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小野寺氏
一文字に六葉木瓜
(藤原氏秀郷流首藤氏族)


 小野寺氏は藤原姓首藤氏族で、下野国都賀郡小野寺邑から起こる。『下野国志』に「小野寺城は都賀郡小野寺村にあり、小野寺禅師入道義寛はじめて築く」とあり、『吾妻鏡』には小野寺太郎道綱とみえる。源頼朝の奥州征伐に従軍した道綱は、軍功によって出羽国雄勝郡の地頭職に補任されたが、下野国の本領に帰り鎌倉に住んでいた。小野寺氏の雄勝郡への移動は経道の時代とされ、経道を仙北小野寺氏の事実上の祖とするものが多い。
 とはいえ、山北小野寺氏に関する系図は、「稲庭系図」「小野寺正系図」「和賀小野寺系図」など数本が伝えられ、それぞれ異同が少なくなく混乱を見せている。

小野寺氏の濫觴

 小野寺氏の元祖とされる義寛は、小野寺六郎あるいは小野寺禅師などと系図によってさまざまに記されている。義寛の子が道縄で、禅師太郎を称した。これは、小野寺禅師義寛の太郎(長男)ということであろう。治承四年(1180)平清盛の専横に対して、源頼政が以仁王を奉じて挙兵した。このとき、小野寺道縄は足利又太郎忠綱とともに平氏に属して、宇治川の先登をなしたことは有名な話である。その年の八月、源頼朝が伊豆において兵を挙げた。
 道縄は都から関東に下向すると、平氏から離れて源頼朝の麾下となった。翌治承五年、志田義広の乱に際して、小山一族とともに出陣して義広を討ち、頼朝から厚い信頼を受けるようになった。その後の平家追討戦には、三河守範頼の麾下に属して出陣、周防から豊後に渡るなどして軍功をあげた。文治五年(1189)の奥州征伐(奥州合戦)にも、嫡子重道(秀道ともいう)とともに出陣して軍功をあげ、戦後、出羽に領地を賜った。以後、道縄は鎌倉御家人として『吾妻鏡』にもその活躍が記されている。
 承久三年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時征伐の宣旨を下し京都守護伊賀氏を討ち取った。これに対して、幕府軍は積極策に出て、京都に大軍を送りたちまちのうちに乱を制圧した。のちに「承久の乱」と呼ばれる争乱で、小野寺道縄も一族を率いて、北条泰時の軍に属して上洛の途についたが、宇治川の戦いにおいて戦死した。

山(仙)北への土着

 現在、仙北郡と呼ばれる地域は、律令制下の行政区画では山本郡となっていて、それが、中世を通じて踏襲され、江戸時代前期まで続いた。一方、律令時代後期から、雄勝・平鹿・山本三郡を合せて「山北=せんぼく」と呼ぶ風があり、鎌倉時代の「吾妻鏡」などにもしばしば山北郡という記載がみえる。そして、奥州合戦ののちに、山北の平鹿郡には平賀氏、雄勝郡には小野寺氏が地頭職を与えられて入部した。ちなみに、山本郡の地頭に関しては史料が残っていないため不明である。
 小野寺氏は山北の雄勝郡に地頭職を賜ったが、実際に現地に入部したとは考えられない。事実、小野寺道縄は、源頼朝に仕えて鎌倉に出仕していた。頼朝の死去したのちも、幕府の元老として鎌倉に居住し、本貫の地である下野小野寺に居ることも希であったようだ。それゆえに、道縄の雄勝入部はありえないことである。では、嫡子の重道が雄勝に入部したものであろうか。
 一説によれば、小野寺氏の仙北下向は道綱(道縄)が庶子重通を派遣して稲庭に本拠を定め、鎌倉時代後期になって小野寺経通が稲庭城を築いて小野寺氏の中心拠点にしたことに求められるという。  小野寺重道は、四郎あるいは弥四郎と記す系図があり、道縄の嫡子というよりは庶子であった可能性がある。小野寺氏の名字の地は下野国であり、新恩の地に嫡流が下向するとは考えられず、おそらく庶子か代官が下向して現地の支配にあたったものと思われる。おそらく、重道は小野寺一門として威勢はよかったものの、分流の存在であり、雄勝を分け与えられたのではないだろうか。とはいえ、みずから下向することはなく、数代を経たのちの後裔が入部したものと考えるのが自然であろう。
 その人物が、さまざまな系図に雄勝郡稲庭に入部したとされている経道ではないだろうか。そして、経道は大泉から稲庭に入部してきたと記されている。しかし、重道の時代から経道まで半世紀という時間があり、小野寺氏の城館がなかったとは考えにくく、おそらく稲庭城は重道が入部した直後から築城が始まり、それに加えて川連・湯沢・西馬音内の各支城が築かれて小野寺氏の雄勝経営を支えたものと考えられる。これらのことから、山北小野寺氏の場合、重道系と経道系の二系統があったようにも思われるのである。

