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諏訪氏
●三ッ葉根あり梶の葉
●国造金刺氏の後裔/清和源氏説も
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信濃の戦国時代に小笠原氏・村上氏・木曽氏と並んで「信濃四大将」の一と称された諏訪氏は、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族である。
その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
諏訪神のそもそもの始まりは『古事記』のなかの伝承にみえている。すなわち、出雲の大国主命が大和朝廷系の建御雷命に国譲りを迫られたとき、大国主命の子建御名方命はこれに反抗したが、敗れて「科野国之州羽海」に逃れ、この地以外の地に行かないことを約束し、命を助けられた。現在の諏訪大社は、前八坂刀売命を祭神とする前宮および建御名方富命を祭神とする本宮がある上社と、建御名方富命・前八坂刀売命の二神を春宮・秋宮として半年ずつ祭っている下社とがある。
諏訪大社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある記事である。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる。
諏訪氏の出自、諸説
諏訪氏が史料上に登場してくるのは、『平家物語』『源平盛衰記』の記事においてであり、古代において諏訪氏の呼称は見られない。古代の文献などに登場するのは金刺舎人であり、下社の大祝の初めとなった貞継は金刺宿禰姓を賜り、その兄にあたる貞長は太朝臣の姓を賜ったことが『三代実録』に見えている。そして、実録において貞長は「信濃国諏訪郡人」で「神八井耳命之苗裔也」と記されている。また、金刺氏の系譜を引く武士に手塚氏が知られ、源平時代の手塚別当金刺光盛は源義仲に従って活躍したことが『平家物語』に見えている。
ところで『金刺系図』を見ると、下社大祝盛継に注して「諏訪太郎大夫」とあり「始木曽義仲後源頼朝」としているものもあり、つづいて盛重、さらに盛重の子として、盛高・重願・盛経らが記されている。そして、『尊卑分脈』をみると、満快流の系図のなかに、手塚太郎信澄、その孫に諏訪太郎盛重、盛重の子に諏訪太郎左衛門尉盛高その弟諏訪三郎左衛門尉盛経が見え、清和源氏との関係をうかがわせるものとなっている。
他方、上社大祝の初めとなった乙頴は系図の注記によれば一名神子といい、また熊古ともいったとある。そして、さらに乙頴につづいて大祝となった隈志侶は御木衣祝と称したという。ところで、『諏訪の歴史』に、桓武天皇の皇子有員親王は熊子ともいい、諏訪明神がこれに神衣をぬぎ着せて「我に体なし、祝をもって体となす(現人神)」といったという話が記されている。これらのことから、乙頴あるいは隈志侶と有員は同一人物とも考えられる。しかし、乙頴・隈志侶の時代と有員の時代とはかなりな隔たりがあり、『神氏系図』などを見ると有員は乙頴から八代の孫として記されている。加えて、桓武天皇の皇子に有員親王は見えない。
このように、諏訪氏の出自に関しては、古代信濃国造の子孫、清和源氏の分かれ、桓武天皇の後裔とする説があり、ほかにも諏訪大社の祭神である建御名方命の後裔とするものもある。いまとなっては、それらの真偽を確かめることは不可能というしかない。
諏訪氏の武士化
諏訪上社の大祝が諏訪氏を称し、武士化していったのは他の武士と同様に平安時代末期のころと思われる。諏訪大社は、常陸の鹿島・香取社などと並んで、軍神の扱いを受けており、諏訪神を祀る諏訪大祝と一族も武士団として成長していったものと思われる。
ここで、考えておきたいのが諏訪上社の諏訪氏は「神氏」で、下社の諏訪氏は「金刺氏」といわれていることである。先述のように、古代において金刺氏の名は見えるが、諏訪氏(神氏)の名は見えない。のちに諏訪氏とその一族は「神氏」あるいは「神党」などと称されるようになるが、神氏の史料上における初見は鎌倉時代の後半になってからなのである。すなわち、文永八年(1271)『笠原信親證文目録』に「左衛門尉神信親」とあるもので、以後、次第に神氏を称するものが増えてくる。
