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下総相馬氏
九曜/繋ぎ馬*
(桓武平氏良文流)
*幕紋は将門ゆかりの「繋ぎ馬」


 相馬氏は伝説によれば、高望王の孫平将門が下総国相馬郡に拠り自ら相馬小次郎を名乗ったというが、将門をもって相馬氏の祖とはみなしていない。将門の一族は「将門の乱(承平の乱=940)」によって滅ぼされたが、将門の子のうち将国ひとりが常陸国信田郡に落ち延び、その五代のちの胤国が再び相馬郡に戻って相馬氏を名乗るようになったという。

相馬氏の分流

 千葉介常胤の二男・相馬師常を祖とする相馬氏は、胤国の子師国のあとを継いだことになっている。千葉氏流相馬氏は下総国相馬郡の領主として、鎌倉時代から安土桃山時代までの四百年間、勢力を維持していた。師胤の父・胤村が所領を譲る際、子・胤氏に下総国相馬郡を、師胤に陸奥国行方郡を分け与えた。かくして、その次の七代重胤が行方郡に居住し、在地支配が行われるようになった。ここにおいて、胤氏の系統が相馬氏の宗家として発展し、一方師胤の系統が奥州相馬氏として発展して、奥州における惣領家となったのである。
 室町時代、下総相馬家の嫡流は守谷城を居城とし、周囲に一族を配して所領の支配を行ったようだ。室町時代の動向は必ずしも明確ではないが、相馬徳誕の時代にはそれなりの地位と勢力を有していたようで、徳誕の子から筒戸氏などの庶流が出ている。
 政治的には、下総国佐倉城を本拠とする千葉宗家の一族衆として進退していたようだが、「享徳の乱(1455)」によって鎌倉公方成氏が鎌倉を失って下総国古河に入り、古河公方と呼ばれて次第に力をつけてくると、その奉公衆となったようだ。
 当時の城郭配置を見ると、古河城を中心として、関宿城に簗田氏、栗橋城に野田氏などの古河公方奉公衆の城が点在し、相馬氏の守谷城は古河城の南部を守る要害として位置付けられていたことが知られる。

関東の戦国時代

 関東の戦国時代は。京都の「応仁の乱(1467)」に先駆ける十年前に起った「享徳の乱」をもって始まるとするのが定説となっている。そして、この乱を契機として、鎌倉(のち古河)公方、管領上杉氏が対立し、さらに山内上杉・扇谷上杉氏の対立が展開され、関東全土は戦乱が止むことがなかった。
 公方・管領という旧勢力の対立の間隙をぬって登場してきたのが、伊勢新九郎すなわち北条早雲で、早雲は慢性的な関東の戦乱のなかで次第に頭角をあらわし、やがて北条氏が関東の戦国時代の枢軸を握ることになる。これに対して古河公方、関東管領上杉氏らの旧勢力がその台頭を退けようとしたが、「国府台の合戦」「河越の合戦」を北条氏が制したことで、関東の政治地図は北条氏を中心としたものへと変化していった。
 ちなみに、小田原の北条氏は鎌倉幕府の執権であった北条氏と区別するために「後北条氏」と呼ばれる。
 天文十三年(1544)の「河越の合戦」の結果、両上杉氏は衰退し、古河公方家は北条氏に屈服するところとなった。公方家が北条氏に屈したことは、奉公衆にも大きな影響をもたらした。すなわち、簗田氏のように北条氏と対立姿勢を貫くものがいたように、相馬氏内部でも反北条派と北条派に分かれての対立があったようだ。それは系図に整胤とその実子たちは「生害」と記されており、整胤のあとには治胤が入って相馬氏の家督を継いでいることからもうかがわれる。
 治胤は高井氏をも称してることから、高井城を拠点とした相馬一族から入ったことは間違いない。そして、この内訌に際して簗田氏の影響力があったようで、以後、相馬氏は簗田氏に属して時代に身を処したことが知られる。
 永禄三年(1560)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東管領上杉憲政の要請を入れて関頭に兵を入れたが、そのときに謙信が遺した「関東幕注文」には簗田氏を筆頭とする「古河衆」の一員として相馬氏が把握されている。そして記された紋は「四つめゆい」で、下総相馬氏の紋である「つなぎ馬」ではないのである。これは、一族から宗家に入った治胤が四つ目結を自らの紋としていたことを示している。

後北条氏の勢力拡大

 謙信は、関東の秩序回復のために越山を繰り返し、後北条氏勢力との戦いを展開した。簗田氏は謙信の軍事力の一翼を担って後北条氏に対抗したが、謙信勢力は次第に衰退していき、ついに簗田氏は後北条氏に下り相馬氏も北条氏の軍門に下った。以後、北条氏の「他国衆」に位置づけられ、天正十八年(1580)の豊臣秀吉による小田原征伐の時を迎えることになる。天正二年には後北条氏の命を受けて猿島出陣も行なっている。
 相馬治胤の子秀胤は小田原城に籠城し、秀吉が率いる天下勢を迎え撃ったが、守谷城は徳川家康に攻められて陥落。小田原城も七月に降伏、開城したことで相馬氏の運命も決した。
 戦後、相馬秀胤は徳川家康に召し出されて大坂の陣などで活躍して五千石の知行を与えられたが、嗣子が無かったため所領は没収され、一族の者に改めて千二百石が与えられたが、のちに不行跡があり知行取りから蔵米取りとなった。
 秀胤が五千石を与えられたことは、系図に記されているばかりで、その真偽は定かではない。とはいえ、相馬氏が鎌倉時代より中世を生き抜き、近世を迎えたことは紛れもない事実であり、曲折はあったものの相馬氏の血脈は徳川旗本として受け継がれたのである。

●相馬氏の家紋─考察 ●千葉氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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