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岩村遠山氏
●丸に二つ引両/丸に九字
●藤原氏利仁流
 


 遠山氏の出自については、桓武平氏の末流鎌倉権五郎景政から出たとするもの、藤原利仁流加藤氏から出たとするものがあるが、利仁流加藤氏の分かれとするのが自然なようだ。
 利仁流加藤氏の祖は景通で、景通は源頼義の郎党で、景通の子景貞(景清とも)が伊勢国に下向して伊勢加藤氏の祖となり、景貞−景員−景廉と続いた。景廉の代に伊勢国から東美濃に移り、頼朝が伊豆国で挙兵した時より仕えた。そして、景廉の男景朝が恵那郡遠山庄を領して遠山を家号とし、岩村城に拠った。

遠山氏の繁衍

 信濃・美濃・三河・下総・常陸・相模・武蔵・陸前・羽前・丹波・豊前など、全国的に遠山氏と称するものは多い。これら遠山氏も元祖は遠山景朝としているが、大別すると美濃遠山氏の他に、信濃遠山氏と相模遠山氏になる。その他はそれらからの分かれである。
 相模遠山氏は同国足柄郡松田に拠って栄えた大族で、後北条氏に仕えて重臣となり、大永・天文のころ(1521〜1532)江戸城を守った。武蔵遠山氏は、この分かれで室町時代に成立したものである。遠山氏は何れも「丸に二つ引両」を家紋に用いている。
 『遠山氏史蹟』によると、鎌倉権五郎後裔説は、徳川中期以後遠山地方に広く分布していた説であるらしい。柳瀬などの村落に伝わる記録類、また遠山谷に祀られている八幡社の多くは鎌倉を冠し、鎌倉正八幡と称されていたことなども、遠山氏が鎌倉権五郎より出たとの説を生むようになった。江戸時代中ごろの元文頃(1736)に書かれた『伊那温知集』および『伊那郡実録』、その他『遠山氏由緒』などは、いずれも平氏系であるとし、併せて遠山氏の本国は鎌倉であるとしている。
 利仁流藤原氏説も、権五郎説と同じ時代から遠山地方に伝えられていたものであるようだ。『尊卑分脈』によれば、景朝を遠山氏の初代としている。景朝は、美濃遠山庄の開発をした人であり、岩村城の築城も景朝によって始められたとされている。「承久の変(1221)」には北条泰時に従い、執権の命を受けて公卿側首謀者の一人、一条中将信能の首をはねた。景朝は幕府にその存在を認められた美濃遠山氏の開祖とされるべき人物であった。
 文治元年(1185)、源頼朝は加藤次景廉をもって、遠山庄の地頭に補し、景廉の嫡男景朝はここに住して、遠山を姓とし領主となり岩村城を築いてその本拠としたのである。以後、遠山氏は恵那郡全体に繁栄して一大豪族となり、土岐郡の守護となった土岐氏とその勢力を競うようになった。
 土岐氏はやがて西美濃に移住したので、遠山氏の勢力は土岐郡にも及び、その領土を拡張した。しかし、土岐氏が守護大名として発展し、美濃国に君臨するよになると、遠山氏はその被官的立場となり、南北争乱の頃は両派に分かれ、一部は土岐氏に従って中央に奉公したようだ。

戦国期の遠山氏

 戦国時代の遠山氏は、その事蹟、周辺の豪族との関係をみて、岩村城主として数代または、それ以上遠山地方に土着した豪族であったものとみられる。すなわち、下条氏や遠州奥山氏と婚を結んだり、知久氏とも深い交渉を持ち、相当の勢力を有していた。
 戦国時代の岩村遠山氏の歴代についてみれば、伝わる系図によって様々な名前が散見するが、『美濃両国通史』の「遠山氏系譜」の岩村遠山系には、頼景─景友─景前─景任─御坊丸とある。これが、戦国時代における遠山氏の歴代とみていいのではないだろうか。
 ちなみに、『遠山来由記』によれば、「遠山氏は頼景より分明で景明の建長五年(1253)より永正五年(1508)まで二百五十六年間家系断絶してその相続の正脈を詳にせず」とある。その通りで、諸本伝わる遠山氏系図を見ても、その真偽はもとよりそれぞれの整合性も判然としない。
 来由記に見える頼景は左衛門尉を称したといい、城内八幡神社に残された永正五年銘の棟札に藤原頼景と記された人物とされる。ついで、同じく城内八幡神社の棟札に天文十六年(1547)、遠山左衛門尉景前が見え、弘治二年(1556)没と記された景前の位牌も伝わっている。景前は大円寺の中興をはかり、明叔禅師や希菴禅師などの名僧を招聘し、景前の三回忌に希菴禅師が香語を作っており、景前が名君であったことをうかがわせている。
 景任は「大井武並明神再建棟札」に遠山大和守景任とあり、永禄七年(1564)の上棟のとき、神事厳重に能楽など盛大に行われたとある。来由記には遠山左衛門尉、『旧事記』『諸家系譜』などには友通とある。この景任が岩村遠山氏の最後の人物で、武田信玄の部将秋山信友の侵攻を迎え撃って、激戦のすえに負傷、その傷がもとで死去した。景任の死によって、岩村城には秋山信友が入り、岩村遠山氏は滅亡したのである。