おそらく、上社・下社ともに大祝の本姓は金刺氏であり、鎌倉時代以前の諏訪社の所領のことを記した記録には「上下社領」とあり、諏訪社は上社・下社に分かれていたものの、所領は完全には分かれていなかった。それが、鎌倉時代に入ると、上社・下社に分かれた史料が増えてくる。
そして、南北朝期以降に成立した『神氏系図』によれば、有員から十六代目とされる為信は子の為仲を「前九年・後三年の役」に源義家の軍に従わせたという。そして、為信の子の代から庶子家が分出するようになり、のちに神党と称される武士団に発展していくことになる。また、上社諏訪氏では大祝の地位にあるものは、諏訪郡の外に出ないという定めがあり、「保元・平治の乱」「治承・寿永の乱」などの戦いに際しては、子息や一族が大将となって出陣した。
鎌倉幕府が成立すると、信濃守護は比企能員が任ぜられたが、頼朝死後の「比企の乱」で滅亡、執権北条義時が守護職を手中にした。以後、北条氏は有力御家人を倒して所領を拡大し、弘安八年(1285)の「霜月騒動」で安達氏に連座した佐久郡伴野荘の伴野長泰が没落するとその所領は北条一門の支配するところとなった。このようにして拡大された信濃の北条氏領で注目されるのは、将軍散在所領も北条氏が守護領として支配をしていたことであろう。
信濃の一宮である諏訪上社も、頼朝時代から将軍家領であったと考えられるが、社家諏訪氏が北条得宗の家臣(御内人)になったことで北条氏領となっていったようだ。加えて、北条氏の信濃支配の上で重要なことのひとつに、大祝をはじめとする諏訪武士団の家臣化が挙げられる。
北条氏との主従関係
諏訪氏が大きく勢力を伸ばす契機となったのが「承久の乱」であり、その後の北条氏との密接な関わりであった。『吾妻鏡』によれば、上社大祝諏訪盛重は、嫡子信重を東山道軍に派遣したとあり、『承久記』には、信重は「軍の検見役に指添えられ」たとみえ、信重は信濃国諏訪氏系武士団の統率者として派遣されたものと考えられる。乱後、信重の父盛重は大祝の職を退き、鎌倉に出向して執権北条泰時に仕えて活躍した。
諏訪社に関わらず一宮は、その造営・祭祀などに関して国衙に管掌される面が多く、東国では事実上は守護が管轄していた。こうした政治的な背景から、諏訪社の造営・祭祀などを仲介として諏訪氏と北条氏の主従関係が生まれたものと推測される。
以後、諏訪氏は北条氏家臣団の最有力者として、北条氏の勢威が高まると、それに比例して諏訪氏の武威も高まった。その結果、諏訪氏のもとに信濃各地の武士が集まるようになり、諏訪氏を中心とした血縁あるいは地縁の武士が連合してできた党的な武士団が「神党」である。その構成員としては、小県・佐久郡方面から滋野姓を名乗る祢津・望月・臼田氏らのほかに、四宮・三塚・笠原・千野・藤沢・中沢・知久・香坂氏ら、諏訪・伊那・高井郡など広い範囲の武士たちが集まっていた。北条氏はこうした諏訪氏を中心とした武士団を育成し、掌握していたのである。
一方、北条氏の信濃支配において、諏訪氏が大祝をつとめる信濃一の宮諏訪社の祭祀組織が果たした精神的役割も大きかった。諏訪上社の神事奉仕は、十二世紀ごろから国衙の管掌のもと武士たちによって行われてきた。鎌倉幕府はこの制度をもって武士を統制しようとし、神事奉仕の頭番にあたった御家人は鎌倉番役を免じられるなど、多くの特権が与えられた。北条氏が幕府の実権を握るようになると、諏訪氏との主従関係を活かして、制度を積極的に編成し、信濃御家人を統轄する有効な手段としていった。
かくして、諏訪氏は北条氏との関係を背景に勢力を築き、最後まで北条氏に忠節を尽くすことになった。そのことは、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦したことからも知られる。
南北朝の内乱
元弘三年(1333)、北条氏が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、その政治は長く政治の実務から離れていた公家たちによる時代錯誤なものであり公正を欠くことが多く、多くの武士から反発を受けた。そして、各地で新政に対する反乱が続発したが、そのほとんどは北条氏が守護を務めた国とか、北条氏の旧領で発生した。そのなかで、最大の反乱となったのが建武二年(1335)、信濃に起こった「中先代の乱」である。しかし、信濃ではそれ以前から北信と中信で反乱が起こっていた。
