府中小笠原氏
三階菱
(清和源氏義光流) |
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小笠原氏は、甲斐源氏の加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に拠り、小笠原を称したのに始まる。後世、信濃国を本拠として全国に一族を分出した小笠原氏は、甲斐国から史上に現れたのである。文治元年(1185)、頼朝の推挙で信濃守に補任されている。
頼朝による信濃国支配は、源氏一門の有力御家人を送り込むことで推進され、小笠原氏も源氏一門として甲斐から信濃へ勢力を浸透させていったようだ。遠光の二男長清が、伴野荘の地頭職を有したのもこの流れの結果と考えられる。長清は父とともに源頼朝に従って戦功を挙げ、『吾妻鏡』にも小笠原長清・長経父子の活躍が記されている。ところが、正治元年(1199)頼朝が没すると、二代将軍に就いた頼家の義父にあたる比企能員と、頼朝の妻政子とその実家である北条氏との対立が表面化した。当時、比企氏は信濃国守護であり、長清の嫡男長経は頼家の側近であったことから、小笠原氏は比企氏の軍事指揮下に属した。北条と比企氏の対立は能員の敗北に終わり、長経ら信濃御家人は捕らえられ所領没収のうえ配流に処された。
その後、赦されて「承久の乱」には武田氏とならんで幕府軍の中山道の大将となり京都に攻め上り、戦後の論功行賞で阿波国守護職を与えられ長経が相続している。比企氏の乱ののち、信濃国守護職は北条氏に受け継がれ、元弘三年(1333)まで北条氏が継承した。この間小笠原氏は、北条氏との関係を強め信濃に勢力を拡大していった。ただし、小笠原惣領職は、一時期、一族である伴野氏が掌握していたようで、霜月騒動において伴野氏が没落したあと、ふたたび小笠原氏に帰したとされている。
南北朝の争乱
元弘元年(1331)、後醍醐天皇が倒幕の軍を起こし山城国笠置山に籠った。いわゆる元弘の乱に際して、幕府軍は討伐軍を派遣した。このとき、信濃国御家人らは信濃守護北条氏に指揮されて出陣、軍大将として小笠原宗長・貞宗父子も従軍した。
笠置城は一月で落城し、後醍醐天皇は隠岐に流された。しかし、間もなく同島を脱出して、伯耆国船上山に拠り討幕の号令を全国に発した。これに応じた幕府方の大将足利高氏は小笠原氏の惣領宗長に支援を頼み、再々にわたって帰属を勧めこれを容れた宗長は高氏方に与するようになった。やがて、幕府が滅び建武の新政がはじまると、建武二年(1335)に貞宗は信濃国守護に補任され、本領地である埴科郡船山を守護所に定めた。しかし、建武の新政は恩賞など平等を欠くことが多く、また時代錯誤ともいえる政治姿勢に武士らの不満が高まり、かれらは尊氏を頭領と仰ぐようになった。
七月、北条高時の遺児時行を擁した諏訪一族が守護所を攻撃した。このとき、貞宗は北条軍を迎え撃ち、府中鎮撫軍を派兵したが、勢力を得た時行は鎌倉に攻め込み、尊氏の弟直義を逐って鎌倉を占領した。世にいう「中先代の乱」である。乱に際して尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下り、時行軍を制圧し鎌倉を回復した。
鎌倉の尊氏に対して天皇は再三にわたって帰洛を命じたが尊氏はそれを無視しつづけたため、後醍醐天皇は新田義貞を大将とする討伐軍を送るに至った。ここに尊氏は後醍醐天皇と袂を分かち、時代は南北朝の内乱へと移行していくことになる。その後、紆余曲折を経て足利氏=北朝方が優位を得て、尊氏は足利幕府を開いた。
この間、小笠原氏は足利氏に属して活躍し地歩を固めていった。当時の足利政権内における小笠原氏の地位を知るものとして、康永四年(1345)八月に執行された後醍醐天皇のための天竜寺供養儀式がある。この供養に際して多くの武士が随兵として従ったが、その先陣十二名のなかに惣領小笠原政長がみえ、供奉武者三十二名のうちに、政長の弟政経や一族の政光・宗光らの名がみえている。小笠原氏が先陣を勤めたことは、信濃守護家というだけではなく、幕府の政権内にあってかなりな待遇を受けていたことをうかがわせる。
