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蠣崎(松前)氏
丸に割菱
(清和源氏武田氏流)


 『古事記』『日本書紀』に記された神武神話には、天皇の東征に抵抗した長髓彦が大和国胆駒で誅されたとある。そして、長髓彦の兄の安日王は、死罪を赦されて北海浜に流され「醜蛮(蝦夷)」の祖となり、その子孫がやがて蝦夷管領を認められ、前九年の役の安倍氏を経て、安藤(安東)・秋田氏に至るという。そして、安藤氏は鎌倉時代の史料である『吾妻鏡』『諏訪大明神絵詞』などに、「奥州夷」「蝦夷沙汰代官」「蝦夷管領」、室町期の史料には「日の本(蝦夷)将軍」というように、その素性と立場が記されている。
 他方、平安末期以後、エゾといえば主に蝦夷島に住む異民族であるとされ、蝦夷島とは現在の北海道から樺太・千島列島までを含む広大な地域をさしていた。その広大な蝦夷島を支配していたのが安藤氏で、安藤氏は古くから蝦夷集団における指導者的立場にあったことはまず疑いなく、蝦夷島のみならず奥羽一円における商業・交通に深く関わっていたと指摘されている。
 このようにして、鎌倉時代から室町時代にかけて安藤氏は、津軽十三湊を本拠として奥羽北方に勢力を拡大した。そして、室町時代には「日の本将軍」が下国安藤氏の称号とされ、天皇までが安藤氏の「日の本将軍」たることを認めていた。ところが、享徳二年(1453)、安藤氏と一族は糠部南部氏と確執を起し、敗れた津軽下国安藤氏の嫡流は断絶した。安藤氏は、蝦夷島や出羽に逃れ、代々の本拠であった津軽十三湊の地を失ったのである。

和人たちの蝦夷島移住と活動

 かくして十五世紀の初め、安藤氏は十三湊を放棄して「エソカ(蝦夷)島」に逃れた。しかし、そのころの「エソカ島」がどのような姿をしていたのか、それを知るべき文書・記録類がほとんどないため、確かなことは分からない。
 とはいえ、発掘された和人の墓や金石文の存在から十四世紀末から十五世紀にかけた時期には、すでに渡島半島の南端に和人が住んでいたことは間違いないが、かれらがどのような生活をしていたかは定かではない。和人は米をはじめとする穀物を主食としていたが、当時の北海道では米はとれなかった。そのため、和人たちは、主食としての米はもとより、生活に必要な物資を本州から入手しなければならなかった。すなわち、必需品を入手するための交換品を獲得しなければならなかったのである。おそらく、獣皮類や干鮭、昆布などを賞品交換用の産物として入手したものと想像される。そして、これらの産物の大部分は、「エソカ島」の原住民であるアイヌの主たる生産物であった。
 これらのことから、和人はアイヌのコタン(聚落)に近いところに住み、アイヌと交易しながら、自らも狩猟や漁労に従事し、そこで得た産物を商人らに売却しながら生活をしていたものと推察される。そのようなわ人と交易するため、幅の広い河川の河口は商船の出入りするところとなり、その結果として和人の多くはこうした地域に住みついた。そして、当時の和人の墓からはいずれも渡来銭が出土しており、かれらが商品流通経済のなかに身をおいていたことを物語っている。
 室町時代の作とされる『庭訓往来』には、当時、京都に集荷された全国の特産物のなかに「夷の鮭」「宇賀の昆布」が挙げられている。また『新羅之記録』には、宇須岸(箱館)全盛のころには、若州より毎年三回ずつ商船が入港し、「此所の問屋家々を渚汀に掛造りと為して住」むほどであったという。そして、和人の活動範囲は、渡島半島の南端のみならず、東は日高の鵜川、西は日本海沿岸の余市に至るまでに拡大されていたのであった。

