相馬氏
九曜/繋ぎ馬
(桓武平氏良文流) |
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桓武平氏の祖高望王の孫平将門は下総国相馬郡に拠り、自ら相馬小次郎を名乗ったというが、将門をもって相馬氏の祖とはみなしていない。将門先祖説によれば、将門の乱(939)によって将門の一族は滅ぼされたが、将門の子将国ひとりが常陸国信田郡に落ち延び、その五代のちの胤国が再び相馬郡に戻って相馬氏を名乗るようになったという。しかし、一般的には千葉常胤の子師常が、平将門の子孫・相馬小次郎師国の養子となって相馬氏の祖になったとするのが定説である。
師常は源頼朝の奥州藤原氏征伐(1189)に功があり、頼朝から陸奥国行方郡を与えられ、奥州への足がかりをつかんだ。しかし、相馬氏の本領はあくまでも下総であり、奥州相馬氏の祖となった師胤の父胤村が所領を譲る際、嫡子胤氏に下総国相馬郡を、師胤に陸奥国行方郡を分け与えた。
その後、師胤の子重胤が行方郡に居住し、在地支配が行われるようになった。ここにおいて、胤氏の系統が下総に住して相馬氏の宗家として発展し、一方師胤の系統が奥州相馬氏として発展して奥州における惣領家となったのである。
武家方として活躍
元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡して建武政権が発足するとともに、相馬氏は行方郡の奉行、伊具・亘理・宇多・行方郡の検断職に任じられたが、やがて足利尊氏が親政に叛旗を翻すとこれに従った。尊氏は陸奥守北畠顕家に対抗するため、一族の斯波家長を奥州探題に任じて奥州に派遣した。相馬重胤・相馬(泉)胤康らは斯波氏に味方して、宮(南朝)方の伊達氏・標葉氏らと戦った。
建武三年(1336)四月、重胤・胤康は斯波家長に従って鎌倉にあり、鎌倉に迫ってきた北畠勢と片瀬川で戦い、胤康は若党の飯土江義泰とともに討死した。一方、相馬重胤は鎌倉まで退いて応戦したが、敗れて鎌倉法華堂にこもって自刃した。重胤らが鎌倉で討死したあとは、光胤が陸奥国行方郡小高城を拠点に一族を率いて南朝勢力と激しい攻防戦を展開した。
翌五月、小高城攻防戦で惣領代の光胤は一族の相馬長胤・胤治・成胤らや若党らとともに討死し、光胤から所領を譲られていた胤頼は残った一族らとともに山林に隠れざるをえなかった。祖父重胤の討死についで叔父光胤が討死し、父親胤は上洛したまま音信不通の状態で、胤頼にとってはまさに不遇をかこつことになった。
建武四年八月、奥州の南朝方の重鎮であった北畠顕家が再上洛し、翌年、和泉国石津で足利軍と戦って戦死した。その後、顕家の弟顕信が鎮守府将軍として奥州に下向してくると、親胤は奥州管領石塔義房の命を受けて白河結城氏攻めや三迫合戦に出陣した。やがて、「観応の擾乱」が起こると南朝方が勢力を回復し、親胤に宛てて、しきりに本領安堵や恩賞の約束を行い、併せて参陣要請がたびたび行われた。しかし、親胤は南朝方からの再三にわたる要請を蹴り、奥州管領吉良貞家に応じて数々の合戦に参加して活躍した。
やがて、北畠顕信は三沢城を没落し、ついで宇津峯城に籠ったがそこも没落、奥州南朝方は勢力を失墜した。一貫して北朝方として行動した相馬氏は、親胤の跡を継いだ胤頼が二度にわたって東海道検断職に任じられ、奥州の一角に確固たる地歩を築きあげたのである。
戦国乱世への序奏
鎌倉期以来、武士の所領は、分割相続を原則とする惣領制的体制が一般的に行われていた。それが、南北朝内乱期を経た頃から解体され、嫡子一人がすべてを継承する、いわゆる嫡子単独相続制へと転換されていった。相馬氏も例外ではなく、親胤が胤頼に譲与した所領は、すべて胤頼に一括譲与されている。ついで胤頼から憲胤へ、憲胤から胤弘への譲与のときもすべて一括譲与であった。こうして嫡子単独相続制が確立してくると、新たな庶子家の分出はなくなり、またそれまで分出した庶子家も、本宗家の家臣団のなかに組み込まれていくようになった。こうして、惣領のもとに力が結集され新たな支配体制が生まれてきたのである。
