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高遠氏
●梶の葉
●諏訪上社大祝諏訪氏支流
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高遠氏は諏訪上社に大祝として奉仕した諏訪氏の一族である。南北朝時代の暦応三年(1340)、伊那郡大徳王寺城の戦で敗れた諏訪大祝頼継の嫡男貞信(信員ともいう)を始祖とする。一方、高遠氏は木曽氏の支族とするものあるが、高遠氏歴代のうちで実在の確実な継宗・頼継がいずれも「諏訪信濃守」「諏訪信州」を称していることから、諏訪氏の分流であることは疑いをいれないものであろう。
高遠氏の祖信員は諏訪氏の惣領であったが、生来おろかな質であったため高遠の城主にされたのだという。しかし、高遠の地は鎌倉時代には諏訪社の神領であり、南北朝期には南朝方の勢力圏にあり、南朝方の諏訪氏としては防衛の上からも、南方への勢力拡大という上からも高遠を重視していたことは間違いない。そこで、惣領で力量も備える信員をあえて高遠に配したものと考えられる。そして、惣領の身ながら信員は諏訪を出て高遠城主となった。そのため高遠氏の代々には本来なら惣領家であったとの自負があって、戦国時代における諏訪氏と高遠氏の争いの遠因の一つとなったのである。
信員のあと、高遠氏は義海・太源・悦山と続くが、いずれも法名でありそれぞれの事蹟も不明である。高遠氏の名があらわれてくるのは悦山の子という継宗のころからで、時代は十五世紀の中ごろのことである。
高遠氏の勢力拡大
室町時代の上伊那竜東地域では、高遠に本拠をおく諏訪高遠氏を主軸にした国人・地侍による地縁的結合がみられるようになる。伊那郡竜東で高遠氏が台頭しはじめたころ、諏訪郡では府中の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、上社と下社が対立し抗争が繰り返されていた。さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いていた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家とに分かれ、一族の内紛を招いていた。
その一方で、信濃守護をつとめる小笠原氏も府中と伊那とに分裂し、さらに伊那が松尾と鈴岡に分かれて三つ巴の抗争を繰り返すようになった。文明十一年(1479)九月、小笠原氏に乱が起こり、諏訪大祝継満が守護政秀を支援するため下伊那に出陣すると、継満と義兄弟になる高遠継宗も参陣している。ついで、文明十三年四月、諏訪惣領政満は、小笠原長朝を討つため府中に攻め入った。このとき、政満が手兵として率いたのは高遠氏ら伊那郡の諸族で、伊那郡の諸豪族は小笠原氏や諏訪氏宗家の動向に左右されることが多かった。
十四年、高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立し、大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。
翌十五年(1483)一月、大祝継満が惣領家の政満を謀略によって殺害した。しかし、一族の大部分は大祝家に従わず惣領家のもりたてを図ったため、継満のクーデターは失敗に終わった。惣領家は継満に殺害された政満の二男頼満が継ぎ、併せて上社大祝職に就き、祭政を一つにした諏訪惣領家が諏訪郡を一円支配するようになったのである。
