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金刺氏
三ッ葉根あり梶の葉
(科野国造後裔)


 信濃国の一宮である諏訪神社には、下社と上社がある。上社の祭神は建御名方富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、出雲の国譲り神話に、高天原からの使者建御雷之男神に抵抗し、敗れて科野国の州羽海まで逃げ、ついに降伏したと伝える。下社は妃神の八坂刀売命を祭る。建御名方は武水潟で諏訪湖畔の水の神、八坂刀売は下社背後の和田峠守護の神と考えられる。
 治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき、その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており、承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。
 もと両社の神主家は系統を異にし、上社神主(大祝)家は「諏訪」、下社神主(大祝)家は「金刺」を称したが、平安時代の後期以来、一族が武士化するにともない、著しく系図が混乱し、さらに源氏とも紛れて、どれが正系か判別が難しくなってしまった。
 下社の神主金刺家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。たとえば、『日本歴史地名大系』と『信濃史科』などは「科野国造の祖先である建稲背命七世の後孫金弓君の二男金刺宮舎人麻背の子が蝶訪下社の神主となり」と載せ、刺氏族に諏訪・上泉・手塚の諸氏があると述べている。『金刺系図』によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されている。

金刺氏の武士化

 先述のように金刺氏は武力を蓄え、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築き武士化していった。金刺氏は手塚とも称し、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。
 元弘三年(1333)、北条氏が滅亡すると、後醍醐天皇による建武の新政が開始された。しかし、その政治は長く実務から離れていた公家たちによる時代錯誤なもので、公正を欠くことが目立ち、多くの武士から反発を受けた。信濃国はかつて北条氏の守護任国であり、北条政権の強力な基盤になっていたことから、鎌倉幕府滅亡後も、神党は旧北条派の中心勢力として各地に転戦した。とくに北条氏滅亡の際、北条高時の遺児時行が諏訪社大祝のもとに匿われ、諏訪氏の後援で建武二年(1335)挙兵し、鎌倉に攻め上り一時鎌倉を制圧した。
 中先代の乱と呼ばれる争乱で、中先代軍の鎌倉支配は二十日間に及んだが、尊氏の巻き返しで時行は連戦連敗して敗走し、諏訪頼重とその子の大祝時継らは自殺して中先代の乱は終熄した。その後、中先代の乱に北条派と結んだ武士たちは、南朝に帰順して信濃宮方として武家方=信濃守護と対立した。その中核になったのは、諏訪上社の諏訪氏、そして下社の金刺氏らであった。
 その後、信濃には宗良親王が入って南朝方の中核となった。しかし、情勢は次第に軟調方の頽勢に傾き、正平十年(1355)、宗良親王は信濃南朝方を糾合して守護小笠原氏に決戦をいどんだ。桔梗が原の合戦と呼ばれ、結果は南朝方の敗北に終わった。この合戦に上社諏訪氏は南朝方の中心として参戦したが、下社金刺氏は傍観的立場をとり、その後、幕府・守護方と親善関係を結ぶようになった。
 結局、南北朝の争乱は北朝方=武家方の優勢に推移し、ついに明徳三年(1392)、足利幕府三代将軍義満によって南北朝の合一がなった。以後、足利幕府体制が強化され、信濃も守護権力が浸透するようになった。
・手塚太郎光盛が拠った霞ケ城祉、諏訪大社下社にわずかに碑のみが立てられている

上社との抗争

 応永七年(1400)、守護小笠原氏に対して村上氏を中心とする北信濃の国人らが反旗を翻した。「大塔合戦」と呼ばれる争乱で、守護方の敗北に終わった。この戦いい上社諏訪氏は国人方に味方して陣代を送ったが、下社金刺氏は守護寄りであったようだ。
 このような上社と下社の政治姿勢の相違は、相互の対立をよぶようになった。加えて、信濃守護で府中城主の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、上社と下社が対立し抗争が繰り返されるようになった。さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家とに分かれ、一族内紛の芽を有していた。このような状況のもとで、上社と下社の抗争が続き、その抗争は必然的に武力を伴うものであった。
 文安六年(1449)、上社と下社は武力衝突し、守護小笠原宗康は下社を支援したが、戦いは上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払うという結果となった。その後も、上社と下社の抗争が続いたが、おおむね下社の劣勢であった。
 やがて、十五世紀なかごろになると幕府体制に弛緩が見えるようになり、時代は下剋上の様相を見せるようになった。一方で、中世争乱のなかで惣領制的な分割相続から嫡子(惣領)による単独相続へという変化があった。その結果、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになった。信濃守護小笠原氏では、家督をめぐって内訌が起った。他方、武力によって下社を圧倒していた上社の諏訪氏内部でも大祝家と惣領家とが対立し、分裂状態となった。

戦乱のなかで滅亡

 文明十二年(1480)頃になると、諏訪大社の上社の内訌が激化してくる。そして、大祝継満は高遠の継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。ここに、諏訪氏の分裂と小笠原氏の分裂とがからみ合うという、複雑な政治状況となってきた。
 この諏訪上社の大乱に対して、諏訪下社の金刺興春は継満に味方して挙兵した。下社は永年にわたって上社と紛争を起こして衰退の一途にあったが、上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。分明十五年、金刺興春は継満の一派とともに高島城を攻略し、上桑原・武津を焼いた。対する諏訪勢は矢崎肥前守らを中心として出撃し、金刺興春を討ち取り、下社に打ち入ると社殿を焼き払い一面の荒野と化したのである。
 興春が戦死したのち、子の盛昌が継ぎ、ついで昌春が継いだ。一方、諏訪上社の抗争は頼満によって克服され、永正十五年(1518)、頼満は昌春の拠る萩倉の要害(山吹城)を攻撃した。上社大祝家に伝わる『当社神幸記』によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。ここに、金刺氏の没落は決定的となったのである。  社殿などを焼かれ、萩倉城を落とされた下社の大祝金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻したのである。このときは、諏訪氏がよく武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎に出兵した。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられている。
 かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となった。その後、支族の今井氏が入って武居祝と称し祭祀を継承したが、大祝を名乗ることはなかった。

諏訪のその後

 諏訪氏と武田氏の小競り合いは、その後も続いたが、天文四年(1535)に両者は和睦した。しかし、諏訪氏と武田氏の抗争は、のちの武田晴信の諏訪平定へと連鎖していくのである。
 ところで、高遠の地は古来より諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠頼継が統治していた。高遠頼継は諏訪上社の惣領の地位を狙い、諏訪大社下社の金刺氏と結んで武田晴信の力を借りて諏訪氏を攻撃した。こここに出た金刺氏は、武居祝のことであろう。
 武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、甲斐に連行され幽閉の身となった。ほどなく、諏訪大社上社の大祝諏訪頼高と共に切腹させられ、諏訪惣領家は滅亡した。その後、諏訪の地は高遠頼継と武田晴信とが二分したが、それに不満を持った高遠頼継が、諏訪地方を武力制圧した。結果として武田晴信と対立、宮川の戦いに敗れた頼継は高遠に逃げ帰り、諏訪一帯全ては武田晴信の領有に帰した。

■諏訪氏と梶の葉紋 諏訪氏の情報にリンク


■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』所収系図から作成。  
  


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