仙北小野寺氏の台頭

 経道に関して「小野寺正系図」「和賀小野寺系図」には三浦泰村の二男で、のちに大泉に移り、雄勝郡稲庭に移住とある。また、「稲庭系図」には下総国大泉荘より、羽州仙北稲庭に移住とある。経道は小野寺氏に生まれた人物ではなく、他家より入って小野寺氏を継いだようだ。
 いずれにしても、山北小野寺氏の場合、経道が稲庭城に拠って所領の経営にあたった。そして、米どころ横手盆地を西に望む要衝を占めたため、次第に力を蓄え、孫の道有の代には雄勝・平賀・仙北三郡の庄主といわれるほどに勢力を伸ばし、所領の郷単位に一族を分置して惣領が統制をとったものと考えられる。経道の子忠道の弟のうち、二弟道直が西馬音内にいて西馬音内氏を称し、三弟道定が湯沢にあって湯沢氏を称したのはその例である。
 南北朝期、小野寺氏は南朝方に属して活躍したようだが、その動向は明らかではない。足利将軍義満は陸奥・出羽を関東府の管轄下に入れ、陸奥・出羽は関東分国となった。その結果、小野寺・安東・戸沢氏らは関東公方に従うことになった。
 十五世紀初め(1400年〜)、小野寺泰道は、本拠を雄勝郡の稲庭から平鹿郡の沼館に移している。この時期は三戸城を拠点とする南部氏が奥羽山脈を越えて出羽に進出を図った時期にあたり、小野寺氏も南部氏と衝突をした。そして、長禄二年(1458)泰道は南部三郎(南部右京亮)に屈したといい、その後の寛正六年〜応仁二年(1465〜68)の抗争では勝利を収めたと伝える。泰道は、小野寺氏歴代を代表する雄であり中興の祖とされる。泰道は秋田城介泰頼と両人で南部三郎の幕下に属していたが、その後南部氏と交戦し、ついには打ち勝って仙北の本城に居住した。かれは京都の将軍家との接触を深め、足利義教や義政に馬を献ずるなどして歓心を買っている。
 『応仁武鑑』には、小野寺政道が将軍義政から出羽守護職に任命され、京都の姉小路高倉に居館を構えたと記されている。また小野寺氏の当主たちの名をみると、将軍から偏諱を賜ったと思われる晴通、輝通の名を見出せる。これらのことは、小野寺氏が貢馬などを通して室町幕府に接近し、勢力拡大を図っていたことを物語るものであろう。