信濃で北条残党の反乱が続出したのは、信濃国がかつて北条氏の守護任国であり北条政権の強力な基盤になっていたこと、諏訪氏を中心とした諏訪神党という有力な武士団が形成され北条氏に忠節を尽していたことが挙げられる。さらに、北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社大祝のもとに匿われてていたことがあった。
建武二年(1335)、時行を擁して挙兵した諏訪頼重は府中に攻め入り、国衙を襲撃して国司を自殺させると、東信を経て上州に進撃した。その間、各地から馳せ参じた武士団でたちまち大軍となり、その勢いで武蔵国に攻め入った。中先代軍は、女影原・小手指原・府中などで足利軍を撃ち破って鎌倉に迫り、足利軍を一掃して鎌倉を制圧した。しかし、中先代軍の鎌倉支配も尊氏の巻き返しで、わずか二十日間で瓦解した。時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。しかし、信濃ではその余波ともいうべき小さな反乱が続いたが、尊氏党の信濃惣大将である村上信貞によって鎮圧されていった。信濃守護小笠原貞宗も国内を東奔西走し、中先代軍の残党を掃討した。
中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏・下社の金刺氏で、それに諏訪一族の藤沢氏、下伊那の香坂氏、祢津・望月・海野ら滋野一族らが加担した。以後、信濃国は南北朝の対立を軸とした新しい局面を迎えることになるのである。
延元三年(1338)の秋、宗良親王が遠江に入り、これに呼応して北条時行が伊那郡大徳王寺城に拠って兵を挙げた。この挙兵には、諏訪頼継や伊那の武士たちも加わった。しかし、小笠原貞宗の攻撃を受けて城は陥落、この敗戦は信濃のみならず近隣諸国の宮方軍にとって大きな打撃となった。
康永三年(1344)、宗良親王は伊那に入り香坂高宗の拠る大河原に身を寄せた。以後、三十一年間にわたって大河原を拠点に宗良親王は活動を続けた。そして、文和四年(1355)八月、桔梗ヶ原で守護方に決戦を挑んだ。この戦いに、諏訪・仁科氏ら信濃宮方も参加して奮戦したが、宮方勢は完敗して再起不能の状態に陥った。その後も宗良親王は大河原にあって頽勢挽回に尽とめたが、ついに文中三年(1374)、再起の夢破れ寂しく吉野へ帰っていったのである。桔梗ヶ原の敗戦によって信濃の宮方勢力は駆逐されたが、その後は次第に強まる守護の領国支配に抵抗する、国人領主たちと守護との対立が表面化してくるのである。
信濃争乱の序奏
南北朝時代は、国人たちが領主的発展を推進しようとして、荘園・国衙領を押領することが多かった。守護はこのような国人の荘園強奪を抑止し、国人を統制するため幕府=守護の支配秩序を確立しようとした。その必然的な結果として、守護と国人との対立関係をきたしたのである。その対立は武力闘争に発展し、しばしば国人と信濃守護との間で合戦が繰り返された。
そのような情勢下の応永七年(1400)、小笠原長秀が信濃守護職に補任されたのである。長秀はもっとも慎重を期すべきときに守護となり、信濃に入部した。しかし、長秀は京都育ちの貴公子然とした人物で、信濃の在地情勢に対する状況把握も甘かった。都風な装いで善光寺に入った長秀は、挨拶にきた国人たちに不遜・尊大な態度で接し、おりから収穫期にあたる川中島に守護使を入部させるなどして国人たちの領主権を脅かした。このような守護長秀の態度に不満と不安を募らせた国人たちは、ついに応永七年九月、村上満信・大文字一揆・高梨勢らを中心として蜂起した。
国人連合軍と守護軍は篠ノ井付近で激突し、守護方は散々に敗れて、小笠原長秀は命からがら京都に逃げ帰り守護職を解任された。これが、「大塔合戦」とよばれる戦いである。この乱に諏訪氏自身は参加していなかったが、有賀美濃入道が、上原・矢崎・古田氏ら三百余騎を率いて国人方に参陣し、大塔古要害の大手口を攻めたことが『大塔物語』に記されている。
