|
香山氏
●剣酢漿草
●日下部氏流八木氏分流
|
剣酢漿草紋は、新宮町香山の墓地にある香山氏の墓所から採集。戦国時代当時の香山氏の家紋(幕紋・旗印)は不詳、ご存知の方ご教示ください。
|
|
中世、播磨国揖保郡北部に香山庄があった。この香山庄の地頭職として勢力を築き、播磨の中世史に名を残したのが香山氏である。
●香山氏の出自
香山氏の出自は、但馬の古代豪族日下部氏の一族八木氏の分かれと伝えられている。『香山系図』によれば、播磨国衙庄山八木城主八木但馬守重秀の次男秀信の項に、
元暦合戦(源平一ノ谷合戦)ノ時、赤松播磨守頼範ニ属シテ、
摂州矢田部郡並ニ福原下馬等ニ於テシバシバ軍功ヲ顕ワス、
依ッテ揖保郡香山庄地頭職ノ御下文ヲ得領ス
と記され、その子秀忠も地頭職を継承し代々香山城主であったという。しかし、系図の所伝はそのまには受けいられないものである。
日下部流八木氏は鎌倉時代前期の承久三年(1221)、朝倉高清の子安高(重清)が八木庄を分与されて八木を名乗ったことに始まる。そして、八木系図には安高の八代の孫に但馬守重秀がみえ、鎌倉時代末期に生きた人物と思われる。加えて、重秀は但馬国八木庄に居住し、嫡男頼秀以降の代々は八木城主として山名氏の重臣であった。結論として、重秀は源平合戦のころには生まれていなかったばかりか、その居城は但馬にあり播磨国衙周辺には居住していなかった…、系図の所伝は否定されざるをえない。
一説に香山城は、南北朝時代はじめの建武年間(1334〜1338)に香山備後守秀清が築城したといい、重秀との関係からみてうなづけるところである。しかし、香山系図には秀清は香山氏初代という秀信の玄孫として記されており、これも年代的に無理があるようだ。系図の記述を裏付ける史料が現れないかぎり、香山氏のはじめは不明というしかない。
系図の所伝はともかくとして、八木秀信が播磨国香山庄の地頭職を得て当地に土着して香山氏を称したことは十分有りえることのように考えられる。そして、それは南北朝時代以降のことであったとするのが自然なようだ。
●香山氏の伝承、考察
香山氏が拠った香山城は『播磨鑑』に記事があるだけで、従来ほとんど知られていない城であった。しかし、今に残る石垣はいずれも立派な築き方で、かつての規模の大きさを彷彿とさせるものである。城祉に立てば、揖保郡と宍粟郡をつなぐ揖保川沿いの街道が眼下にあり、かつ両岸より山が迫る狭隘な地勢で、軍事的に枢要の地を占めていたことが理解できる。
香山系図によると、初代秀信の曾孫にあたる秀国は、奥州栗原城主二階堂兼藤の女を娶った。そして、兼藤の一子秀清が秀国の婿となり香山氏を継いだと記している。もっとも、二階堂氏系図には秀清の名は見えず、そのような史実も明かではない。
ちなみに、兼藤は鎌倉幕府の政所執事二階堂貞藤(道蘊)の子で、元弘の乱の当時、貞藤とともに京・六波羅にあったようだ。元弘三年(1333)、足利高氏が六波羅を救援すべく上洛したが、船上山に向かう途中の丹波で幕府に反旗をひるがえした。六波羅探題北条仲時は高氏の攻撃を支えきれず、京を逃れて鎌倉に向かった。しかし、江国馬場宿にいたった時、官軍に追撃されて一族将士ことごとく自殺して果てた。このとき、兼藤は陣中より逃れて本国出羽に帰った。
一方、二階堂貞藤は幕府滅亡後は官軍に降り、天皇に赦されて本領を安堵され、雑訴決断所所衆などを務めた。しかし、建武元年(1334)陰謀の故をもって子や孫とともに誅された。このとき、兼藤は香山氏を頼って播磨に落ち延びたとも思われるが、当時の状況から考えてうなづけない。香山氏と二階堂氏の関係はまったく否定できないとはいえ、伝説の域を出るものではないようだ。
■地図:香山周辺(赤丸のところが香山城址)
●赤松氏の麾下に属す
建武政権は時代錯誤な政策により武士の支持を失い、やがて、足利高氏の謀反により崩壊、時代は南北朝の動乱を迎えた。建武政権発足に活躍した赤松氏は高氏に与して、播磨国の守護職に補任され、領内の枢要の地に一族、あるいは幕下と称する豪族を配置した。
香山氏(香山備後守秀清か)も赤松氏の麾下に属し、香山庄地頭職を安堵されて赤松氏と密接な関係をもったものと思われる。そして、香山城を築いて乱世に対するとともに、領内の安定に意を用いたであろう。やがて、秀清の孫秀光の晩年にいたって、重大事件が発生する。すなわち、「嘉吉の変」である。
