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江儀遠山氏
丸に二つ引両
(藤原利仁流加藤氏族)


 遠山とは、美濃・三河・信濃の南部にまたがる山中の総名称で、その境を明確に定めることは困難である。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「遠山庄」または「江儀遠山庄」と見えている。ここに遠山庄とあるのは美濃の遠山をさし、いまの美濃国恵那郡岩村町のあたりをいう。一方、江儀遠山庄とあるのは信濃国恵那郡の南端、天龍川以東の地方をさしている。現在、江儀という地名は残っていないが、元禄より天保ころの信濃の古図に駿河との国境に「江儀山」が見えている。吾妻鏡は美濃の「遠山」と区別するため、信濃の「遠山」は江儀を冠して「江儀遠山」と呼んだものと思われる。
 戦国時代、この江儀遠山庄の地に和田城を築いて、対岸の関氏、下条氏と対峙し、最盛期には北遠にまでその武威を輝かしたのが、江儀遠山氏であった。戦国末期に至ると、北は大河原・鹿鹽・部奈・赤穂を領有し、南は遠州周智郡まで攻略し、信濃南部の豪族である小笠原・知久・下条氏らと並ぶ大勢力を誇っていたのである。

江儀遠山氏の出自考察

 江儀遠山氏の祖は、遠山遠江守景広とされるが、景広に至る系譜経歴は必ずしも詳らかではない。ちなみに、遠山氏の出自に関しては、桓武平氏の流れをくむ鎌倉権五郎景正(政)の後裔というもの、藤原利仁流の加藤次景朝を祖とするものの二説がある。
 鎌倉権五郎景正後裔説は、江戸時代の中ごろより遠山地方に広く分布した説であったようだ。遠山地方に残された記録類、また同地の各所に祀られた八幡社の多くが鎌倉正八幡というように鎌倉を冠しているのも遠山氏が鎌倉権五郎より出たとする伝説を生むもとになったようだ。さらに、『伊那温知集』『伊那郡実録』などの書物や、『遠山家由緒』などは、いずれも桓武平氏説をとっている。
 一方の藤原利仁流の加藤次景朝を祖とする説は、『尊卑分脈』にみえる加藤次景廉の子景朝が遠山をはじめて称したことに拠っている。すなわち、こちらの説は江戸時代に美濃苗木に栄えた遠山氏と祖先を同じくすることになる。
 桓武平氏説、藤原利仁流説、そのいずれが実説であるかの根本的史料はなく、それを証明することは困難というしかないのが実状である。
 遠山氏の出自に関して家紋からアプローチしたのが、『遠山氏史蹟』である。遠山氏の家紋は「二つ引両」と「九字」が知られ、遠山景広が鎌倉から勧請建立したという八重河内八幡社の神紋も「二つ引両」である。さらに遠山氏に関係のある寺院も「二つ引両」を用い、遠山地方の遠山氏を称する家はほとんどが「二つ引両」を用いている。他方、遠山氏で江戸時代に生き残った家もこぞって「二つ引両」を定紋としている。
 このように、「二つ引両」紋は遠山氏の代表的な家紋といえる。それに対して桓武平氏の場合、「三つ引両」を用いる三浦氏の流れを除けば「引両」を家紋とする例は少ない。このように家紋からみた場合、遠山氏は藤原氏の流れとみた方が自然なようだ。
 ちなみに、江儀遠山氏の家紋は「二つ引両」であるものの、二本の線が丸の外にはみ出した図柄である。これは、他の遠山氏と区別するために、意匠に変化を加えた結果と思われる。