敗れた前大祝継満は、高遠継宗のもとに逃れて惣領家に抵抗を続けた。長享元年(1487)七月、高遠継宗は大祝を援けて混乱状態の続く諏訪郡に侵攻し、惣領家方の有賀氏と戦った。高遠勢は鞍懸に陣を構えて有賀勢と対峙して、竜ケ崎に城を築き付近一帯の支配拠点とした。また、高遠氏は有賀の戦いの際、上伊那郡北部にも進出して支城を築き支配領域の拡大を図るなど、有力国人として成長を遂げていった。
このように信濃は、守護小笠原氏、諏訪氏らが一族を巻き込んだ内紛に揺れつづけた。継宗は大祝家と惣領家の争いを横目に伊那鈴岡小笠原氏と結んで、前大祝継満を援けて自らを諏訪の惣領に位置付けて、諏訪を手中に収めようと野望を逞しくしていったようだ。『赤羽記』には、継宗に関して「生付賢く武術に達し、伊那の郡を、不残切取、十万石程也云々」とあり、南は中沢から北は辰野辺までを領有し、その勢力はなかなかのものであったようだ。継宗は戦国武将としての力量もあり、野心にもあふれたひとかどの人物であったと思われる。
高遠氏の野望
応仁・文明の乱を経過した十五世紀末期以降になると、全国では領国一円支配を実現した戦国大名が登場してきたが、信濃には一国を統一する大名は現れなかった。
諏訪氏にしても内部抗争を克服した頼満が諏訪の一円支配を実現したものの、まだまだ戦国大名に飛躍するまでには至っていなかった。一方、継宗が死去したのち、高遠氏は満継が家督を継承した。しかし、満継は『赤羽記』によれば「頼次ノ親二至テ悉ク無礼ニアリケリ、然故諸士疎ンジ果、皆我々ニ成、是故勢大ニ衰ヘ漸ニ万石余ト成云々」と記され、無礼な行動が多く、諸士から疎んじられ、勢力も衰えて二万石ほどになったというのである。これによれば、満継は父継宗とは違って優れた武将とはいえなかった。しかし、そのような人物であったが故に、諏訪氏との争いもなく高遠氏には比較的平穏な時が過ぎたようである。
満継のあとを継いだのが頼継で、頼継は祖父継宗に似て、野心も満々で勇気もあり、諏訪の惣領家を倒して諏訪を支配せんとしたようである。ちなみに、頼継の室は諏訪惣領家の頼満の女であった。
天文六年(1537)冬、諏訪上社では大祝の即位式をめぐって、神長官頼真と禰宜満清の間に激しい紛争があった。その原因は、大祝の即位に際して師匠の役があり、師匠の役とは大祝となるべき幼児に山鳩色の装束を着せ、神道の大事を授ける名誉ある役であった。この役は神長官家に伝わる所職であったが、勢力を強めてきた禰宜家がこの職に割込むようになり、大祝の即位のたびに両者は激しく争ったのである。
享禄二年(1529)、諏訪頼満の六男頼寛が大祝の位に即いたときも両者は激しく争った。このときは、惣領家の嫡子頼隆の調停で神長官家が禰宜家に譲って事なきを得た。ついで天文六年(1537)、新たに大祝として頼隆の子豊増丸(のち頼高)が立つことになったが、その師匠役をめぐって両家はふたたび抗争した。双方惣領頼満の説得を頑として受け付けないばかりか、禰宜満清は西四郷の力を背景として弾圧をかけ、自己の望みを達成しようとした。これに怒った頼満は禰宜満清を勘当し、神長官を師匠役として即位式を行った。
こうした諏訪社内の紛争に際して頼継は、憤懣やるかたない禰宜満清および西四郷の一族と結び、諏訪惣領家攻略のための布石を打っていたのである。
甲斐武田氏の諏訪侵攻
十六世紀になると、戦国の様相はさらに濃くなり、信濃の隣国の甲斐では武田信虎が内乱を克服し、守護大名から戦国大名に脱皮した。甲斐国は地味が悪く、物なりも悪いことから、安定した経済力を求める信虎は領国の拡大を図って、強力な統一大名のいない信濃に侵略を開始したのである。