一方、南北朝の内乱のころから、地方の豪族たちが国人領主化していき、それぞれ地縁的な結び付きを強め、一揆を形成する動きが日本各地に発生した。これを国人一揆と呼び、奥州でも仙道一揆が結成されたり、田村一族一揆・石川一族一揆などの一族一揆が形成されている。
応永十七年(1410)、相馬氏をはじめ諸根・好島・白土・岩城・標葉・楢葉などの諸氏が対等な立場に立って「五郡一揆」を形成した。この一揆は、鎌倉府から奥州に派遣されていた篠川御所・稲村御所に対して、地方秩序の維持に主導権を握ろうとする国人たちの意図が背景にあった。しかし、永享十年(1438)の「永享の乱」で鎌倉公方が滅亡すると、国人たちが一揆連合を結成する意味が失われ、相馬氏をはじめとする諸豪族たちは、自らの勢力の維持と拡大をはかって相互に対立するようになった。すなわち、戦国争乱の時代を迎えることになるのである。
永享年間(1429〜40)ごろから、相馬氏は標葉氏と抗争を繰り返した。永享十一年(1439)に家督を継いだ高胤は、文安二年(1445)牛越館主牛越定綱と飯崎館主飯崎紀伊らの謀叛を制圧し、文明二年(1470)白川政朝と一揆契約を結び、標葉氏と抗争を繰り返しながら領主支配権の確立と領域拡大につとめた。明応元年(1492)、標葉氏の一族泉田隆直らを味方とした高胤は藤橋に出陣して権現堂城を攻撃した。ところが、その陣中で高胤は急死してしまった。
相馬軍はいったん兵を引き揚げ、盛胤が家督を継承したのちに改めて権現堂城を攻撃し、同年十二月に標葉清隆・隆成父子を滅ぼして標葉郡を版図に加えた。こうして、盛胤は標葉・行方の二郡を支配下におさめ、相馬氏は南奥の有力大名に成長、文亀年間(1501〜03)に上洛した盛胤は従四位下に叙せられた。以後、盛胤は近隣諸豪族との戦いを繰り広げながら、着々と領内を固め戦国大名としての地歩を築いていった。
伊達氏天文の乱
大永元年(1521)に盛胤が死去すると、嫡子顕胤が家督を継いだ。顕胤は伊達稙宗の娘を嫁に迎えていた関係から、稙宗の子晴宗の室に岩城重隆の娘を仲介しようとした。ところが、重隆が約を違えたことから、それを口実に岩城氏を攻め、岩城領のうちの富岡・木戸を奪いとり、伊達・岩城の結婚を実現させた。
天文十一年(1542)、伊達稙宗ち晴宗の父子が対立し、晴宗が父稙宗を西山城に幽閉する挙に出た。いわゆる、奥州戦国史に名高い「伊達氏天文の乱」が起こった。原因はさまざまにいわれているが、稙宗がその子実元を越後守護上杉氏に送りこもうとしたことがきっかけとなった。すなわち、実元養子の件に対して晴宗が反対し、それに加えて稙宗の独断に対する伊達家中の不満が噴き出したのである。
小梁川宗朝の急報に接した顕胤は、田村隆顕・二階堂照行・葦名盛氏らとともに西山城に駆け付けると稙宗を救出し父子の和睦を図った。しかし、和睦は成功せず、抗争は伊達家中にとどまらず奥州諸大名を巻き込む大乱に発展した。戦国期における相馬氏と伊達氏の抗争は、この乱を契機として開始され、天正十八年(1590)に至る半世紀の間に、実に三十回もの戦いが繰り広げられた。
乱において顕胤は岳父稙宗に味方して、天文十二年の稙宗書状には「相馬氏日日出戦せらる。其の勇邁比類なし」と記される活躍をみせている。信夫の大森城における戦い、平沢の合戦、伊達郡高子原の合戦などにおいて晴宗軍を翻弄している。そして稙宗を小高城に迎え入れたが、稙宗の入城に先立って、戦死者の法要を営み、戦死者の留守宅を弔問し、兵糧輸送にあたった百姓らを召出して労をねぎらったと伝えられている。
天文の乱が起った十一年、懸田出陣中の顕胤の留守を狙って黒木城主の黒木大膳が背き、北郷田中城を攻めようとしたのを、相善原に討って宇多郡の実権を掌握した。このように、顕胤は宇多郡も支配下におさめ、戦国大名相馬氏の基礎を固めたのである。十年近くにわたって続いた天文の乱は、天文十七年に終熄し、翌十八年に顕胤は死去して嫡子盛胤が家督を相続した。