江儀遠山氏の戦国時代

 戦国時代後期になると江儀遠山氏の動向が、諸旧記にあらわれてくる。その第一代は遠江守景広で、蔵人正直の子と伝えられている。当時、南信濃は松尾の小笠原氏、飯田の坂西氏、知久の知久氏らの群雄が割拠していた。さらに天龍川の西には下条氏、関氏がおり、それらのなかで遠山氏は龍東の遠山地方に勢力を培ったのである。
 景広は、初め長山城を居城としていたが、勢力拡大にともない遠山渓谷のほぼ中央に位置する和田盛平山に居城を移した。併せて、遠山刑部を高平に、遠山弥助を尾の島に、遠山新助を北方木沢に、南方十原には遠山監物らの一族を配して南信濃における強豪の一に成長したのである。そして神峯城の知久氏や吉岡城の下条氏とは同盟関係を結び、一方で新野の関氏と対峙したのであった。
 天文二十三年(1554)、甲斐の武田信玄が伊那郡に侵攻し、松尾小笠原氏、神峯の知久氏らが没落し、伊那地方は武田氏の支配下に入った。このとき、伊那盆地とは隔たった遠山地方は武田軍の侵攻を免れたが、それから十数年後の永禄末年(十一年ごろ=1569か?)に至って、遠山氏は遠州の天野氏を介して武田氏に降ったようだ。
 以後、景広ら遠山一族は武田氏に属して、姻戚関係にある遠州奥山氏を攻め、久頭合城攻めに活躍した。天正三年(1575)の長篠の合戦に際しては、信濃先方衆として軍糧の輸送につとめた。長篠の合戦は武田軍の壊滅的敗北に終わり、武田氏の勢力はにわかに失墜した。そして、天正十年織田信長は武田氏討伐を企て、岩村口より伊那郡に侵攻した。このとき、遠山景広は一族被官を率いて仁科五郎盛信が守る高遠城に駆け付け、織田軍を迎え撃った。しかし、高遠城は落城し、景広は一族の景俊・刑部、郎党百四十名とともに討死を遂げたのであった。(一説に鎌倉に逃れ、その地で死去したとするものもある)

戦国時代の終焉、遠山氏のその後

 武田氏が滅亡し景広も戦死したあと、江儀遠山氏は景広の嫡子土佐守景直が継いだ。遠山氏は織田氏の甲斐侵攻に際して、武田氏に忠節を尽くしたことから、しばらく逼塞を余儀なくされた。しかし、同年六月、信長が京都本能寺で横死したことで、にわかに甲斐・信濃は混乱状態を来した。
 そして、徳川氏と小田原北条氏が甲斐・信濃に兵を入れ、南信濃は徳川家康の支配下に入った。この激変のなかで、景直は徳川氏の下に馳せ参じてその幕下に入った。天正十三年(1585)、家康は上田城の真田昌幸征伐の軍を起した。この陣に景直は下伊那の諸将とともに家康側として出陣し、諸処の合戦に活躍した。このとき、徳川軍は真田昌幸の奇策に翻弄され散々な敗北となったが、景直はその時の功が認められ、慶長初年(1596ごろ)領地の安堵を得たのである。すなわち、先祖伝来の遠山六ヶ村のほかに、箕輪、福島、赤穂、福与、部奈の地で併せて三千石を与えられた。
 遠山氏は景直の代に過去最大の領土を得て、全盛期を迎えた。景直は領民にも慕われ、大坂の両陣にも出陣し枚方の水駅の守備にあたった。豊臣家は元和元年の夏の陣で滅びたが、同年の九月、土佐守景直は居城の和田城において病死した。
 景直の後は嫡子の景重が継いだが、生来の病弱で元和三年(1617)に病死してしまったため、飯田藩の家臣二木勘右衛門の次男小平次が養子に迎えられて家督を継いだ。ところが、景重は遺書を残しておかなかったために、景重の弟景盛と小平次との間に相続争いが起こった。両者の争いは公儀の裁決によって、小平次が八百石、景盛が五百石をそれぞれ相続するということに落ち着いた。
 しかし、景盛は納得せず、両者の争いは領民にまで及んだ。ここに至って、幕府は遠山家の領地をすべて没収し、天領として代官預かりにしてしまったのである。これにより、遠山氏はあっけなく滅亡の憂き目となったのであった。

主な参考文献:遠山氏史蹟・南信濃村史遠山・上伊那郡史 など】

●遠山氏の家紋、考察

■ 岩村遠山氏/ ■ 武蔵遠山氏  ●お薦めWEB─ ●遠山氏のこと



■参考略系図
・『遠山氏史蹟』から作成。  
  


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