仙北地方に勢力を拡大

 戦国時代になると本拠を横手城に移し、近隣に進出して全盛期を迎える。小野寺氏が横手城に入った経緯は、天文年間(1532〜55)に横手城主であった一族の横手佐渡守を中心とする家中の叛乱があって、小野寺輝道(泰道)が戦死し、その子景道の代に至って叛乱を鎮圧して雄勝・平鹿の二郡を掌握、本拠を横手に移したのだという。そして、小野寺氏の全盛はこの景道からその子義道の時代で、このことは『語伝仙北之次第』とか『奥州永慶軍記』などの史料・軍記物語などからうかがい知られる。
 ところで、永慶軍記には輝道─景道─義道と小野寺氏の世系を記しているが、『千福文書』では、輝道を義道の父として景道がみえないため、永慶軍記の記述を疑わしいものとして、景道の存在を取り上げない研究者もいるという。いずれにしろ、小野寺氏は輝道の時代に三郡の領主と称されるまでに領地を拡大したことはまぎれもない史実である。永慶軍記にも、京から帰国した輝道が「東国に下りて其武威を振ひ、同国大曲・苅和野・神宮寺・角館の要害を攻落し、増田の城主小笠原信濃次郎光冬を討ち、松岡の城主柴田九郎を討ち、由利十二党・最上・置賜間室の庄も悉く随ふ」と小野寺氏の勢力拡大の様子を記している。
 そして、輝道は「稲庭城主小野寺系図」に将軍義輝に召されて仕え「輝」の一字を賜り、小野寺中宮介輝道と号したと記し天文二十一年に湯沢城を攻めて討死したとしているが、輝道のあとに一代を加えなければ義道まで間隔が空き過ぎる。ために、景道が挿入されたのだという。また、輝道の父については、「神戸小野寺系図」は稚道とし「稲庭城主小野寺系図」では稙道としている。小野寺氏当主として大永元年(1521)に上洛し、将軍義稙から稙の一字を賜ったとすれば輝道の父は稙道が正しいと考えられる。これから推せば稙道─輝道─義道という系譜となる。
 一方、別本の小野寺氏系図によれば、京から帰国した稙道は間もなく家臣の叛乱にあって自害した。幼い輝道は危機から脱して庄内の大宝寺氏を頼って落ちて行った。のちに大宝寺氏の娘を娶り、その支援を得て沼館城に復帰し、永禄年間(1558〜70)に入って周囲への勢力拡大を図るのである。永禄八年(1565)間室の鮭延氏をその傘下におさめ、同年に嫡子義道が誕生した。そして、天正五年(1577)に本拠を横手に移し、その領域は雄勝郡を中心に、北は平鹿郡を含み、仙北郡の六郷・本堂・前田氏らを臣従させ、神宮寺、刈利野方面までその勢力圏に入れた。
 かくして輝道は、横手城を本拠として稲庭・川連・西馬音内・大森・湯沢などの支城に一族を配置し、小野寺氏最大の版図を築き上げた。この勢力を背景として、輝道は角館の戸沢氏、北西の安東氏らと対立し、を戦国大名へと飛躍したのである。とはいえ、戦国期の植道(稙道)から義道に至る小野寺氏の世系については不明瞭なところがあり、小野寺氏を戦国大名に成長させた輝道にしても、その事蹟については諸説があり必ずしも明確ではない。これらのことは、小野寺氏がのちに没落したことで、家譜・家伝に混乱が生じた結果であろう。

近隣諸豪との抗争

 さて、戦国時代に入っても小野寺氏の勢力に衰えはみえなかった。南は最上氏、北は安東氏、あるいは戸沢氏と対等にわたり合った。小野寺氏は輝道・義道の時代に、戦国大名としての体制をほぼ整え全盛時代を築きあげた。城下町が整備され、正平寺・西誓寺などを保護・再興し商人を集め、横手は商業・交通上の要衝となった。
 戦国期の小野寺氏の勢力拡大は、大きくみて二つの方向に向かっている。一方は、最上地方への進出で、永禄期(1558〜70)には最上郡の金山城・鮭延城に重臣を配し最上氏と戦った。もう一方は、北の仙北地方とそれに続く秋田氏との対立であった。仙北地方への侵攻は永禄の中ごろからといわれ、大曲の前田氏を被官とし、苅和野・神宮寺方面を併呑し戸沢氏を圧倒した。この間に六郷氏や本堂氏を被官としたようだ。一方、南に隣接する最上義光の勢力が次第に拡大し、義光は義道を圧迫するようになってきた。こうして小野寺氏の威勢にも翳りが見え始め、それは、天正九年(1581)に間室の鮭延氏が離反したあたりからで、次第にその版図も縮小し始めていった。
 そのような、天正十年(1582)に越前千福遠江守に宛てた書簡に織田信長に謁見したい旨を述べてのち、輝道の動静はみえなくなる。そして、天正十四年(1586)最上氏と雌雄を決した有屋峠の合戦に輝道の存在を感じさせるものはまったくない。おそらく、天正十三年までの間に死去したものと考えられる。しかし、いずれの系図もの輝道の享年は記されていない。輝道の死は、小野寺氏の全盛時代に晩鐘をつげるものでもあった。同十年、小野寺輝道(景道とするが年代的に疑問)は信長に臣属するために雄勝城を出立、留守を嫡子義道に任せた。この時期は秋田氏との間が険悪な時期でもあり、義道は幕下から人質をとることにし、由利衆からも人質をとった。
 由利衆は由利十二頭とも呼ばれ、由利郡に割拠していた小大名たちであった。そして、かれらは小野寺・秋田氏の影響を受けて、たとえば矢島氏は小野寺氏寄り、赤尾津氏は秋田氏寄りと近隣諸大名と関係を結んでいた。義道としては後背が定かではない由利衆を押さえるため人質をとったというところだろう。ところが、人質の一人である石沢氏の母は自分たちが死ぬことによって小野寺を討ってもらおうと考え、一緒にきていた人質である男の子供と共に自害した。これを知った由利十二頭は、一揆を組んで小野寺氏に対して兵を挙げ大沢山に布陣した。これに対して小野寺方も兵を送り激戦が行われた。