諏訪氏が支配する諏訪郡は甲斐に隣接し、信濃の各方面に通じた交通の要所であり、信虎が目論む信濃侵略の基地としての好条件を備えていたため最初に侵攻の対象となった。しかも、当時の諏訪氏は内紛のあとで、政情は不安定な状態にあった。享禄元年(1528)八月、武田信虎は諏訪郡侵攻を開始し、以後、両者の間で攻防が繰り返された。しかし、信虎は諏訪頼重に娘を嫁して婚姻を結ぶなど懐柔策をとり、ついに天文四年(1535)に両者の間に和睦が成立したのである。
ところが、天文十年、信虎は嫡男晴信のクーデタによって国外に追放され、晴信が武田家の家督を継ぐと武田氏の対諏訪氏外交は一転し、諏訪頼重に対する討伐を企図するようになった。頼重にしても諏訪領内を統一するほどの政治力を持っていなかったようで、天文十一年には西四郷の一族衆と紛争を起こし、箕輪の藤沢頼親の調停によって事態を収拾している。このような諏訪頼重を高遠頼継は見限り、武田晴信に近づき諏訪攻略の謀略を策するようになった。
そして、天文十一年六月、頼継は武田晴信と牒し合わせて諏訪に攻め込んだ。武田軍は二千騎に歩兵二万という大軍であり、上社勢はわずかに騎馬百五十、歩兵七百に過ぎない兵力であった。七月、甲州軍は筒口原に進撃し、高遠頼継も杖突峠を越えて上原城に押し寄せた。この両面攻撃に対して上原城では支えきれないと判断した頼重は、桑原城に移って抵抗したがついに武田晴信に投降した。
投降した頼重の心境としては、武田氏の謀略に抗しきれなかったこともだが、庶流で叔母婿という近い一族でありながら惣領家を裏切った頼継に非常な憤激を感じていたことと思われる。降伏した頼重は甲府に連行されて、板垣の東光寺において自刃させられた。このとき頼重の弟大祝頼高も兄と運命をともにし諏訪惣領家は滅亡した。
武田晴信との決戦
合戦後、諏訪郡は宮川を境として西側を高遠氏領、東側を武田氏領に分割された。ここに、頼継は半分とはいえ諏訪を領有することができた。しかし、頼継は心から武田氏と結んだものではなく、諏訪氏の惣領となって諏訪郡のすべてを手中にしたいと考えていた。同年九月、頼継は上原城を襲撃し下諏訪に放火して上・下社を占拠し野望を達成した。
この頼継の行動に激怒した晴信は、頼重の遺児虎王を擁して出陣した。かくして天文十一年九月、高遠頼継は武田晴信と安国寺前の宮川辺において大合戦を展開した。戦いは未の刻より辰の刻に至るまで四時間に渡ったが、戦いは高遠軍の敗北となり、頼継の弟蓮蓬軒を含めて七、八百人が討死、高遠勢は安国寺前より片倉まで追撃を受けて散々に敗れ去った。この戦いに頼継は高遠衆だけでなく、箕輪衆、春近衆も動員しており、上伊那をこぞっての兵力をもって武田軍に当たった。『守矢頼真書留』に「甲州衆二万、高遠衆、箕輪、春近五千、入乱候間、おびただしき様體に候」とあり、大激戦であったことを伝えている。
敗走した頼継を追って武田軍は伊那郡に侵入して藤沢口に放火したことから、藤沢頼親が武田氏に投降した。そして、上伊那口にいた高遠氏方の守備兵も掃討され、諏訪郡は完全に武田氏の制圧下におかれた。高遠頼継の諏訪郡一円支配の目論見は失敗し、かえって武田氏に伊那郡侵攻の口実を与えることになった。
頼継は敗れたとはいえ、武田軍に対するために禰宜満清や西四郷の一族をうまく手なづけて諏訪における地歩を固め、上伊那・諏訪の兵力を集めてのち一戦を交えており、頼継がなかなかの戦略家であったことをうかがわせている。結果は敗北ということになったが、万一、頼継の勝利に終わっていたとしたら信濃の戦国史が大きく変ったであろうことは疑いない。しかし、頼継の不幸は武田晴信が頼継以上に戦略家であり、用兵にも巧みであったことであろう。こうして、頼継は諏訪から駆逐されて諏訪はまったく武田氏の領有に帰したのである。その後も高遠頼継は杖突峠を挟んで武田軍と対峙し、形勢はまことに不穏な状態が続いていた。