蝦夷島の諸豪族

 こうして和人たちの交易、生産活動は拡大していったが、それは無統制に行われたものではなかった。当然、なんらかの地域的まとまりや、政治的統制が介在していたことは疑いない。それがどのようなものであったのかは定かではないが、『新羅之記録』では、十五世紀中葉のころ、東は箱館の志苔から西は上ノ国に至る地に十二の館(別表参照)があったといい、道南の各地に居住していた和人の活動もこうした館主と関わりながら、行われてていたものとみられる。
 これら館主の来歴を知るべき史料は少ないが、ある一定の傾向性がみてとれる。すなわち、大館の下国定季に代表されるように館主の多くが安藤氏嫡流の通字である「季」の字を名乗りにもっていること、ついで、茂別の下国家政・箱館の河野政通・花沢の蠣崎季繁など、多くの館主が何らかの形で南部または田名部・蠣崎から渡ったとしていることである。この傾向性から、少なくとも館主たちは津軽安藤氏と深い関係をもった存在であり、おそらく、安藤氏の配下に組み込まれた在地領主層とよばれるべき性格をもっていた。そのなかでも有力な存在であったのが、大館の下国定季、茂別の下国家政、花沢の蠣崎季繁らであった。
 『新羅之記録』によれば、康正二年(1456)、下国安東政季が蝦夷島より秋田の小鹿島に移ったとき「下之国」を弟の下国家政に、「松前」を下国定季に、「上之国」を蠣崎季繁に預けたといい、これらはそれぞれ、「下之国之守護」下国家政に、「松前之守護」下国定季に、「上之国之守護」蠣崎季繁に相当するものとみてよいだろう。
 このことからみて、道南の十二館主は、安東氏─各館主といった安東氏と個々の館衆がばらばらな政治的関係にあったのではなく、安東氏─守護─館主という風に守護職を媒介とした支配機構に組み込まれ、「下之国」「松前」「上之国」の三つの政治的支配領域を単位として政治・経済的な活動を行っていたものと考えられる。
 いずれにしろ、「下之国」「松前」「上之国」という政治支配的領域の成立と「守護職」の設置により、安東氏の蝦夷島支配が実現されていたのである。

花沢館主─蠣崎氏

 花沢館主の蠣崎季繁は『新羅之記録』など松前氏側の記録では、生国は若狭で、若狭国守護である武田信繁の近親であったが、過ちがあって蝦夷島に渡り、下国安東政季の婿となり、蠣崎修理太夫と号して、武田信広を客将としておいたという。信広は、同じく松前氏側の記録では、若狭守護武田信賢の子として生まれ、武勇に勝れていたが、粗暴の振舞いも多く、父に嫌われついには排除されようとした。しかし、信広の武勇を惜しむ家臣らの手引きによって若狭国を出奔した。時に宝暦三年(1451)、二十一歳のときであったという。
 信広は、まず関東の足利におもむき、さらに下北の田名部に移って蠣崎氏の館に寓し、のち安東政季の蝦夷島渡りに従って海を渡り、花沢館の蠣崎季繁の客となっていたのだという。しかし、若狭武田氏の記録や系図など記録には信広の名を見い出すことはできない。
 一方、南部藩側の記録によれば、南部氏の庶流である横田行長の子孫が田名部蠣崎村を領し、蠣崎蔵人と称した。そして、康正二年(1456)に八戸(糠部)南部政経と戦い敗れて松前に渡り、のちの松前氏の祖になったのだという。『祐清私記』では、蔵人こそ松前氏の祖先だといっている。また『北部御陣日記』によれば、田名部蠣崎村を領した蠣崎蔵人信純は、根城南部氏の代官武田信義の末裔で、南朝回復を名分として主家で妻の実家でもある北部王家の順法寺城主の新田義純を暗殺した。すなわち「蠣崎蔵人の乱」で、北部王家の後見をしていた根城南部氏は、勅命をまって蠣崎蔵人に対する軍事行動を開始した。蔵人は南部氏の攻撃に対して、秋田の安東氏、葛西氏、さらにはアイヌの援軍をえてこれに対抗した。南部氏は苦戦をしいられたが、翌年、海上より上陸して蠣崎城を背後から攻撃したため、同城はたちまち落城し、蠣崎蔵人はわずかの従者をともなって海路、松前に逃亡したという。
 かくして、蝦夷島に渡った蠣崎蔵人は花沢の館主となり、安東氏から「上之国之守護」に任じられて勢力を築きあげたのである。しかし、蠣崎蔵人が蝦夷島に渡ったとされる康正二年(1456)の翌年にあたる長禄元年(1457)にコシャマインの乱が起きた。アイヌ軍は志濃里館・箱館などの諸館を襲撃し、館はことごとく攻め落とされ、残るは下国家政の茂別館、蠣崎季繁の花沢館の二館のみという有様となった。