小野寺氏の衰勢

 由利十二頭との戦いは「大沢合戦」と呼ばれ、その勝敗に関しては小野寺氏が勝利した、いや由利衆が小野寺勢を撃ち破ったなど諸説がある。しかし、由利衆の戦死者五十余人に対して、小野寺勢の戦死者四百八十人であることから、小野寺義道の敗北であった。その後、義道は由利衆に人質を返しているが、義道にとって大沢合戦は痛い失点となった。
 輝道の死後、名実ともに家督となった義道は、天正十四年、最上領となった旧領の回復を図って挙兵、六千余の軍勢を率いて有屋峠に向かった。有屋峠は雄勝町と山形県の最上郡金山町との境をなす峠で、義道はこの峠を通って最上領内に攻め入ろうとしたのである。小野寺側の動きを知った義光も一万余の軍勢を率いて小野寺勢を迎え撃つべく有屋峠に急行した。五月八日、小野寺・最上の両軍は有屋峠で激突し戦いが繰りひろげられた。
 緒戦は、小野寺方の名将八柏大和守の作戦と指揮によって最上勢は多数の討死者を出して軍を退いた。そのころ庄内で大宝寺氏と戦っていた最上勢が敗戦を被ったとの報が義光にもたらされ、義光は子の義康に有屋峠を任して庄内へ急いだ。十二日、義康率いる最上勢が反撃に転じ、その攻勢に小野寺軍は五百余人が討死し総退却となり痛い敗戦を喫した。
 翌年、義道は秋田の幕下大江広治にそそのかされ、秋田実季を挟撃しようとして刈和野に出陣した。ところが、義道の刈和野出陣を知った最上義光は好機として兵を出した。ここに、小野寺義道は腹背に敵を受けることになり、兵を分散して両面作戦に出た。これが義道一代の失策となって、最上氏は破竹の勢いで小野寺方の支城を攻略した。さらに、間室城主の鮭延典膳が小野寺方の諸将を懐柔したことで、雄勝郡の諸将は最上氏に投降した。ここに至って、小野寺氏の勢力は急速に後退していったのである。

仙北検地騒動

 天正十八年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置を行うと上杉景勝の命じて最上・由利.庄内・仙北など十一郡の検地を命じた。小野寺義道は小田原に参陣し、小田原から京に上り軍を帰した。その義道の留守中に、「仙北検地騒動」が起こったのである。上杉景勝は由利郡の検地を終えると、大軍を率いて仙北郡に入った。そして、大谷吉継が横手城、藤田能登が角館、安田上総介が六郷に入り、それぞれ分担して検地にあたった。しかし、その部下たちは上の威勢を笠にきて傲慢な振舞いが多かったため反発を招いた。
 検地方の振るまいに業を煮やした小野寺氏領の諸城主らは、十月十日を期して百姓一揆を起こす手筈を決めた。ところが、十月の初めに六郷城下で検地方と百姓の間に衝突があり、それがきっかけとなって一揆軍は蜂起し、増田城を占拠して立て籠ったのである。これに対して、景勝は増田城攻撃の軍を派遣し、激戦の結果、一揆勢は討伐され検地騒動も一段落をつげた。一揆の背景には、豊臣秀吉に不満を抱く伊達政宗の煽動があったと伝えられている。
 この騒動は、小野寺義道は預かり知らぬとはいえ、中央の心証をかなり悪くしたことは否めなかった。それがあってかどうかは不明だが、検地の結果小野寺氏の旧領の一部が太閤蔵入地とされ、小野寺氏はその代官に任命された。そして、天正十九年正月、領地目録を下付されたが、そこに記された領地は上浦郡の三分ノ二と決定したのである。残りの三分ノ一は、最上義光に与えられたようだ。
 天正十九年、小野寺義道は九戸一揆に出陣し、上法寺口において手柄をたてている。九戸の陣後、由利の諸将が矢島五郎の謀殺を企て、翌年、矢島氏は仁賀保氏らに攻撃されて西馬音内に逃げ込んだ。のちに矢島氏は小野寺氏攻略の陰謀があるとする最上氏の謀略にのった義道によって殺害された。
 このころ、最上義光は先に安堵された上浦郡の一部の支配を実質化しようと作戦を練った。しかし、小野寺氏家中に八柏大和守道為がいる以上困難とみた義光は。謀略をもって小野寺氏内部に手を回し、八柏大和守を義道によって謀殺させた。そうして、文禄四年(1595)湯沢城を攻略せんとして楯岡豊前守満茂を大将として、鮭延秀綱・小国・延沢らの軍が押し寄せた。