武田氏への屈服
天文十三年(1544)、さきに武田氏に投降した藤沢頼親が高遠頼継と結んで叛旗を翻したことから、武田晴信は頼親が荒神山に構えていた城砦を攻撃した。藤沢勢はよく戦い晴信は上原城に退去し、その後、甲府に帰っていった。この情勢に力を得た高遠衆は諏訪郡に乱入して、武田氏に就いた上社神長官守矢氏の屋敷を焼き払うなどの攻勢を示した。
翌天文十四年三月の上社の酉の祭に際して、諏訪方は高遠勢の侵入を防ぐため杖突峠に二千人の守備兵をおいて祭を行っている。このように、高遠頼継は宮川端合戦に敗れたものの、高遠にあって旧領を保ち一定の勢力を保持していた。しかし、それから間もなく、武田晴信は高遠氏をはじめとした上伊那衆を掃討するため、甲府を発って諏訪の上原城に入った。そして、兵を調えて高遠に進撃し、さらに箕輪まで侵攻した。この武田軍の侵攻に接した頼継は抵抗し難いことを覚って、高遠城を捨てていずこかに遁れ去ったのである。
高遠城を攻略した晴信は、ついで藤沢頼親の拠る福与城を攻めたが、府中の小笠原長時、下伊那の小笠原信定らが藤沢氏側に加勢したことから長期戦の様相を呈した。ところが、戦い半ばで信定の軍が撤退し、長時が本陣をおいた竜ケ崎城も陥落したため、福与城は孤立状態となり藤沢頼親は武田氏に降伏した。ここに上伊那地方は、武田晴信によって征圧されたのである。
その後、晴信は北信侵攻作戦を展開するようになり、天文十五年には佐久郡の大井氏を破った。しかし、天文十七年(1548)二月、上田原で村上義清の軍に大敗を喫したことから、藤沢頼親は再び叛旗を翻し、諏訪郡の下社攻めを敢行した小笠原長時や村上義清らと行動をともにした。このため、晴信は上伊那支配において在地に影響力をもつ高遠頼継を起用し、甲府にいた頼継を高遠に帰した。同年七月、諏訪郡に小笠原長時が進軍したが、塩尻峠で晴信の軍によって大敗。二年後には武田軍が府中を攻めて、小笠原長時の拠る林城を陥落させ、小笠原氏は没落、筑摩郡も武田氏の制圧下におかれた。
高遠氏の滅亡
信濃の大半を手中にした武田晴信は、残る北信と南信で未制圧の下伊那に対する侵攻を進めた。天文二十年(1551)、晴信は上伊那の保科正俊に参陣を呼びかける一方、さきに高遠に帰した頼継の郡内に対する影響力を嫌い、排斥を考えるようになった。翌天文二十一年甲府に出仕した頼継を自刃させられ、高遠氏の遺臣に対しては知行を安堵するなどの措置がとられた。
こうして、南北朝期に信員が高遠に入って高遠氏を名乗って以来、七代にわたって高遠を中心に伊那全郡から諏訪にまで勢力を拡大した高遠氏は滅亡した。高遠氏は諏訪氏の惣領家であるという自負をもち続け、折りあらば諏訪氏にとって代わって諏訪全郡と諏訪惣領の地位を得ようとした。それゆえに、諏訪氏の内訌や抗争を好機として抵抗を続けた。
とくに継宗と頼継は武将としての力量もあり、勢力も強大化していたこともあって、諏訪惣領家にとって代わろうと行動した。しかし、結局のところ武田氏にうまく利用されて、元も子もなくしたということになった。頼継には子があったものと思われるが、子孫の存在に関してはまったく不明である。・2006年2月13日
【参考資料:上伊那郡誌 ほか】
■参考略系図
・頼継は継宗の子とするものが多いが、年代的にみて孫とするべきであろう。
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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