アイヌ民族の反乱

 コシャマインの乱は、康正二年の春、志海苔の鍛冶屋村で和人によるアイヌの殺人事件が発端となった。その事件がアイヌの民族的な大蜂起に発展したのは、従来、和人によるアイヌの漁業権、漁猟権の侵害、アイヌに対する欺瞞的な交易、さらにこれらをふまえた上でのアイヌへの差別と抑圧、といったことが原因であるとされている。しかし、この蜂起は一時的なものではなく、その後も相次いで起こっていることからみて、蜂起の背景には前記のような一般的な解釈だけではない、もっと根元的な原因があったものと考えられる。
 そのひとつとして考えられるのが、安東氏─守護─館主という政治機構のなかで、館主たちはその経済基盤を自己の領内における移住和人の漁猟生産とアイヌ民族との交易、またそれを背景とする日本海沿岸諸港との交易においていた。そのため、館主たちは経済基盤を維持・強化するため、アイヌとの恒常的な交易関係を作り上げ、特定地域のアイヌとの交易関係を成立させようとした。そのことは、各館主がお互いにある特定地域のアイヌとの交易関係を発展させながらも、他方でその範囲、つまりアイヌとの交易圏をより拡大する方向に走らせるようになった。それは、結果として各館主間の矛盾を生み、また、アイヌに対しても交易のあり方に一定の制約を加えることになった。いいかえれば、このころのアイヌと和人との交易は、館主主導型(いわゆる都合のよい)の交易へと変化をしつつあり、アイヌおよび本州との交易やそれをめぐる統制をめぐって各館主間の矛盾と対立が激化しようとしていた。
 こうした蝦夷島における各館主やアイヌ民族との交易関係を統轄していたのが、津軽十三湊を拠点とした安東氏であった。ところが、その安東氏が十三湊を追われて蝦夷島にに逃れたことで、アイヌ民族の交易のありかたに大きな変化が生まれた。すなわち、蝦夷島のアイヌたちは、十三湊に小舟を操って交易に出かけていた。そして、このようなアイヌたちとの交易は安東氏にとって経済的に大きな部分を占めていた。安東氏の蝦夷島への敗走は、従来の支配拠点を失ったという単純なものではなく、アイヌ交易の拠点を失ったという意味の方が深刻な事件であった。とはいえ、安東氏にとっての敗走先がみずからの支配領域の一部である蝦夷島であったことは幸いであった。
 しかし、蝦夷島は米作ができない土地であり、蝦夷島に渡った安東氏にしてみれば、その経済基盤をアイヌ交易そのものに求めざるをえなくなった。従って、アイヌたちが従来のように十三湊へ交易に出向くことはマイナスにこそなれ、プラスになることはなかった。そのため、蝦夷島に渡った安東氏がアイヌ民族への交易統制を図るようになったことは必然の帰結であった。
 このようなことが相まって、アイヌ民族の蜂起となり、容易に鎮圧できなかった理由でもあった。そして、蜂起の時期が下北半島の田名部蠣崎村によった蠣崎蔵人なる人物が南部氏に追われて蝦夷島に逃れ、かつ下国安東政季が同じ頃大畑より蝦夷島に渡ったとされる時期と前後していることは、このような状況を別の形で物語っているとも思われるが、その実態はいまのところ定かではない。

