戦国山城を歩く
秀吉天下取りの端緒を開いた砦


天正十年(1582)六月、織田信長が本能寺の変で斃れた。翌天正十一年三月、信長後の織田政権掌握をめぐって 羽柴秀吉と柴田勝家が近江・越前の国境において一大決戦を行った。いわゆる賤ヶ岳の合戦で、秀吉は田上山に、 勝家は越前国境の玄蕃尾に本陣を置き、それぞれ本陣を中心として一帯に陣城を築いた。賤ヶ岳砦は羽柴秀吉軍によって 築かれた陣城群の一つで、賤ヶ岳の合戦における最大の激戦地となったところである。合戦記などによれば、 秀吉軍は近在の神社仏閣を破壊し、近くの山々から木々を伐り出し、夜を徹して陣城構築を進めたという。そして、 田上をはじめ大岩山砦、岩崎山砦、賤ヶ岳砦が築かれ柴田軍と対峙した。
戦いは柴田軍の佐久間盛政が、中川清秀の守る大岩山砦を攻撃したことで火ぶたが切られた。盛政の猛攻撃に大岩山砦は 全滅、さらに岩崎山砦も落ち、盛政は賤ヶ岳砦に迫った。そこへ、驚異的な速さで羽柴軍の主力が駆けつけ、盛政は 撤退を余儀なくされた。羽柴軍は撤退する盛政軍を追撃、激しい戦いが展開されて佐久間軍は壊滅、それをみた勝家は 陣を払うと越前北の庄へと軍を退いた。羽柴軍は逃げる勝家を追って北の庄にも攻め寄せ、ついに柴田勝家はお市の方と ともに自害して滅亡した。かくして、賤ヶ岳の戦いは秀吉が天下人への道を駆け登る第一歩となり、 賤ヶ岳砦はその端緒を開くところとなったのであった。
・賤ヶ岳から余呉湖、玄蕃尾城址方面を遠望る



大岩山砦址 ・ 土塁と石垣址 ・ 城将中川清秀の墓碑 ・ 秀吉が指揮を執った猿が馬場 ・ 尾根に残る曲輪址?


砦址-東の曲輪へ ・ 砦北東部の竪堀 ・ 曲輪南側の竪堀 ・ 曲輪南側の武者走り ・ 西曲輪南端部の土塁


賤ヶ岳の合戦要図(城址説明板)



七本槍の標 ・ 公園化された主郭部 ・ 主郭部東北端の虎口? ・ 主郭西の切岸と土塁 ・ 小谷城址方面を遠望


武者の像 ・ 余呉湖西部に続く北西尾根の堀切 ・ 東南端の切岸と登山道 ・ 東南尾根から城址を振り返る ・ 戦没将兵の供養塚


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賤ヶ岳砦は主郭を中核に東と西に曲輪が設けられた三区画で構成されている。遺構一帯は公園化されていて、 相当の破壊がなされたようだが、見れば土塁や切岸、竪堀などはよく残っている。東曲輪から伸びる尾根先に大岩山砦、 岩崎山砦があり、その途中に佐久間軍と戦った秀吉が最初に指揮をとったという猿が馬場の地名が残っている。 一方、西の曲輪は周囲を土塁が取り巻き、そこから北西に延びる尾根先には大堀切が切られている、さらに、 北方の余呉湖側に竪堀が落とされいてることなどから、余呉湖西岸からの柴田軍の攻撃に備えた縄張となっている ようにみえる。賤ヶ岳の合戦は加藤清正・福島正則ら賤ヶ岳の七本槍が有名で歴史にはたした役割も大きなものだが、 砦そのものは合戦ののち捨て置かれたようだ。
山上へは大音側よりリフトが通じていて、簡単にに登ることができる。砦址からは北に余呉湖、西方に奥琵琶湖、 南西には小谷城址から伊吹山、さらに北方はるかには勝家が本陣を置いた玄蕃尾が一望できる。また、登山コースも 整備されており、賤ヶ岳を中心とした湖北の戦国散策も堪能できるところだ。
・写真 :玄蕃尾城址−大手虎口

[ 豊臣氏柴田氏 ]



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