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戦国山城を歩く
羽柴秀吉が長水山城攻めの陣をおいた、聖山城址
中世の播磨は赤松氏が守護職に任じ、東八郡を三木城を本拠とした別所氏、西八郡を
長水山城を本拠とした宇野氏がそれぞれ守護代をつとめていた。聖山城は揖保川の東岸の堅木山の
尾根先に築かれた小さな城で、明応年間、宇野氏の幕下下村民部少輔則真が築いたものと伝わる。
『赤松播備作城記』によれば、「篠ノ丸城の出城」であったと記され、
篠ノ丸城は長水山城主宇野氏の一族が拠った城であった。
聖山城は堅木山にあることから「堅木城」、また山麓に鎮座する篳篥(ひちりき)神社にちなんで
「ひちりき山城」とも呼ばれる。
城址からは揖保川を挟んだ西方すぐのところに篠ノ丸城、北西方に長水山城が一望でき、
揖保川を越えて山陰に通じる因幡街道を押さえる要衝に位置していた。
天正年間、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国攻めを行なったとき、別所氏、宇野氏らは
はじめ秀吉に通じたが、のちに毛利方に転じて秀吉と対峙した。天正八年(1580)、長水城を攻めた秀吉は、
まず聖山城を落として本陣とした。そして、篠ノ丸城ついで長水山城を落とし、宇野氏を滅亡に追い込んだのであった。
・愛宕神社から篠ノ丸城址・長水山城祉を見る
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西方より城址のある小山を見る ・ 篳篥神社本殿 ・ 神社境内の城址石標と登り道 ・ 整備された登山道 ・ 腰曲輪址を思わせる地形
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往時のものか…登り道の石積 ・ 曲輪址に断つ愛宕神社へ ・ 愛宕曲輪から篠ノ丸城址を見る ・ 山上主郭へ ・ 山上主郭、高まりは櫓台(古墳址)
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主郭東部の土塁 ・ 主郭を東から北に捲く帯曲輪を見下ろす ・ 帯曲輪から主郭を見る ・ 土塁越しに主郭を見る ・ 東尾根に続く曲輪と山道
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……………
城址は尾根先の主郭を中心に西方に愛宕神社が鎮座する腰曲輪、
北から東を捲く帯曲輪で構成されている。東に続く尾根筋も曲輪址を思わせるが自然地形のままであろうと思われ、
東方からの侵攻を防ぐための堀切も設けられていない。
全体の印象としては城というより砦と呼ぶ方がふさわしいところではあるが、主郭西方の櫓台を思わせる
土壇(古墳跡らしい)、東方の土塁、主郭の切岸など見どころは少なくない。何よりも、城址から篠ノ丸城址、
長水山城址を見れば、播磨平定を目前とした羽柴秀吉の高揚した気分を味わえること請け合いである。
城址へは山麓の篳篥神社より整備された山道が設けられ、愛宕神社を経て迷うことなく主郭に
登りつくことができる。また、城址から東方に続く一帯は自然公園として整備され、
北方山麓の花菖蒲園・シャクナゲ園ともに格好のハイキングコースとなっている。城址を訪ねたのち、
のんびりと山歩きを楽しみ、花の季節には菖蒲・シャクナゲを愛でるのも楽しいのではなかろうか。
ところで、登り口に鎮座する珍しい社名の篳篥神社は播磨一宮である伊和神社の遥拝所で、
三韓征伐を行なった神功皇后も参拝したという古い神社である。
平安時代、宮中の楽人が毎年伊和神社で管弦を奏していた。あるとき、洪水のため揖保川を渡ることができず、
この社で奏楽することになった。ところが「篳篥」を忘れていて困ったところ、
社の内陣より篳篥の音がして無事に祭典を勤めおえることができた。
それにちなんで社は「篳篥神社」と呼ばれるようになったのだという。
なんともゆかしい伝説が語り継がれている神社である。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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