伊達氏との抗争
戦国時代における南奥の形勢は、会津の葦名盛氏が天文の乱を好機として勢力を拡大し、白河には結城晴綱、二本松に畠山義継、三春に田村清顕、岩城に岩城重隆、そして小高に相馬盛胤が割拠するという状態にあった。一方、米沢には伊達晴宗・輝宗父子がおり、それぞれが同盟と婚姻を結び、領域拡大の抗争に明け暮れていた。これに常陸の佐竹義昭、下野の那須資胤らの勢力が南奥に及びつつあった。しかし、相馬氏にとって最大の敵は境を接する伊達氏であることに変わりはなかった。
天文二十一年(1552)伊達晴宗が懸田城主懸田俊宗を滅ぼし、盛胤は伊具・伊達両郡へ勢力を伸ばしつつ宇多郡北部の守りを固め、伊達氏を牽制しようとはかった。その結果、相馬氏と伊達氏との抗争は、伊具郡・宇多郡方面の争奪戦が熾烈を極めた。永禄七年(1564)、盛胤は息子の義胤とともに名取郡座流川で伊達晴宗と戦い、伊達勢を数多討ちとった。永禄九年には伊具郡の金津・小佐井の両城を攻略し、さらに金山城も攻め落とした。加えて元亀元年(1570)には、伊具郡丸森城を攻撃し陥落させた。かくして、伊具郡小斎・丸森城などを占拠し、伊具郡を領有したのである。
元亀から天正の初年(1573)になると、常陸の佐竹義重がしきりに白川仙道あたりに出兵し、葦名盛氏・結城晴朝・田村清顕らは、佐竹対策に忙殺された。この情勢を好機とした伊達晴宗・輝宗父子は、天正四年(1576)七月、相馬攻めを企図して伊具郡に出陣し、攻撃の態勢を固めていた。このとき、田村清顕が伊達父子を説得して盛胤との和解をはかり、葦名盛氏・北条氏政らも和解を仲介したが成功せず、晴宗が病床についた天正五年にいたって、一時的ながら相馬と伊達の和解が成立した。
盛胤の時代における相馬氏の領土は北は伊具郡の一部、南は岩城領木戸・富岡に及び最大版図を現出した。しかし、木戸・富岡は、元亀元年(1570)に盛胤・義胤父子が丸森に出陣しているすきを狙った岩城親隆によって奪回され、相馬氏の南限は楢葉境として固定したのである。それより先の天文十八年(1549)、三春の田村氏の要請により、妹を田村清顕の室として田村氏と和睦した。このとき、妹の化粧料として標葉郡の内四ヶ村を与え、三春領に帰属させた。このように盛胤は諸豪族の間に身を置きながら、よく相馬氏の武名を落すことがなく、その勇名は高かった。
合戦につぐ合戦
戦国時代の永禄六年(1563)の室町幕府の記録に全国五十三名の大名が「大名在国衆」として上げられ、奥州では伊達晴宗・葦名盛氏が織田信長らと名をつらね、相馬盛胤・岩城重隆らは「関東衆」として記されていた。この時点で、奥州の大名は伊達・葦名の二氏で、この二氏に継ぐ者として相馬・岩城の両氏が存在したことが知られる。
盛胤は天正六年(1578)に隠居し、嫡子の義胤が家督を継承した。そして、盛胤は田中城代の三男郷胤と同居し、のちに中村城西館の二男隆胤の後見役となった。こうして、小高城は義胤が守り、盛胤は中村城を守って伊達氏に備える態勢を一段と強化したのである。盛胤のあとを継いだ義胤は、戦国期における相馬氏を代表する武将で、若いころより父盛胤に従って数々の戦陣に身をおいた。伊達領の伊具郡小斎のうちの矢ノ目・妙賀山の陣では伊達輝宗と戦い、大功をたてた。その後、輝宗・政宗父子の軍と、館山・金山、小深田・新地、塩松、田村郡津宇志などで合戦、死闘を繰り返した。
天正九年になると小斎城主の佐藤宮内が相馬氏に背いて伊達氏に走ったことから、伊達輝宗・政宗父子は矢野目に出陣し、盛胤・義胤父子も大内に陣を布いた。そして、年の暮れまで金山・丸森両城をめぐる攻防、矢野目および駒ケ峯小深田での戦いが続いた。翌天正十年から十二年にかけても金山・丸森をめぐる攻防が続き、天正十二年、田村清顕.岩城常隆・佐竹義重らが仲介に入り、五月に相馬氏と伊達氏の和睦が成立した。