■コシャマインの乱当時における蝦夷諸館主一覧
館主館主館主
志濃里小林 良景河野 政通茂別下国 家政
中野佐藤 季則脇本南条 季継隠内将土 季直
覃部今泉 季友下国 定季-相原 政胤
祢保田近藤 季常原口岡部 季澄比谷厚谷 重政
花沢蠣崎 季繁


武田信広の登場

 コシャマインの乱は、和人集団とアイヌ民族との最初の大規模な民族戦争となった。しかし、そればかりではなく、蝦夷島における統一的な和人政権の成立をもたらす大きなきっかけともなった。十二あったされる館のほとんどが攻め落とされ、わずかに下国氏の茂別館と蠣崎氏の花沢館のみが残るばかりとなった。そして、この戦乱において和人の実質的な軍事指導者としてめざましい活躍を示したのが蠣崎氏のもとにあった武田信広であった。
 『新羅之記録』によれば、下国家政と蠣崎季繁はそれぞれ茂別・花沢の館を守っていたが、「上之国之守護」の客将である武田信広が総大将として出陣し、「狄之酋長」コシャマイン父子を射殺しワタリ(同胞・仲間)数多を斬殺した。この信広の武略によって、「凶賊」はことごとく敗走した。その後、下国家政は上ノ国に来て、季繁・信広と会い、その勇力を賞して、信広に太刀を与え、信広もまた家政に太刀を進じた。その後、嗣子がなかった季繁は家政の娘を養女としたうえで信広に嫁がせて家督を譲った。蠣崎家を継いだ信広は、天ノ川の北方に新たに洲崎の館を築いてそこに居を構えた。
 一方、『福山秘史』では、信広が「蝦夷賊酋長父子」らを討って乱を鎮圧したあと、諸館主が信広の戦功を賞し、季繁の嗣子になるようにと推したので蠣崎家の嗣子となり、親族が会して「建国之大礼」を行ったとしている。
 史料によって若干の相違がみられるが、安東氏から「下之国之守護」という地位を与えられていた下国家政が、信広がアイヌ軍の鎮圧に成功すると、ただちに上ノ国にきて信広に礼を言ったうえで太刀を与え、信広も返礼していること、信広が各館主の合意を得て蠣崎氏の嗣子となったことなどは、おそらく事実であろう。  このようにして、コシャマインの乱を鎮圧したことを契機として、蠣崎氏の一客将に過ぎなかった武田信広は、花沢館主である蠣崎氏の力を継承し、安東氏の支流で「下之国之守護」たる下国氏から支配者としての正当性の承認を取り付けることに成功したのである。いいかえれば、アイヌ民族の蜂起によて各館主間の政治的均衡状態が崩れ、一時的な政治的空白状況のなかで、実質的な和人勢力の指導者という地位を信広は掌握したのであった。
 前記のように、信広は若狭守護武田氏の出身といわれるが、それを裏付ける史料はない。また、下北の蠣崎と若狭とは昆布取引などを通じて古くから関係があったようだが、蠣崎氏と若狭武田氏との関係についていえば、天文十二年(1543)、蠣崎氏が家臣を若狭に遣わし、武田信豊に敬意を表して以来、初めて生まれたものであるようだ。
 いずれにしても信広は安東氏の娘を嫁とし、蠣崎氏を継ぎ、上ノ国から州崎館に移った武田信広が松前氏の祖となったことは間違いない。しかし、信広から季広に至るまでは、いずれも蠣崎氏を称している。さて、蛎崎氏を継承した武田信広であったが、蝦夷の和人地の統括は蝦夷の血統でないものにはその権限がなく、守護職の獲得を画策していたが、結局のところ果たせずして没した。