激流する乱世

 戦国時代、遠山氏は岩村・明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が諸城に拠って東濃地方に威を張った。その中でも戦国時代の末期において、岩村城主遠山友通(景任)、明知城主遠山友春(景行)、苗木城主遠山勘太郎(友勝)が、とくに三人衆と呼ばれた。そして、それら遠山氏の惣領たる存在が岩村城主遠山景任であった。
 天文十年(1541)、甲斐の戦国大名武田信虎が嫡子晴信(信玄)のクーデターによって駿河に追放された。武田氏の家督となった晴信は、信濃の侵略を開始し、着々とその版図を拡大していった。このころ、美濃では斎藤道三が主家土岐氏を逐って美濃を支配し、飛騨には三木直頼が勢力を誇り、東美濃では遠山景前が一定の勢力を保っていた。飛騨の三木氏と東美濃の遠山景前とは、大円寺住職の明叔禅師を媒介として親睦を深めていた。明叔禅師は高僧として知られた人物で政治的な動きとは無縁ではあったが、三木直頼の実兄ということから、三木氏と遠山氏との仲を取り持つことになったようだ。
 一方、同じころ尾張には織田信秀がおり、三河には松平清康がいた。清康は尾張を侵略したが、このとき遠山景前ら東美濃の諸将は清康に応じたようだ。その後、松平氏では清康、その子広忠が非業の死をとげ、元康のちの家康が家督を継いだ。尾張では織田信秀が死去し、嫡男の信長が家を継いだ。飛騨では三木直頼が死去するというように、時代は確実に変化を続けていた。
 やがて信濃の攻略を成し遂げた信玄(晴信改め)は、東美濃・三河方面への進出を画策するようになった。この情勢下、岩村城主景前も武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。
 弘治年間(1555〜)になると、織田信長は着々と尾張を征圧し、美濃では斎藤道三が嫡男義龍と戦って敗死した。このころ、武田氏の部将秋山信友が伊那郡代をつとめ、高遠城主となった。大円寺住職の希菴禅師は、武田氏と遠山氏の間を取りなしたようで、両者の間は密接な関係が保たれていた。しかし、景前が死去し、希菴禅師が京都に去ると、にわかに事態は変化を見せることになる。

武田氏との抗争

 永禄三年(1560)、織田信長が桶狭間において今川義元を滅ぼし、翌年、今川氏から自立した徳川家康と結び、東美濃をうかがうようになった。信長は東美濃の有力者遠山景任に叔母を嫁がせ、苗木遠山勘太郎に妹を嫁がせて、遠山氏を味方に引き入れた。その一方で、武田氏に対しても、武田勝頼に養女を嫁がせたいと申し送った。この養女は遠山勘太郎に嫁いだ妹が生んだ娘で、信長が手元で育てていたものである。こうして、遠山・織田・武田三氏の間に融和がなった。その後、信長は美濃斎藤氏を滅ぼして岐阜を本拠とし、ついで、足利義昭を奉じて上洛、義昭を新将軍とした。
 信長が大きく勢力を伸張するころ、遠山氏は土岐郡に侵入して勢力を広げ、遠山三人衆が中心となって恵那・土岐郡、木曾方面まで支配下においていた。そして、遠山一族は信長と結んで、武田氏との対決を余儀なくされていくのである。
 元亀元年(1570)、高遠城主の秋山信友は、三千余の兵を率いて美濃に侵攻した。これに対して岩村城主遠山景任を大将として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の遠山一族をはじめ、東美濃・西三河の兵五千余が秋山勢を迎え撃った。
 両軍は上村で激突し、秋山信友は兵を五手に分けて押し出した。秋山勢の勢いは猛烈で、岩村遠山景任の勢は崩れたち、これを見た明知遠山景行が秋山勢に突進したが、秋山勢によって崩され討死をとげた。その他苗木遠山勢も三十余人が討死し、退却していった。信長はこの敗戦を聞き、ただちに援軍を発し秋山氏を撃退した。