乱後、信濃は幕府直轄領となり、国人領主たちは自立化の道を進もうとしたが、幕府軍によって次々と制圧されていき、信濃国は室町幕府体制に組み込まれていった。その間、小笠原氏は勢力を回復し、「上杉禅秀の乱」に活躍した小笠原政康が信濃守護に返り咲いた。そして、永享の乱(1439)後の「結城合戦」には信濃国人を率いて出陣、信濃国人は守護小笠原氏に属して結城城攻撃に加わった。この結城合戦に、諏訪氏も代官として諏訪信濃守を送っており、信濃一国は小笠原政康のときに守護権力による統一がなったのである。
かくして、信濃国は守護小笠原氏による権力が確立されたが、嘉吉二年(1442)守護小笠原政康が死去したことをきっかけとして「嘉吉の内訌」が起った。小笠原氏は伊那と府中に分かれて相続争いを繰り返し、さらに伊那では鈴岡と松尾に分かれて、小笠原氏は三つ巴の骨肉相食む内乱となった。その結果、守護権力は弱体化し、国人層も複雑な動きをみせるようになり、信濃一国は内乱状態に陥ったのである。
諏訪氏の二重構造化
ところで、諏訪氏は古代以来、祭政一致の統治形態をとり、神を祀る大祝家は政治権力の掌握者でもあり、その身は現人神(神霊の肉体的表現)ともみなされ聖なる身として神域である諏訪から外に出ることをタブーとされてきた。諏訪上社祭祀体系の頂点に立つ大祝は、諏訪氏一門が惣領家の幼男もしくは一門の子弟を奉じて実現するもので、いいかえれば幼児というべき年頃であった。そのため、諏訪氏が武士団として戦乱の打ち続く中世を生き抜くためには、幼い大祝に替わって惣領が戦陣の指揮をとり、諏訪地方の領主として領地の経営にあたったのである。
そして、神事運営に際しては大祝を頂点として、神長官・祢宜大夫・権祝・擬祝・副祝が実務官僚的祠官として存在し、大祝は惣領とともに前宮の神殿にいたのである。このようにして、諏訪氏は聖なる世界の権威である大祝と、諏訪一門の棟梁である惣領という二重構造を強めるのである。
とはいえ、大祝が幼児の間は権力を行使することもなく、惣領の支配体制を脅かすことはなかった。しかし、大祝の地位に長くとどまって成人になると、祭政一致の体現者という意識がややもすれば強くなり、権力への志向をみせるようになった。そして、ついには惣領と大祝の間に対立が生じるようになるのである。
諏訪氏は中先代の乱後、大祝頼継は朝敵ということで大祝職を失ったが、南北朝の内乱期は南朝方として足利尊氏に抵抗しながらも、大祝職は惣領家の系統である信嗣・信貞・信有・有継と伝えられてきた。しかし、有継以後の大祝は惣領家から出ず、ほとんど傍系から輩出するようになった、その結果、惣領家と大祝家の系統が分離し、在位期間も長引くようになった(平均十一年)ことで大祝の力が高まり、ともすれば惣領家と対立するようになった。
その背景には、南北朝期の内乱からその後の中世争乱のなかで惣領制的な分割相続から嫡子(惣領)による単独相続へという変化があった。惣領への権力集中がいちじるしくなると、惣領への就任志向が高まり、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになった。その一事象が信濃守護小笠原氏の内訌であり、諏訪氏もそのような時代相と無関係ではなかったのである。
諏訪氏の内訌
諏訪氏の内訌は、康正二年(1456)大祝伊予守頼満とその兄で惣領安芸守信満が争ったことが、「此年七月五日夜、芸州・予州大乱」と『諏訪御符礼之古書』に見えている。争いの原因は不明だが、頼満とその子頼長とは永享(1429〜40)以来、大祝の位にあって勢力を拡大し、惣領である兄信満に対抗するようになったのであろう。乱そのものはそれほど大きなものではなかったようだが、この争いを機に惣領信満は上原に移住し、大祝頼満は前宮に残って、大祝家と惣領家とは分裂状態となった。
文明十一年(1479)、伊那の伊賀良庄に府中小笠原氏が侵攻し、諏訪氏は伊賀良庄の小笠原政秀(政貞)を支援するため、大祝継満は高遠信濃守継宗とともに出陣した。府中小笠原氏は下社および下社系の武士団と結んでおり、諏訪氏は対抗上伊賀良庄の伊那小笠原氏と結んでいたのである。翌十二年になると、伊那の小笠原政秀と叔父光康が争い、光康は府中の小笠原長朝を味方に付けたため、諏訪氏は政秀に援兵を送っている。この年、小笠原長朝は仁科氏を破り、さらに諏訪氏の保護下にあった山家氏を攻撃した。これに対して翌十三年四月、諏訪惣領政満は仁科氏・香坂氏らと協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。