蠣崎氏の勢力拡大

 信広の野望を受け継いだのが嫡男の光広で、光広は守護職獲得の初手として、下国恒季の立場に狙いをつけたのである。そして、明応五年(1496)、渡党の各館主らと語らって安東忠季に下国恒季の悪政を訴え出た。忠季はこれら渡党の館主たちの意向を受けて松前大館に討手を差し向け、恒季を自害させた。安東忠季は安東氏における宗主権を奪取した檜山安東政季の子で、下国恒季の存在を快く思っていなかった。そこを巧みについた光広は忠季の恒季への不興心を煽り、これを殺害させることに成功したというわけだ。当然、光広は守護職を望んだ。
 当時、下之国守護領の大部分はアイヌの攻勢によって奪取されたままで、上之国守護職と松前之守護職を兼任することは事実上蝦夷島の支配権を獲得したことにほかならない。しかし、下国恒季の後任は光広ではなく、守護代を務めた相原季胤が補任された。永正九年(1512)四月、東部アイヌの酋長ショヤ・コウジ兄弟が蜂起、下之国守護領の志海苔館、箱館、与倉前館を強襲し、河野季通・小林良定・小林季景たちは自害して果てた。さらに、翌十年六月、アイヌ勢は松前大館を襲い、『松前累系』によれば相原季胤・村松義儀を攻め殺したとされているが、これはアイヌに偽装した光広の軍勢であったとされている。以後、光広は居城を上国花沢館から松前大館に移し、事実上の松前之守護職として機能することになる。
 永正十五年(1518)、光広が死去し義広が家督を継承したが、大永元年(1521)弟で上国城代の高広が没し、高広の嫡子基広が新たに上国城代となった。守護職を奪取したばかりの蠣崎氏にとって蠣崎家当主と上国城代とを相次いで失ったことは政治的・軍事的に大きな痛手となった。このような蠣崎氏の状況をみたアイヌの蠣崎氏に対する攻勢が開始され、大永五年(1525)には、東部・西部のアイヌが蜂起、義広は天之川流域と松前を結ぶ戦線においてこれを防戦した。享禄年間(1528〜31)初頭のアイヌの攻勢はすさまじく、享禄元年(1528)五月には徳山館が攻撃にさらされ、義広自ら槍を振るってアイヌ勢と戦いかろうじて撃退することができた。
 翌年三月、西部アイヌの酋長タナサカシが上国和喜館を襲った。義広は不利を悟ると同時に一計を案じ、タナサカシに和睦を乞い、償いの品を城外の坂の途中に置き、タナサカシ勢がこれを回収するところを不意討してタナサカシを射殺、アイヌ勢を撃退した。享禄四年(1531)には、徳山館が襲撃されたが嫡子季広の奮戦で撃退。天文五年(1536)六月、タナサカシの女婿タリコナが岳父タナサカシの仇討の為、義広を狙って徳山館を強襲、兵力に劣る蠣崎氏は再び和睦を乞うた。その後の館内での酒宴の最中にタリコナ夫妻を惨殺した。こうして、蠣崎氏は謀略の限りを尽くしてアイヌの攻勢をかわしえたのである。以後しばらく、アイヌの攻勢はなくなった。

