、曲輪であっただろう平坦地があらわれ、主曲輪部と北の出曲輪との分岐点となるピークにたどりつく。ピークから南へ伸びる尾根筋を進むと、こちらも自然の大岩が行く手を阻み、尾根の両側は急斜面が続く文字通りの天然の要害をなしている。やがて、自然の大岩を巧みに利用した北曲輪群を経て、ロープをたよりに岩壁を攀じ登ると主曲輪部へとたどり着く。
城址からの眺望は抜群で、文字通り氷上平野を一望である。いまは樹木にさえぎられているものの、往時は北正面に東芦田城、西山麓の栗住野、北西の青垣方面を眼下におさめる天空の城であったことだろう。余談ながら、国土地理院の地図を見ると沼城主郭のある山頂には三角点の印があるが、岩山ということから通常の御影石を設置できず標識票が埋められているという。沼城が岩山に築かれた城であったことが分かる話ではある。
・山上主郭から城下を眺望
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城址を遠望 登り途中の採鉱跡 岩場が続く稜線 稜線の曲輪 主曲輪部北方の虎口
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主曲輪部北端の大岩 主曲輪 主曲輪南腰曲輪 南曲輪を見る 南曲輪から主曲輪切岸を見る |
主曲輪部はピークを削平した南北に長い主郭(本丸)を中核として、主郭を巻くようにして南に腰曲輪、西に帯曲輪を設け、主郭部南直下の曲輪は東に帯曲輪が付属している。南端に位置する曲輪は城跡で最も広く、自然の大岩を利用した切岸、削平も丁寧で、城址西方の守りの要になっていたことがうかがえる。主曲輪部から西へと伸びる尾根筋は土橋をもった片堀切が切られ、その先の尾根にも曲輪状の地形が連なっているが、いずれも小ぶりなものばかりで見張り所といったものだったのだろう。
沼城は天空の城というべき天然の要害であるが、主曲輪部を見る限り城としては小ぶりなもので、兵の駐屯はともかくとして食糧の確保、貯蔵という点に不安を感じさせる。その弱点を補っているのが北方尾根先に築かれた出曲輪で、中腹の平坦地を主体部とした大味なつくりは兵站基地にふさわしいものである。出曲輪より北西の尾根を下ると栗住野城へと通じている。
こうして城址を歩いてみると、沼城は主曲輪群と北出曲輪、それを繋ぐ尾根筋の曲輪群、そして、西方山麓の栗住野館までを一気通貫に結んだ沼城砦群とでもいうべき大がかりな山城であったことが実感された。
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南曲輪の東帯曲輪 南端曲輪を見る 南部尾根筋の岩場 尾根筋の堀切 南尾根の見張り曲輪
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北尾根筋ピークの曲輪 北曲輪の切岸 城道と土塁 北曲輪北端の虎口 山麓の六柱神社
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……………
さて、沼城は前記のように加古川を隔てた北方山上の東芦田城と相対し、西山麓の栗住野城と一体化して芦田氏勢力圏を形づくっていった。城主は芦田氏だが、その詳しい歴史は不詳というしかない。
戦国時代の城主は芦田上野介光遠であったといい、弘治元年(1555)、赤井・荻野一党と香良で戦い、激選のすえに一族とともに討死、沼城は落城したと伝えられている。残った芦田一族は沼城・東芦田城・栗住野城を回復し、氷上郡から天田郡、但馬にまで勢力を拡大した黒井城主赤井直正に属して勢力を保ち、但馬方面への備えに任じたようだ。やがて、明智光秀の丹波攻めが始まると、ときの城主上野介光信は一族とともに赤井直正に味方して明智に抗戦した。そして、天正二年(1574)の戦いにおいて戦死したという。
一説によれば、天正二年に死んだのは上野介光遠であったとも、光遠のあとを継いだ出雲守家治ともいい芦田氏の歴史はまことに混沌としている。ちなみに、沼城の南西山麓にある芦田氏の菩提寺という明勝寺に祀られた芦田光信の墓石には天正二年九月に没とあり、こちらは信じられると思うのだが…。
・明勝寺境内に祀られた沼城主上野介光信夫妻の墓
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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