以後、諏訪氏の惣領政満は、甲斐にも出陣するなどして伊那・筑摩郡にまでその勢力を及ぼした。しかし、台頭いちじるしい大祝継満との関係から微妙な立場におかれていた。継満は大祝の位にあること二十年におよび、伊那小笠原氏を支援して出陣もしていた。年齢も三十歳を越えており、惣領政満の指図にも従おうとはしなくなった。
そのような文明十四年、諏訪氏一族の高遠継宗と高遠氏代官の保科貞親とが対立し、大祝が調停に入ったが不調に終わった。その結果、保科氏には千野氏・藤沢氏らが同心して、笠原氏らの支援を受けた継宗と笠原で戦い高遠方が敗れた。その後、保科氏と藤沢氏とが対立し、惣領政満は藤沢氏を支援した。さらに府中小笠原長朝も藤沢氏を支援する立場をとり、小笠原・藤沢連合軍は高遠継宗配下の山田備前守が守る山田城を攻めたが失敗するという結果になった。
このように、大祝継満は高遠の継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。そして、翌十五年(1483)一月、大祝継満は惣領政満父子を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠るという一挙に出た。一気に上社の支配権を掌握しようとしたのである。これに対し、矢崎・千野・小坂・福島・神長官らの各氏は、大祝のとった行動を支持せず大祝の籠る千沢城を襲撃した。大祝継満は父頼満をはじめ一族に多数の犠牲者を出し、高遠継宗を頼って伊那郡に逃れ去った。
諏訪氏の戦国大名化
この諏訪上社の大乱に対して、諏訪下社の金刺氏は継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。金刺氏は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、下社勢を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。金刺興春は討ち取られ、金刺氏は没落し、下社は一時衰退してしまった。
翌年五月、小笠原政秀の援助を受けた大祝継満は、高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し、上社近くの片山城に籠城したが小笠原長朝に攻められて退去した。十二月、さきに継満に殺害された政満の二男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政を一つにした諏訪惣領家が諏訪郡を支配するようになった。しかし、継満は滅亡したわけではなく、十八年には大熊に新城を築き、十九年には継宗が諏訪に攻め入るというように、諏訪氏と継満一派との戦いは繰り返されたのである。
この一連の抗争は「文明の擾乱」と称され、大祝と惣領家の激突によって諏訪氏内部における二重構造が解消されるという結果になった。こうして、文明十五年より天文八年(1539)に至るまでの約五十六年間、頼満が惣領として君臨し、その間、下社の金刺氏を攻め滅ぼし、諏訪地方に大名領国制を展開するようになった。
こうして頼満は諏訪氏中興の主とよばれ、戦国大名としての諏訪氏は、頼満の代に始まったとされるのである。しかし、その実態は諏訪の在地領主・小領主連合を従属下におく盟主的存在から離脱するまでには至らなかったようだ。さらに、頼満の治世に関しては、史料も少なくその詳細を知ることができないというのが実状である。
信濃の戦国時代
十五世紀から十六世紀にかけて信濃の隣国甲斐では、武田一族の内訌が続いていたが、信虎が家督を継ぐと反抗勢力を抑えて国内統一を果たした。そして、その鋭峰を強力な統一勢力のいない信濃に向けてきたのである。信濃で武田氏によって最初に侵攻された諏訪郡は、甲斐に隣接し信濃の各方面に通じた交通の要所であり、信濃侵略の基地として格好の条件を備えていた。しかも、諏訪郡を支配する諏訪氏は一族の内紛のあとで不安定な政情にあった。
