江刺氏のこと



●江刺氏の出自

 この辺で、江刺氏について触れたいと思います。江刺氏はご承知のとおり岩谷堂に居城。葛西領の北辺鎮護の雄として胆沢の柏山氏とともに、北の南部氏やその他に睨みをきかせていた豪族です。その出目については諸設があります。古いところでは
(A)葛西2代大守清親の弟清任が弘長2年(1262年)、江刺郡司藤原重任(安倍氏)の養子として江刺郡片岡村に移ったのが始まりという説
(B)同じころ女婿千葉頼胤の二男照胤を胆沢郡百岡に、三男康胤を江刺郡岩谷堂に配置したのに始まるという説。少し下っては (C)葛西5代の大守清宗の子清泰に始まるという説
(D)葛西6代大守清貞の息女に右京亮重脩(うきょうのすけしげのぶ)という婿を迎え、江刺に据えたことに始まるという説
などがありますが、どれを取っても今一つ決め手がなく明確ではありません。しかし、葛西の血をひいていることと、江刺を氏としたことは確かです。
 (A)説の清任以後重胤までと、(B)説の康胤以降重胤まで(葛西宗家の2代清親以降6代清貞まで)の間のことはよくわかりません。はっきりするのは(D)説の重胤以降で、彼の跡は高嗣・重冶・重光・(一代不明)・隆見と続く期間です。この5代の間に江刺氏は葛西7党の一つとして、まず重胤の娘は宗家8代満良の嫁にしたほか、藤沢の岩渕氏・東山の千葉(長部)氏・一関の黒沢氏・東山の大原氏等と姻戚関係を結び、強い連帯を保ってゆきます。
 最後の隆見のころになると、その娘を葛西当主晴胤に嫁がせているにもかかわらず、しばしば宗家と争乱を起こしています。このころ宗家では前号で述べたように11代朝信・12代尚信の跡継ぎをめぐって内輪もめがありました。最終的には朝信の弟政信が13代として宗家を嗣ぐわけですが、この問題は葛西一族を揺さぶりました。
 隆見は文明15年(1483年)から永正2年(1505年)に至る20年間に、4度も宗家と合戦を繰り返していますが、それは右に関係があったのかもしれません。このころ、大崎氏の触手が葛西領に伸びて来て、西磐井地方の薄衣氏や黒沢氏が大崎氏になびこうとしました。隆見も少しはこれに同調しようとしたのかもしれません。
 いずれにしても、このことが隆見の命取りとなり、大守政信は養嗣子の重見を江刺に送り込み、隆見と交代させてしまします。こうして、重胤から5代にわたった旧系江刺は、ここに断絶、重見系が葛西氏の滅亡まで続くわけです。

●江刺重見(重親)

 重見(重親)は隆見に替わって江刺氏を称し、岩谷堂で江刺郡総領職として北方ににらみをきかせます。重見には3人の子があり、長男彦太郎重任(重治)は播磨守を称して江刺家を、三男彦三郎晴信は左京大夫称して葛西宗家をそれぞれ継いだと一書にはあります。「江刺郡志」によると、重任と晴信は明応4年(1495年)上洛、将軍義澄に拝謁して「友長」の太刀と衣服を賜ったとあります。これは、江刺氏が実力あった証拠でしょう。重任は父重見に先立って死去、功績は父の影に隠れてよくわかりません。
 次が重胤(隆行)で三河守を称しましたが、宗家葛西よりは伊達家と接近、天平の大乱の際には伊達晴宗方として活躍したようです。重胤は早く家督を長男輝重に譲り浅井村三州館に隠居。江刺三州と称し能筆家として有名だったといいます。なお、彼は二男如清を人首村に(人首氏の祖)、三男帯刀を口内村に(口内氏の祖)配し郡内を固めました。
 南部氏と親交のあった輝重(隆重)は治部大輔を称し、永禄9年(1566年)出羽の秋田近季が南部領の鹿角を攻撃したとき、家臣の栗生沢治兵衛と鴬沢藤一郎らに兵300を率い救護させました。しかし、戦況は南方に不利で、彼らは途中で近季が敗れたことを知らされ兵をかえしています。また、元亀2年(1571年)伊達輝宗・政宗父子の葛西領の攻撃の際には宗主葛西晴胤とともに迎え撃ち、部下の高屋豊前の奪戦により伊達軍を撃退して武功をあげています。彼は天正元年(1573年)に亡くなり、重恒(信時)が後を継ぎ兵庫頭を称します。
 このころには、葛西の部下の諸将が力を増大します。元亀2年に胆沢郡に一揆が、また胆沢の雄族柏山氏に内乱がおこる等葛西の北辺は不穏となります。さらに、南部の九戸政実が金ヶ崎を攻める等の事件も勃発、一層騒然とします。