天正十三年十月、伊達輝宗が二本松城主畠山義継のために不慮の死を遂げ、輝宗の弔い合戦にただちに出陣した政宗に義胤は加勢した。この輝宗の死去によって、名実ともに政宗が伊達氏の家督となり、奥州の戦国時代は大きな転機を迎えることになる。翌年、田村清顕が死去し、その後の田村氏の内紛によって、田村氏家中は伊達派と相馬派とに分裂して対立するにいたった。当然ながら、相馬氏と伊達氏とはふたたび対立関係になった。
天正十七年(1589)義胤は伊達派に転じた大越紀伊を討つため、岩城常隆とともに田村郡岩井沢に出陣した。このころ政宗は会津攻略を企図していたが、それより先に義胤の留守した相馬領を衝くため駒ケ峯城を攻略し、さらに新地城も攻略した。不意の襲撃に留守を守っていた中村城の盛胤は、出馬したものの兵力は三百七十余人しかなく、とうてい政宗の大軍に抗することはできず、駒ケ峯・新地の両城は落城し、西館を死守していた杉目三河らは伊達勢の中に突入して、主従ともに「涼しき討死をぞ遂げたりける」というありさまとなった。
戦国時代の終焉
政宗は攻略した新地城に亘理重宗を入れ伊達領に組み込むと、軍を返して会津に進攻していった。そして六月五日、葦名義広と摺上原で戦い、敗れた義広は黒川城を捨てて実家の佐竹氏のもとに走り葦名氏は没落した。南奥の諸大名は伊達氏の軍門に続々と降ったが、相馬氏は行方・標葉二郡、そして宇多郡三十六ヶ所を死守して最後の最後まで伊達氏と戦った。
天正十七年七月、義胤は亘理、坂本において伊達勢と戦ったが利あらず、翌天正十八年(1590)には、宇多郡大沢合戦、ついで新地城を攻めたが敗れ、五月には盛胤・隆胤父子が駒ケ峯城を攻めたが敗北、門馬上総は討死し隆胤も斬られた。戦況は刻々と相馬氏の退勢となり、ついには存亡の危機を迎えるに至ったのである。
窮地にたった相馬家中は和戦二つの意見に分かれ、隠居していた盛胤は服属もやむなしとの意見を述べたが、義胤は一族老臣を召集して断固抗戦を主張した。ついに盛胤もこれに同意し、諸士卒はもちろん町人百姓に至るまで討死のお供をしようとして集まった者五百人近くになったという。この時点で、相馬氏の命運はまさしく風前の灯火であった。
ところが、豊臣秀吉の小田原征伐が進められ、伊達政宗はもちろん、相馬義胤も小田原に参陣した。ここに相馬氏と伊達氏との積年にわたる抗争にようやく終止符がうたれ、相馬氏は危ういところで滅亡の危機を回避することができたのである。そして、小田原参陣を果たした義胤は豊臣秀吉に謁見し、「奥州仕置」の結果、宇多・行方・標葉三郡四万八千七百石を安堵されたのである。このとき、小田原に参陣しなかった石川氏・白川氏・大崎氏・葛西氏ら奥州の諸大名は所領を没収され没落した。伊達政宗も会津を失い、米沢についで岩出沢へと移っていった。
かくして、豊臣大名に列した相馬義胤は、文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵にあたっては肥前名護屋まで出陣するなどの軍役をつとめている。
近世大名へ
慶長五年(1600)の「関ヶ原の合戦」には、伊達氏への対抗上、石田方である上杉氏に通じて、家康の召しに応じなかった。戦後、その去従を疑われ所領を没収された。その後、伊達政宗のとりなしもあって、三代将軍家光の誕生を機に許され、慶長九年、義胤の子利胤の時代に本領などを回復し、大名に復帰したのである。
慶長十六年(1625)、利胤は宇多郡中村に新城を築いて城下をそこに移した。大坂の陣には徳川秀忠の先陣として武功を顕わしたが、寛永二年(1625)、父に先だって死去した。利胤の死後、義胤は幼い孫を後見し、その成長をたすけて寛永十二年に八十八歳で没した。以来、相馬氏は中村城を居城として、中村藩六万石を継承し明治維新に至った。・2004年11月05日
【参考資料:相馬市史/小高町史/福島県史/戦国大名系譜人名事典/日本の名族 など】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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