播磨守護赤松満祐は将軍足利義教に疎まれ、ついには討伐を受けると噂されるまでの状況にあった。嘉吉元年(1444)、満祐は先手をうって、将軍を京都の邸に招いて弑殺する暴挙を行った。義教を討ち取った満祐は、京都の邸に火を放つと、一族郎党を率いて本国の播磨に帰ったのである。
変後の混乱を収拾した幕府は、満祐討伐軍を催した。山陽道からは細川持常・武田信賢ら、また、山陰道からは山名持豊・同教清・同教之ら山名一族が進撃してきた。坂本城を本陣とする満祐は、領内の一族郎党に檄を飛ばした。檄に応じた香山秀光は山陽道迎撃軍に属したようで、六月に明石郡和坂の戦いで討死したことが系図に記されている。
幕府軍の攻勢に赤松勢は諸所で敗れ、ついに本城城山に撤退して籠城したが、そのなかに香山氏の名前な見えない。おそらく、香山氏は秀光の戦死後、嗣子が幼かったか赤松氏を見限って戦線を離脱したのであろう。
●播磨錯乱
赤松氏没落後、討伐戦に活躍した山名氏が播磨守護として入部してきた。この時代の変化に際して、秀光の子秀氏は山名氏に仕えることなく野に下ったようだ。やがて、主家再興を図る赤松旧臣の努力が実って、長禄元年(1457)赤松家の再興がなり、赤松政則が加賀半国の守護に補任された。その後、幕府管領細川勝元と播磨守護でもある幕府の有力者山名持豊(宗全)の対立から、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。
播磨回復を目指す赤松政則は細川氏に味方して東軍に加わり、赤松軍は播磨に攻め入った。以後、赤松氏は山名氏との戦いを展開、ついには山名氏を追い播磨守護職に復活した。その間、香山秀氏は政則に属して活躍、文明三年(1471)、ふたたび香山城を修築して同城に拠り香山庄地頭職も手にいれたのである。
応仁の乱は、京都を焦土と化して終結したが、戦乱は全国に拡大していった。室町幕府の権威は全く衰えて、世は下剋上が横行する戦国時代となった。赤松政則が没し、一族から義村が養子として入ったが、守護代浦上氏が叛するなど播磨には波乱が兆してきた。明応五年(1496)、赤松氏を中興した政則が没すると、一族から義村が養子として迎えられた。ところが、重臣の浦上氏が叛するなど、赤松氏は大きく動揺をみせ、やがて播磨錯乱とよばれる状態となった。香山氏では秀氏のあとを継いだ秀詮が、香山を領して北播磨で一定の勢力を維持した。
浦上氏の台頭に対して赤松義村は、宇野・上月らの諸将をして対抗した。永正十一年(1514)一月、義村は浦上方の衣笠長門守を攻めたが、このとき香山秀詮は三百騎を率いて参陣している。衣笠を討ち滅ぼした義村は、置塩城から白旗城に移った。しかし、浦上氏の勢力は強く、ついには和睦したものの、義村は浦上氏によって幽閉されたうえに弑されてしまった。まさに下剋上であった。
●打ち続く争乱
赤松氏を圧倒した浦上氏は、播磨西部から備前・美作までを支配し、一躍中国筋の戦国大名に成長した。義村の子晴政と反浦上勢は、主家を押領しようとする浦上氏と対立したが、情勢は浦上氏の優勢に推移した。そのような、享禄二年(1529)、流浪の幕府管領細川高国が三石城にあらわれ、浦上村宗に庇護を求めた。翌年、高国を援けて村宗が摂津に出陣すると、晴政は村宗を討つべく一族を募って摂津に攻め上った。
このとき、香山城主備後守秀綱は晴政の弟で龍野城主の村秀の麾下に属して出陣した。当時、香山氏の支配地は香山庄に比治郷・野村郷を加えて、揖北から宍粟郡南部にかけての広範囲なものであったようだ。また、香山大歳神社に伝わる記録「香山大歳大明神頭之次第」にあらわれる香山氏は十七家をかぞえ、一族の繁栄ぶりをうかがわせている。
享禄四年、秀綱は家督を秀義に譲った。このころになると赤松氏宗家の勢力は振るわず、浦上氏の勢力も衰えをみせていた。代わって東播三木城の別所氏、西播御着城の小寺氏、そして播磨北方を領する宍粟長水城の宇野氏らが割拠し、互いに合戦を繰り広げていた。香山秀義は長水城の宇野氏に属して、龍野赤松氏、御着小寺氏らへの備えを担っていたようだ。
ところで、司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』には、小寺政職に仕えたいと願う黒田満隆(如水孝隆の父)が、天文十二年(1543)の暮れ、揖保郡北端の香山城主香山重道を攻めてこれを討ち取ったと描かれている。香山重道は時代的にみれば飛騨守秀義に相当するが、小説構成上の虚構と思われる。
|
|