●重見以降の江刺氏

 重恒は宗家葛西と仲が悪かったらしく、天正11年(1583年)と13年、宗家に背いて太守晴信に勘当されています。この年、南部氏は南進して志和郡を手に入れ、滴石氏は滅亡しました。
 天正15年、再び宗家に反抗しようとした重恒は、重臣の菊池右近と大田代伊予の父子に強く意見されます。怒った重恒が両人を攻めようとしたので、父子も自衛のため鴨沢氏と遠野一族の助けを求め、岩谷堂に先制攻撃をかけます。しかし、遠野陳場の戦で敗れて伊予は戦死、右近は逃亡してしまいます。気仙の浜田安房守も、妻が重恒の妹ということもあって相呼応し、宗家に反旗を翻しています。
 このように、葛西氏の北辺は内外ともに騒然としています。このとき、豊臣秀吉が北条氏攻撃を行いましたので、宗家の葛西は小田原への参陣を渋らざるを得ませんでした。北条氏を討伐した秀吉は、小田原攻めの論功行賞にからめて奥州仕置きを決意、仕置き軍を派遣して来ます。
 江刺氏はなにもせず見ている訳にもいかず、太守と仕置き軍を迎撃しますが、惨敗を喫して葛西の一統はいずれも領地を没収され、重恒は岩谷堂から和賀郡田瀬へ退去。重臣の三ヶ尻加賀が重恒の処遇について、仕置き軍の大将浅井長政に、なんども繰り返し訴えました。その結果、重恒は南部信直に2千石をもってしばらく召し抱えられ、稗貫郡新堀城を賜りました。
 重恒は、とかく話題の多かった人物で「吾妻むかし物語」(南部叢書)に詳しく述べられています。重恒とともに、三ヶ尻加賀・小田代肥前・原体主膳・高屋右近等の家臣たちも南部氏に仕え、小田代肥前は田瀬城・原体主膳は安俵城に配置されて伊達氏に備えました。

●古城書上のこと

 延享年間(1744年から47年まで)に、仙台藩から幕府に差し出した領内の「古城書上」があります。それには23カ城が記載されています。
 23カ城の城主を拾ってみると
▽黒田助村の菊池内膳
▽羽黒堂村の羽黒堂修理(千葉対馬)
▽田茂山村の小沢右馬允
▽大田代村の大田代伊予
▽小田代小田代肥前
▽横瀬村の及川弥兵衛
▽浅井村の江刺三河
▽伊手村の及川左近
▽人首村の安蘇修理(人首如清)
▽角掛村の菊池右馬允・角掛右近
▽次丸村の次丸道海入道
▽鴨沢村の菊池掃部(鴨沢)
▽野手崎村の菊池次郎・同敏勝
▽栗生沢村の栗生沢内記
▽抓木田村の抓木田大炉
▽軽石村の軽石冶兵衛
▽歌書村の菊池左馬之允(歌書左近)
▽三ノ関村の三ノ関讃岐
▽石関村の石関左近
▽下門岡村の及川若峡
等の名が挙げられます。
 これをみると、中世江刺には岩谷堂の江刺氏のほかに、41カ村中20カ村に城主がおったようです。ほかに村名を名乗る口内衛士・原体主膳・鴬沢四郎兵衛・天間・下川原氏等がおり、全体では24カ村に地頭たちが土地を占めて勢力をふるっていたようです。従って、地頭のいない村17カ村のうち、地頭のいる村と隣接する村は、おそらくその地頭に支配されていたものと思われます。そこで江刺氏の居城岩谷堂に連らなる田谷・二子町・黒石・石山・土谷・餅田・増沢の村々は、たぶん江刺氏の直轄地たっだと考えられます。
 さて、前にあげた26氏は、ほとんど江刺氏の家臣だったと思われます。彼らは江刺氏から応分の領地をもらい、一族郎党を率いて土着し、自分の領地をさらに家臣に分与するか、石を支給するかして扶養していました。身分の低い者たちは、ふだんは農耕に従事し、いったん戦いが起こったときは戦士として召集され、主人とともに戦いに出向いたものと思われます。