岩村遠山氏の最期

 元亀三年(1572)、武田信玄は上洛の軍を起こした。このとき、秋山信友は伊那先方衆を率いて、美濃国恵那郡にある岩村城の攻撃を担当した。秋山軍の岩村城攻撃に際して、信長は織田信広と河尻秀隆を援将として派遣した。織田の援軍に対して秋山勢は伏勢をおいて、たちまちのうちに潰滅的打撃を与えて退けたのである。
 信友は遠山景任に降服を呼びかけたが景任はそれに応ぜず、返って、包囲する秋山勢に対して出撃してきた。遠山軍の奮戦に秋山勢もよく応戦し、遠山勢は戦死者を残して城内に引き揚げていった。この乱戦のなかで遠山景任は手傷を負い、結局それが命取りとなって戦傷死した。景任の死を知った信友はふたたび降服開城を勧告したが、籠城勢はそれに応じようとしなかった。
 天正元年(1573)、秋山信友は岩村城に攻め寄せた。城主の景任は死去していたが、未亡人おつやの方は、養子として迎えていた信長の六男御坊丸(勝長)を城主として、織田からの援軍が来るまで徹底的に抗戦することを主張した。城兵も御坊丸を守り立てて防戦につとめ、秋山勢を城に寄せつけなかった。ところが、岩村城将の織田掃部は信友との合戦をかわすため、おつやの方と信友を結びつけ、御坊丸の養育を条件に和睦を申し入れた。
 これに対しておつやの方は猛反対したというが、城内も次第に窮乏状態となり、病死・餓死する者も出てきた。ここに至っておつやの方は信友の降服勧告に従い城を開いたのである。 これを聞いた信長は大いに怒ったが、武田氏の勢いは強く、岩村城には秋山信友が入り武田氏の最前線を担うことになった。
 間もなく、武田信玄が死去したことで武田軍は兵を甲斐に帰し、信玄のあとは勝頼が継いだ。武田軍が撤退したことを確認した信長は、二万の兵を率いて岩村城を攻めたが勝敗はつかなかった。そして天正三年(1575)、長篠の戦いで勝頼が敗走すると岩村城は孤立化し、織田信忠を大将とする二万の大軍が攻めてきた。
 信友を主将とする籠城軍は半年に渡って抵抗を続けたが、ついに兵糧つき、信忠の総攻撃によって攻め落とされた。捕えられた信友は信長の命でおつやの方らとともに長良川畔で殺害された。

遠山氏余聞

 鎌倉時代より東美濃地方に勢力を張った遠山氏であったが、惣領家にあたる岩村遠山氏は戦乱のなかで滅亡した。江戸時代には、諸候として苗木遠山氏と旗本の明知遠山氏の二家が存続した。テレビや映画でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、明知遠山氏の末にあたる。
 ところで、「藤四郎」と称される陶工の加藤景正は景廉の兄とされる。しかし、『別所吉兵衛相伝書』には「本姓千野四郎左衛門と称し、加藤景廉の家人にして源頼朝に仕う」とある。藤四郎は平生より陶器作りに励み、建暦二年(1212)唐土にわたり薬石画銹の法を習得し、帰国してのち瀬戸山に窯を造って瀬戸焼を始めたという。この説によれば、景廉との血縁はなく加藤の姓を受けただけということになる。後世、瀬戸焼、美濃焼が殷賑をきわめるにつれ、藤四郎系の加藤氏が尾張・美濃に繁衍していったのである。・2004年10月06日

参考資料:岩村町史/遠山氏史蹟/南信濃村史遠山/上伊那郡史 ほか】

●遠山氏の家紋、考察

■ 江儀遠山氏/ ■ 武蔵遠山氏  ●お薦めWEB─ ●遠山氏のこと



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