享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したが、頼満はよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。その後も、両者の間で小競り合いが続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。
ところで、信濃は守護職をつとめる小笠原氏が最大の勢力を持っていたが、永年にわたった一族の内訌で勢力は後退を余儀なくされていた。府中小笠原氏を継いだ長時によって一族の内紛は克服されるが、守護大名から戦国大名へと発展する機会を逸しており、その支配領域も中・南信三郡であった。そして、北信には村上義清が勢力を築き、その支配圏は小笠原氏をしのぐものがあった。この小笠原・村上の二氏が信濃を代表する勢力として、それぞれ戦国大名領国制を展開しようとしていた。
この二大勢力の間にあって、諏訪氏は諏訪郡を一円支配し、伊那郡南部に進出しようとする有力な勢力として、小さいながら戦国大名領国制を展開していたのである。頼満は天文八年(1537)に死去したが嫡男の頼隆はすでに死去しており、嫡孫の頼重が家督を継いだ。翌年、頼重と信虎の娘との間に婚儀が整い、諏訪氏と武田氏とは姻戚関係に結ばれたのである。
武田氏との同盟関係を背景に、頼重は小県郡へ進出し、天文十年五月には、武田信虎・村上義清らとともに海野・祢津氏らを破り所領の拡大を図っている。
諏訪惣領家の滅亡
ところが天文十年六月、甲斐でクーデタがあり、信虎は嫡男晴信と晴信を擁する重臣らによって駿河に追放されてしまった。かくして晴信が武田家の家督を継ぐと強硬策に転じ、諏訪頼重に対する侵攻作戦が進められた。翌年六月、晴信は伊那高遠の諏訪高遠頼継や下社の金刺氏を誘い込んで、二千騎、二万の大軍をもって諏訪郡に侵攻した。これに対する諏訪勢は「おかしき馬に乗候者共に百五十騎、徒者七・八百にて」と記録されているように、武田軍と諏訪氏の軍事力の差は圧倒的であった。
諏訪勢は戦々兢々として戦意はあがらず、上原城は自落し、諏訪頼重は桑原城に退いて抵抗したが、七月に武田氏に投降、開城した。甲府に連行された頼重は晴信の強制により自刃して果てた。ときに二十七歳であった。この頼重の死によって古代以来の名族、諏訪氏の惣領家は滅亡した。
惣領家滅亡後、諏訪は武田氏と高遠諏訪氏に二分され、西側を領した高遠頼継は甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかし、武田氏の反撃によって高遠氏は敗れ、諏訪一円は武田氏領となった。このとき、諏訪惣領家に近い一族である諏訪満隆・満隣は武田方に味方している。その後も、高遠頼継は武田氏に抵抗を続けたが、天文十四年、居城高遠城を攻め取られ高遠氏は没落した。
天正十年(1582)、織田信長率いる織田軍の侵攻によって武田氏は滅亡し、その信長も同年六月「本能寺の変」で死去した。このころ、頼重の従兄弟にあたる頼忠は後北条氏に従っていたが、その後、徳川家康に従って諏訪氏の再興を図った。そして、天正十二年の暮れ諏訪に金子城を築いて諏訪支配の拠点とし、諏訪氏の本貫地高島を領した。
その子頼水は家康の関東移封に従い、武蔵国奈良梨へ転封となり一万石を領した。その後、上州総社に転封となった。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦では徳川秀忠に従い、翌年、本領諏訪郡に復帰し二万七千石を与えられ高島城に住した。以後、諏訪氏は高島藩主として続き明治維新に至った。なお、諏訪大祝職は頼水の弟頼広が継いで、こちらも明治に至った。 ・2006年2月13日
●下社大祝金刺氏の情報
●諏訪高遠氏の情報
【諏訪大社の情報】
■参考略系図
(清和源氏説)
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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