その後も、南北朝の内乱は収まったわけではなく、信濃国内が守護小笠原氏の統制下に入ったわけでもなかった。南朝方の宗良親王が信濃に入部し、文和四年(1355)、宗良親王のもとに集まった信濃南朝勢力の諏訪氏や仁科氏らの一族は、幕府打倒の兵を挙げ長基の軍勢と桔梗ケ原で激突した。合戦は小笠原氏の大勝利に終わり、この合戦を契機として信濃の南朝方勢力は衰退、幕府政治が浸透していった。
大塔合戦
ところが、京都の幕府の管理下にあった信濃国が鎌倉公方足利氏の支配下におかれるようになり、関東管領上杉朝房が信濃守護に任命された。小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。その後、信濃国は幕府管理下に戻ったが、守護職は斯波氏が応安五年(1398)まで踏襲した。しかし、軍事指揮権はある程度小笠原氏が掌握していたようだ。
応永六年(1399)、長基の子長秀が信濃守護に任命され、小笠原氏のもとに守護職が戻ってきた。長秀は応永七年(1400)七月三日京都を出発して信濃に向かい、佐久の大井氏館を経由して善光寺に入った。当時流行したバサラ大名の一人であった長秀はこのとき三十五歳で、都風の派手に装った行列を組んで善光寺に入った。そして、善光寺において国人らと対面した長秀は、紐も結ばず、扇も持たず、ましてや一献の沙汰もしなかったという。
このような長秀が、南北朝以来の対立により未だ小笠原氏に対して心服していない国人領主たちに所役を命じ、理非を正そうとしたのである。そして、ちょうど収穫の時期にあたっていた川中島で、ここは守護が支配する所だと称して年貢を取り上げにかかった。川中島は北信の有力国人領主村上氏が支配するところであったため、これが発端となって守護小笠原氏に対する国人領主たちの反感は決定的なものとなった。
所領には双方の言い分があり、一方的に守護の論理だけで強行されれば、反守護の立場で過ごしてきた国人たちにとっては、死活問題であった。そして、村上氏をはじめ大文字一揆ら、北・東・中信地方の国人らが結集して守護長秀に兵を挙げたのである。このとき、守護長秀に従ったのは、小笠原氏が地盤とした伊那・府中地方の武士たちであった。これが、「大塔合戦」ととばれる戦いであり、発端はともかくとして南北朝以来の小笠原氏と国人たちとの対立が背景にあったことは疑いない。
国人らは、篠ノ井付近に陣を取り善光寺の長秀と対峙した。長秀は善光寺では支えきれないと思い、塩崎城に入って守ろうと善光寺を出た。そこを国人らに攻撃され、長秀と一部の兵は塩崎城に入ることができたが、坂西長国・古米入道・飯田入道・常葉入道らは進路を遮られて大塔の古砦に逃げ込んだ。しかし、大塔はにわかに逃げ込んだ砦でもあり兵糧もなく、ついに全員討死して果てた。一方、塩崎城に入った長秀も国人らの攻撃に負傷者が続出し、命運も尽きんとした。そこに、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで長秀は窮地を脱し、すごすごと京都に逃げ帰った。当然、信濃守護職は罷免されてしまった。
●大塔合戦要図。
小笠原氏の再起と分裂
大塔合戦のとき、長秀の父や弟も信濃にいたが、双方の間で齟齬があったのか合戦には参加していない。
信濃国守護職を失った小笠原氏に転機が訪れるのは、応永二十三年に起きた「上杉禅秀の乱」にあった。このとき、小笠原惣領職は長基の三男政康で、禅秀の乱には一族・国人衆を率いて信濃の防備に努めた。この乱を契機として次第に軍事指揮権を掌握した小笠原氏は、幕府にとって無視できぬ存在となり、同年十二月、政康は信濃守護職に補任され、以後、嘉吉二年(1442)に卒するまでその職にあった。
鎌倉公方足利持氏は、かねてから幕府と対立的姿勢にあり、永享元年(1429)足利義教が将軍職を襲名すると、ついに幕府に対して叛旗を翻した。「永享の乱」である。同十年、義教は持氏討伐の綸旨を得て、小笠原氏らの守護軍を組織し持氏討伐の軍を発した。政康は信濃国人衆を引具して箱根の峠を越えて鎌倉に進攻した。持氏方は一挙に瓦解し、持氏は捕らえられ自害、鎌倉公方家は滅亡した。