最上氏との抗争

 城主の小野寺孫七郎・孫作兄弟は最上の大軍を迎え撃って激戦となった。この事態に小野寺義道は援軍を繰り出そうとしたが、周囲の状況から心ならずも小野寺兄弟を見殺しにせざるを得なかった。こうして湯沢城は落城し、最上氏の支配するところとなった。
 湯沢城が落城したことで、小野寺方の岩崎城が最上軍の攻撃目標となった。そして、前森城の原田大膳が岩崎城に夜襲をかけ、岩崎城も最上方に落ちた。小野寺義道は原田大膳を討つために横手城を出陣した。原田も籠城策は不利として水瀬川を渡り、進藤ケ原に布陣した。小野寺勢は攻撃を開始したものの、原田勢の手強い攻撃によって川を渡ることができず、結局兵をひきあげた。
 このようにして、小野寺氏は次第に最上軍によって領地を侵食されていったのである。一方、最上義光は楯岡豊前守を湯沢城主とし、新領地統治をさらに確固たるものにしていった。
 慶長二年(1597)、小野寺義道は湯沢・岩崎落城の鬱憤を晴らすため湯沢へ押し出した。楯岡豊前守は湯沢城の北に兵を出して、小野寺勢に対峙した。義道は浅舞を経て植田・川熊を通り森山に陣を布いた。三月七日未明、両軍は激突した。戦いは一進一退し双方討死する者、手負う者が続出した。両軍の放つ鉄砲の音、鯨波の声は天地にとどろき、押えの兵として残されていた者たちも加わり、両軍、大乱戦となった。
 このとき、豊前守は手兵を割いて北に向って駆け出させた。これを見た小野寺勢は包囲されてはと動揺が走り、陣が崩れた。これを好機とした豊前守は兵を繰り出し、横手勢を追撃したが、小野寺勢は本陣で最上勢の追撃を退けた。小野寺勢が陣を固めたことを察した豊前守は、戦はこれまでと湯沢に帰陣し、小野寺義道も植田に退陣した。

最上氏の攻勢

 この戦いは「大島原の合戦」と呼ばれ、結果として小野寺方の敗戦であった。以後、義道は横手城に立てこもり、最上勢の蹂躙に対して手を拱くばかりとなった。勝ちに乗じた最上勢は、小野寺方の要害を次々と攻略していった。湯沢付近の植田・今泉・鍋倉・荒田目は攻め落とされ、ついで豊前守は三千余騎を率いて馬倉城に攻め寄せた。馬倉城主の馬倉能登守・同右衛門尉らは少しもひるむことなく、豊前守の軍勢を迎え撃った。
 馬倉勢は、寄手に弓・鉄砲を散々に撃ちかけ最上勢が兵をひくのをみると、城門を開いて撃って出た。最上勢も予期していたところであり、双方激戦となった。馬倉勢は命はないものと奮戦したため、最上勢は防ぎかねる事態となり一旦兵を引いた。
 かくして馬倉勢は最上勢の攻撃を斥けたが、最上勢は大勢でもあり、ついに攻め落とされることは必定として、横手城に退くことに決した。その夜、最上勢が遠く引いていることを確認すると、女・子供を先頭にして夜陰に紛れて城を脱出した。しかし、抜駆けをせんとして馬倉城に戻ってきた最上勢がこれを発見し、ただちに馬倉勢に襲いかかった。馬倉勢は防戦に努めたが、多勢に無勢、ついに馬倉の将士らは最上勢に討ち取られてしまった。
 このように、小野寺氏と最上氏は繰りかえされたが、情勢は小野寺氏が劣勢におかれた。しかし、さきに最上方に降っていた部将たちは、心から最上勢に降服したわけではなく、隙あれば湯沢城を攻め落として最上勢に一泡ふかせようとしていた。かれらは、西音馬内頼道を盟主として、庄内にある人質を取り戻す計略をたて、庄内に赴くと奇襲のすえに人質奪還に成功した。
 人質奪還に成功すると、最上氏に攻略されていた河熊・鍋倉・植田・新田の四城の回復を目論んだ。西音馬内頼道らの呼び掛けに最上に降っていた者たちも馳せ加わり、四城に攻めかかった。最上勢はいずれも小勢をもって守らせているだけで、まったく油断をしていたため、小野寺勢の攻撃によってたちまち城は陥落した。勢いにのった小野寺勢は、湯沢城にも攻めかかったが、さすがに楯岡豊前守の守備は堅く落城には至らなかった。こうして、小野寺勢は最上方に一矢を報い、以後、この方面における小野寺勢と最上勢の小競り合いは関ヶ原の合戦に至るまで繰り返された。

