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戦国山城を歩く
賤ヶ岳の合戦、柴田勝家の本陣-玄蕃尾城址
玄蕃尾城は内中尾山城とも呼ばれ、越前国と近江国の国境に位置する柳ヶ瀬山(内中尾山)山上にある。本能寺の変で織田信長が斃れたのち、柴田勝家は長浜城を中心とした近江北部を所領とした。そして、本城の越前北の庄城と長浜城を結ぶ中間点に築いた城が柳ヶ瀬山上の玄蕃尾城であった。勝家にすれば、
来るべきライバル羽柴秀吉との決戦を前に兵站線を強化する築城であったことは疑いない。
天正十一年(1583)、勝家と秀吉は江北の賤ヶ岳付近で激突した。合戦に先立って勝家は玄蕃尾城を本陣として羽柴勢と対峙、緒戦は配下の勇将佐久間玄蕃允盛政の活躍で勝家方が優勢であった。しかし、丹羽長秀の参戦によって勝家本陣と盛政隊の連絡が断たれ、ついに勝家の敗戦となった。
玄蕃尾城の名は佐久間玄蕃允に因むともいうが、よく分からない。
玄蕃尾城は極めて限定された時期の城郭で、築城者もはっきりしており、築城の目的も明確である。さらに中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城として重要なもので、遺構の保存状態も良好である。城郭研究史上でも極めて貴重な存在として、
平成十一年七月、国史跡に指定されて保存が図られている。
・右:現地説明板の案内図
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登り口の記帳ボックス ・ 城址への分岐 ・ 城址南端の横堀 ・ 大手虎口 ・ 虎口曲輪の土塁
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東虎口 ・ 東虎口手前の横堀 ・ 主郭への土橋と横堀 ・ 主郭(本丸) ・ 主郭の櫓台
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主郭東側土塁 ・ 主郭と張出曲輪を結ぶ土橋と横堀 ・ 張出曲輪 ・ 主郭東の横堀 ・ 主郭北側の武者走り
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搦手曲輪の南虎口 ・ 広々とした搦手曲輪 ・ 最北端虎口 ・ 見事な横堀 ・ 搦手曲輪を取り巻く横堀
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……………
城址へは柳ヶ瀬関所跡方面から登山道が整備されているが、手軽に登りたい方々には車で途中まで登れる道もある。登山道は往時の軍道で、倉坂峠で玄蕃尾城と行市山砦方面と分岐する。城址は南北300メートル、東西150メートルの規模で、六つの曲輪で構成されている。一帯はきれいに整備され、最南端部の大手虎口から城域に足を踏み入れ、虎口部曲輪→東虎口と攻めだし曲輪→馬出し→土橋を渡ると主郭(本丸)である。主郭の東北部には櫓台が残り、周囲は厚い土塁が取り巻いている。主郭の東部には張り出し曲輪、北側には馬出しをたてもっとも広い北曲輪に至る。それぞれの曲輪は土塁と空堀で防御され、万全な防御構造となっている。清清しいばかりの保存状態の良さで、非常に観察しやすい山城だ。聞けば定期的な管理が施され、夏場でも見学できるように尽力されているそうで、
山城ファンとしては感謝感激である
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[ 柴田氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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