持氏の遺児春王丸と安王丸は下総結城城主の結城氏朝に奉じられ結城城で兵を挙げた。これに持氏方であった関東の豪族たちが参集し、鎌倉公方復活を期して幕府に立ち向かった。この「結城合戦」に対して幕府は小笠原政康に出陣を命じ、政康は信濃の国人衆を組織して出陣、結城城を攻め落とす戦功を立てた。このとき、小笠原氏に従った信濃国人たちの名が『結城陣番帳』から知られる。それを見るとほとんどの信濃国人が参陣しており、小笠原氏が守護権力を確立していたことを示している。
政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって嫡子宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた持長との間で相続争いが起きた。これは「嘉吉の内訌」といわれ、小笠原氏の内紛としてよく知られている。持長はかつて、結城合戦にも将軍の命を受けて参陣し、将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功をあらわした。さらに、管領畠山持国とも縁戚関係にあり、実力と政治的背景をもった持長だけに相続争いに頭角をあらわしたのである。
結局、信濃守護職は在国していた宗康に安堵された。しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も二派に分裂して対立抗争が続いた。文安三年(1446)、宗康は弟の光康に支援を頼み、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して持長方との決戦に臨んだ。そして、善光寺表の漆田原で持ち長軍と激突、戦いは激戦となり数に優る宗康が優勢であったが、最後の激突で宗康は討ち取られてしまった。持長は宗康を討ち取ったとはいえ、家督は光康に譲られていたため、守護職と小笠原氏惣領職は光康に安堵された。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も、持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いを深めていった。
【大塔合戦/結城御陣の信濃武士:Acrobatリーダが必要です。】
信濃の戦国時代
応仁元年(1467)に起こった応仁の乱は文明九年(1477)まで十一年間にわたって続き、京都を焼土と化してしまった。そして、この応仁・文明の乱の余波は全国に広まっていき、時代は戦国の様相を濃くしていった。ときの信濃国守護は、政康の次男で宗康の嗣子となった政秀であった。政秀は寛正四年(1463)から文明九年まで守護職を勤め、小笠原氏最後の信濃守護となった。応仁元年(1467)、京都から帰国し伊那城に拠った政秀は、持長の子清宗の府中城を襲った。これが、信濃国における応仁の乱の始まりであった。
この頃、小笠原家は三家に分かれて鼎立していた。すなわち守護家で鈴岡城主の政秀、政康の孫家長の伊那小笠原家、そして本来惣領家にあたる持長の孫で林城に拠る長朝の府中小笠原家というように、小笠原一族は本・支流が三つ巴となって抗争を続けていたのである。
明応二年(1493)、かねてより対立抗争を続けていた政秀と家長であったが、家長の嫡男定基が陰謀を企てて守護政秀を松尾城に誘い出して殺害した。この事件によって、小笠原氏の守護時代は終焉を迎え鈴岡小笠原氏も滅亡した。その後、長朝の孫長棟と定基との間で合戦が繰り返えされたが、定基は長棟方に降参して信濃国を逐電した。ここに、永年分裂して同族間抗争を続けえきた小笠原氏は統一されるにいたった。しかし、この一族間の内訌により、小笠原氏の戦国大名への道は大幅に遅れをとったのである。
長棟の長男が信濃の戦国大名として知られる長時で、天文十四年(1541)頃に、小笠原家惣領職に就いたようだ。そして、父長棟の代に抗争していた諏訪氏と連衡して、甲斐の武田氏と対決することになる。天文年代における信濃国内は、小笠原長時をはじめ、南佐久の平賀氏、諏訪の諏訪頼重、西筑摩の木曽義康、埴科の村上義清らの群雄が割拠していた。言い換えれば、強力な統一勢力が存在しなかったともいえよう。