関ヶ原の合戦

 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦が起こり、小野寺義道は家康に属するため天童まで出陣し、家康から「御出陣祝着の至候。早々帰陣有りて御休息成さる可く候」とあるにより、そこから引き返した。このとき、家康は北羽の武士に対し最上義光の統制のもとに行動するよう命じた。しかし、最上氏は小野寺氏にとって以前から対立してきた敵であり、慶長期に入っても争いは続いていた。
 やがて、上杉景勝の執政直江兼続が兵を率いて最上領に進攻し、所々で最上軍と戦い、なかでも長谷堂城の合戦は激戦であった。苦戦に陥った最上氏は伊達氏に救援を求めたが、政宗はまったく動かない状態であった。こうした情勢に接して動揺した小野寺氏は、急拠最上氏のもとを離れ会津方に鞍替えした。これが、小野寺氏の命取りとなったのである。間もなく関ヶ原の合戦は家康方の勝利に終わり、直江兼続は兵を引き揚げ、会津の上杉氏は降伏した。ここにおいて、小野寺氏は孤立無援の状況におかれた。
 十月、清水大蔵大輔を大将とした最上勢は秋田氏、由利党の応援を得て小野寺方の大森城に攻め寄せた。大森城主は義道の弟五郎康道で、城兵を三方に配備して最上勢を迎え撃った。最上勢は弓・鉄砲を射かけて攻め寄せ、たちまち町構に乱入した。ここを破られれば一大事と、康道は大長刀をもって敵勢に斬り込んだ。最上勢は必死の勢いの康道らに切り立てられ、一旦、外曲輪まで引き退いた。小野寺康道は最上勢を斥けたとはいえ、敵は大軍であり落城は必定と悲痛な思いにあった。そこへ、吉田城主の舎弟孫一郎陳道が郎党を率いて大森城中に入ってきた。また、兄義道の郎党岩崎・前郷・落合らも援軍として城中にやって来た。これに力を得た大森勢は、各々の持ち口の人数を増やし最上勢の攻撃を待った。
 他方、最上軍の湯沢豊前守と鮭延秀綱が評定して、柳田城を攻略するために出陣した。城将柳田治兵衛はよく防戦したが、ついにやぶれ城兵ことごとく討死した。孤立したとはいえ、小野寺軍には身命を投げうって節を全うせんとする武将がいたのである。
 さて、大森城に援軍の入ったことを察した最上勢は、大森城は包囲を続けて、吉田城を攻め落とすべしと吉田城に向かった。城将の陳道はただちに横手城の義道に急報し、みずからは大森城を出て般若寺・佐藤・八幡らの郎党を率いて、最上勢が攻め寄せてくる道を遮り陣を備えた。かくして、最上勢の先鋒里見越後守との間に戦端を開き、両軍入り乱れての激戦となり、ついには双方引き分けとなり、最上勢は大森の陣に帰り、小野寺勢は吉田・横手に引き揚げていった。
 このように、最上勢は南境から攻め込み、湯沢城の最上勢と合して横手へ進撃し、馬鞍城の争奪戦を行い、さらに西馬音内に進む途上で柳田城の要害を攻略したが、馬鞍城の攻略はならず、西馬音内に進むこともできず、大森城の攻略もならなかった。さらに、吉田城を攻略せんとして、小野寺勢と激戦となり引き分けるなど、勝敗はなかなか決しなかった。そこへ、奥州の戦乱は中止すべしとの家康の命令がとどき、双方和睦して最上勢は兵を引いた。