一方、甲斐の武田氏は信虎の代に甲斐国内統一を実現して領国拡大の道を歩みはじめ、信虎は享禄元年(1528)から隣国の信濃へ軍勢を出すようになった。天文十年(1541)、武田晴信(のちの信玄)は父信虎を駿河に追放して家督を継ぎ、信濃侵略の機をうかがった。一方、武田氏の家督交代をみてとった小笠原長時、村上義清、諏訪頼重、木曽義康の信濃四将は機先を制して晴信を叩こうと、甲信国境に一万六千の兵を出した。しかし、晴信の兵八千に打ち破られ敗退した。翌年、長時らと軍事行動をともにした頼重は、晴信の侵攻をうけ桑原城で降伏、甲斐に連行されて自害させられて諏訪氏は滅亡した。
同十四年、晴信は信濃に侵攻して高遠城の高遠頼継を降し、さらに長時の妹婿藤沢頼親が拠る福与城を攻めた。このとき、長時は竜ヶ崎城に籠城して藤沢氏を支援したが、劣勢の長時方の城は陥落してしまい藤沢氏も降伏したため伊那は南北に分断された。このようにして小笠原氏の支配領域は、武田氏の侵攻を受けて確実に蚕食されていったのである。
天文十七年、信玄が上田原で村上義清に敗れると、勢いに乗じた村上義清と小笠原長時らの反武田勢力は、武田方の支配下にある諏訪に侵入した。しかし、諏訪の地下人の反撃にあって、長時は負傷し退却した。同年七月、諏訪の豪族の一部が武田氏に叛旗を翻し、長時はその後押しをするため塩尻峠へ出陣した。この報を甲府で聞いた信玄はのろのろと行軍して、本来なら二日かかるところを八日もかかって諏訪に到着した。この武田軍の行動を見た小笠原方が油断しているのを見すまし、信玄は奇襲を敢行した。
●写真:林城址。
小笠原氏の没落
不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に打ち負かされた。しかし、長時も歴戦の勇将だけあって、必死に崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。ところが激戦のさなかに小笠原勢の後方にいた西牧・三村らが、突然、背後から襲いかかった。かれらはかねてから信玄に内応の約束を交していたのである。ここに小笠原勢は総崩れとなって、長時は命からがら本拠へ逃げ戻った。
信玄は追撃の手をゆるめず、村井城に先陣を置いて小笠原一族を追討、十九年七月、ついに長時は林城を逃れて村上義清を頼って落ちていった。小笠原氏を逐った武田氏は林城を破却し、坂西氏の居城であった深志城を修築して馬場信春を城代に据え、府中の経略をすすめ「則信府帰晴信掌握」という状態になった。林城を逃れた長時は村上義清を頼り、義清が戸石の戦いで武田軍を破ると、村上氏の加勢を得て府中奪還を策して安曇郡氷室に陣を構えたが、義清の撤兵などがあって頽勢を挽回するまでには至らなかった。
その後も長時は幾度か失地回復を企てたがいずれも敗れて、ついに天文二十一年六月、中塔城に籠る長時は武田方に包囲されて進退窮まっていた。長時もこれが最後の決戦と考えていたようで、そのことは、京都建仁寺に残された小笠原長時の戦勝祈願の寄進から知れる。晴信は長時に対して投降を勧めたが、長時はそれを拒み再興を期して城を脱出、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り景虎に信濃進攻を懇願した。これが契機となって、戦国史上あまりに名高い上杉謙信と武田信玄による「川中島の戦い」が、双方の政治的利害を絡めて繰り広げられることになる
その後、長時は京都に上り、三好長慶のもとに寄宿して将軍足利義輝に仕え、河内高安に領地を賜った、ともいう。三好氏は阿波小笠原氏の裔であり、長慶は本家筋にあたる長時を丁重に迎えたものと思われる。しかし、永禄七年(1564)に長慶が病死し、翌年には松永久秀と三好三人衆が将軍義輝を暗殺した。長時はこの京都の政変を避けて再び越後に下向し、上杉謙信のもとに寓居した。
天正六年(1578)に謙信が病死すると越後を離れ、最後には会津の葦名盛氏のもとに寄食し、天正十一年、七十歳を一期に波瀾の生涯を閉じた。かくして、小笠原長時は信濃に復帰することはかなわず、流浪のまま客死したのである。一説に、その最期は家臣の手にかかって殺害されたとも伝えられている。
●図:小笠原氏の軍旗。
小笠原氏の復活
長時の三男貞慶は、父長時とともに信玄によって信濃を追放され三好長慶を頼った。その後、永禄十一年に織田信長が義輝の弟義昭を奉じて上洛すると信長に仕えた。