小野寺氏の没落

 関ヶ原の合戦において、義道としては、徳川家康に敵対したという意識はなかったであろうし、最上勢と戦ったのは、御政道に関わるものではないと弁明し、領地の削減はやむなしとしても御家継続はなるものと確信していたようだ。何よりも、首謀者の景勝ですら領国を削られるに止まっていた。しかし、最上義光は家康の覚えめでたく、義道は外様であったことから、結果は領地没収・城地追放のうえ、石見国に流罪という処分に決したのである。ここに、小野寺氏の運命は極まった。最上氏との対立はあったとはいえ、大所高所から政局を見る目をもたなかった義道の状況判断の甘さがもたらした結果でもあった。
 慶長六年(1601)正月、徳川家康の命によって義道と一族は石州に流罪を命じられ抵抗もすることなく唯々諾々として、多年にわたって住み慣れた横手城を後にした。小野寺氏譜代の者らは、主人の供を願ったがそれは許されなかった。かくして小野寺義道は、石州津和野藩主坂崎出羽守に預けられる身となり、戦国大名として威勢を振った出羽小野寺氏は没落した。
 このとき、弟の康道も石州に流罪となったが兄義道と同道したかどうかまでは分からない。その後、小野寺氏の再興を図ったが、それは受け入れられるものではなかった。元和二年(1616)、坂崎氏が改易され亀井氏が津和野城主となると、兄弟は預け替えとなった。そして、義道は三百石、弟の康道は百五十石の心付米を与えられ、それぞれ子孫は亀井氏に仕えた。
 さて、義道が石州に流された時、二歳の幼子が横手に残された。戸沢安盛は之を憐れんで百人扶持を給して客分として養った。成人ののちは四百石を給して判紙を与えた。二歳の幼子は義道の二男で保道、また直道を称し、八十歳をもって卒した。その子高道は小野寺主水と称したが、子孫は山内を称して現在に至っているという。義道にはもうひとり宮内という男子が播州姫路にいて、のちに、赤穂浅野家に仕えた。小野寺十内秀和という人物で、秀和は一時仙北十内を称したこともあったという。秀和はのちに赤穂浅野家に仕え、忠臣蔵のひとりとして吉良邸の討ち入りに参加した。


小野寺氏余聞

 小野寺氏の没落は、小野寺氏自身はもとより、郎党、領民らにとっても感慨無量のことであったと思われる。ところで、『奥羽永慶軍記』には、この間における妖怪談が伝えられている。
 小野寺氏はの幕の紋は、古来、瓜を画けるは古来、吉左右の故あり。夫より先は、牛の紋を用ひしろ言ひ伝ふ。近代の族の紋に黒絵にて牛を画きしものもある。慶長五年(1600)十月末に何処からともなく大なる牛一疋来たりて、小野寺義道が常の座敷に上りて死した不思議があった。義道の小姓に鳥海酉之助とて十六歳になりしが、朝早く起きて装束を整え登城せんとて、我が家を出て大手の門を入りて朴木坂を二町程上れば、前代よりありし池の中より大石を引き出せし如く、一尺あまり積れる初雪を左右に分けて城に上りたる跡あり。酉之助、之を見て大に驚き、不思議なこともあるものだ。此の池より大蛇の出た跡であろうか、何には兎もあれ仔細をつきとめんと思ひ、袴のそばを高くとりて其の跡を慕ひ行きしに、道より上手を通り、土堤を上り、塀を破ること三重にして内庭に入り、雪垣を破りて縁の上より上座敷に入りし跡なり。酉之助の伯父鳥海一五郎、高橋弥八郎なども追々来り、座敷に入り見れば、何とも知らず床の上に五尺許りの丸き物あり、酉之助、太刀の背を以って打て見るに磐石の如くである。能々見るに田貝と云ふものであった。義道、此の由を聞き来りて之を見て不思議なるもの哉、元の池に捨てよと下知した。中間六、七人にて之をかつぎ出して池に捨てた。斯かる不吉の有りしにや、翌年(1601)遠流の身となった。
 というものである。これは、小野寺氏の没落に納得でき兼ねる人々が、みずからを納得させるために捏造した怪談であり、当時の人々の気持ちの整理の仕方が察せられるものといえようか。


参考資料:秋田県史/湯沢市史/小野寺盛衰記 など】  ・ダイジェストへ  ・お奨めサイト…小野寺盛衰記

●小野寺氏の家紋─考察


■参考略系図


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