天正三年(1575)、織田信長は武田勝頼と三河国長篠で戦い、武田騎馬軍団に壊滅的打撃を与える大勝利をえたが、戦いに先立って貞慶に信濃出兵を促している。その一方で、信長は貞慶に東国諸大名との外交役を担わせ、佐竹氏・田村氏・小山氏らとの交渉役をつとめさせている。貞慶は室町幕府の守護家として信長からその貴種性が高い評価を受け、外交官的役割に重用されたのである。
貞慶の織田政権における存在は、のちの徳川幕府において儀礼を司った高家的なものであったといえよう。天正九年、信長が天下に覇を遂げたことを示すために行った御馬揃えにおいて、貞慶は公家衆の一員として参列していた。このように、織田氏のもとで貞慶は守護大名(武家)というより公家として把握されるようになっていたのである。とはいえ、貞慶は小笠原氏再興の意志は持ち続けていた。
天正十年(1582)、信長が武田氏討滅の軍を起こすと府中回復を図った。しかし、小笠原氏旧領の安曇・筑摩の両郡と深志城は、武田氏の経略に功のあった木曾義昌に分与されたため、本意を達しないまま三河の徳川家康を頼った。六月、信長が本能寺で横死すると、上杉景勝の後援を得た一族の小笠原貞種が木曾氏を逐い深志城を回復した。これに対して貞慶は家康の力添えを得て貞種を越後に退去させ、念願の府中復帰を果たした。このとき、深志を松本と改めて、信濃史に足跡を残した。
翌十一年、松本城主となった小笠原貞慶は嫡子秀政を家康へ人質として差し出し、徳川氏との麾下的関係を強固にした。その間に、小笠原旧臣や諸寺社に対して所領の安堵や寄進などを行って領内の人心収攬に努め、反貞慶的行動をとる日岐・会田および同族の赤沢氏らの地域領主層に対しては武力討伐を行うなど、安曇・筑摩両郡内の平定を計った。こうして家康との麾下的関係を基礎にして、領域支配権の確立を押し進めた。やがて、家康と秀吉との間に緊張が高まり、ついに小牧・長久手の合戦が起こったとき、貞慶は家康に応じて秀吉方の上杉氏が抑える青柳・麻績の両城と木曾氏の拠る福島城を攻撃し上杉・木曾氏を牽制した。
ところが、家康の重臣石川数正が、家康の人質となっていた貞慶の子秀政を拉致して豊臣秀吉のもとに出奔するという事件が起きた。貞慶はこれを機会に家康から離れて、秀吉と盟約するという挙に出た。これは、天下統一を目前にしている秀吉に服属することで、小笠原氏の一層の安泰を計ろうとする貞慶の賭でもあった。そして、家康方の保科氏を伊那高遠城に攻撃するなど反家康的行動を行った。しかし、天正十四年、対立していた秀吉と家康が和睦し、秀吉は家康に関東の差配を任せ、併せて信濃の小笠原・木曾氏らを家康の麾下に帰属させることとした。貞慶の賭は脆くも破れ去ったのである。こうして、貞慶の独立した領国主としての立場は秀吉の進める近世的な封建社会秩序に組み込まれ、戦国大名としての小笠原氏の歴史に幕を下ろすことになった。
近世大名へ
天正十七年、貞慶はふたたび家康の麾下に入ったが、家督を嫡子秀政に譲って家康に恭順の意をあらわし、さらに、家康の長子で故岡崎信康の娘を秀政の正室に迎えて家康との関係修復に努め、小笠原家を徳川譜代衆に列することを得た。この貞慶の努力によって、徳川幕藩体制期に豊前小倉藩十五万石を領する譜代大名小笠原氏が成立したのである。
秀政は家康の関東移封に従い、下総古河三万石に封じられた。貞慶もそれに従い古河に移住し、文禄四年(1595)同地において波乱の生涯を閉じた。
貞慶のあとを継いだ秀政は小笠原氏にとって旧縁の地である松本に移り、大坂の役では嫡男忠脩とともに戦死した。大坂落城後、その忠功を認められて秀政の次男忠政が宗家を継ぎ、播磨国明石で十万石を領した。のち、豊前小倉十五万石に転封され、小倉小笠原氏として江戸時代を過ごし明治維新を迎えた。
■ 写真=忠政が築いた明石城址
●林城/
●鈴岡城(武田家の史跡探訪)
■参考略系図
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●旧バージョン系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
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