アイヌ勢との和睦

 蝦夷地の激動時代を生き抜いた義広は、天文十四年(1545)に没し季広が家督を継いだ。その翌年、安東舜季の命を受けて安東氏による津軽奪還作戦に参加した。同十九年(1550)、安東舜季の渡道を得てアイヌの懐柔策として講和に成功した。これは、曾祖父信広の代から続いたアイヌとの抗争に不毛を感じた季広の英断であった。そして、瀬田内のハシタインを西夷尹、知内のチコモタインを東夷尹に任じその支配権を認めた。これは従来の上国守護職、下国守護職に相当するもので、かなりアイヌ側へ妥協した講和条件となっている。これが「夷狄商船往還法度」と呼ばれるものである。
 「夷狄商船往還法度」とは、松前に来航する諸国の商船に関税をかけ、両酋長へ均等に配分することを約束し、西蝦夷地往復の船は天之川沖で帆を下ろして一礼、東蝦夷地の船は知内沖で一礼することなどが盛り込まれていた。この一礼とは、両酋長の支配権の尊重を意味しているものであることはいうまでもない。しかし、蠣崎氏にとってこのアイヌとの講和は、安東氏の被官的立場を再確認することにもつながった。そして、安東氏の津軽奪回の動員要請に対して、天文十四年(1545)の河北森山への出陣要請をはじめとして、永禄十年(1567)、天正九年(1581)、同十一年(1583)、同十四年(1586)、同十六年(1588)、同十八年(1590)と前後七回にわたって応じている。蠣崎氏にとって、安東氏の作戦に参陣することは、人的にも、経済的にも圧迫をこうむることに他ならなかった。
 こうして、安東氏からの独立脱却は蠣崎氏にとって悲願となったのである。とはいえ、季広の時代は西蝦夷の奉行といわれる地位を得て、蝦夷地の中の「和人地」を獲得し、実際の在地領主としての大名領国制を展開した。
 天正十一年(1583)、季広は隠居して家督を慶広に譲った。この家督移譲は、単独嫡子相続を家中に示すと同時に、季広が実権を握りながら、若い慶広を育てることが目的でもあった。同十五年(1587)に安東愛季が没すると、安東湊道季が叛旗を翻し、安東氏家中に家督争いが起こった。「湊合戦」と呼ばれるこの戦いに際して慶広は、実季が「秋田郡手裏」に入ることを確認した上でこれを支持するなど、政治感覚の鋭さを発揮している。この安東氏の内訌は実季方の勝利に終わったが、蠣崎氏に対する安東氏の支配力は弱まり、蠣崎氏の独立を許す直接の原因となったのである。


松前城址を歩く
松前氏の割菱を打った提灯 /松前城址大手門 /松前城址隅櫓  /菩提寺の阿吽寺山門 (1999_10/17)


近世大名へ

 こうして、慶広は姉妹を津軽・秋田地方の豪族のもとに入嫁させ、弟たちはそれぞれ分家させ、同族結合を基盤に蝦夷地支配に乗り出すのである。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置を契機に上洛して秀吉に拝謁し、翌十九年の「九戸の乱」にはアイヌ兵を率いて参戦した。ついで、文禄三年(1594)に始まった秀吉の朝鮮侵略に際しては、肥前名護屋の秀吉軍の陣中に馳せ参じ、秀吉から船役徴収権を公認する朱印状を下賜された。これによって蠣崎氏は、安東氏の被官的立場から脱却し独立した大名として扱われたことになり、慶広は蠣崎氏代々の悲願を成し遂げたたのである。
 豊臣政権下の独立大名となった慶広は東西のアイヌを集め、朱印状の内容を示し、以後和人に対し敵対するときは「関白殿数十万余ノ人勢ヲ差遣ワシ、悉ク夷狄ヲ追討ス可シ」と言い渡して蠣崎氏への服従を強要した。これにともなって和人地の拡大を図り旧来の上之国守護領・下之国守護領を再奪取したのである。秀吉没後、慶広は家康に近づき、慶長四年(1599)蠣崎氏を松前氏に改め、徳川家康よりアイヌ交易独占権を公認する黒印状を得て、近世大名としての地位を確立した。そして、翌年福山城の築城に着手し、同十一年に完成させた。
 松前氏はアイヌ交易の独占権を藩の基盤としたため、文化四年(1807)から文政四年(1821)の陸奥国伊達郡梁川への移封期や、本州に飛地を領した幕末期を除いて石高はなく、享保四年(1719)にようやく一万石格となった。このように松前氏は徳川政権下における異色の大名として、代々封を継いで明治維新に至った。ちなみに幕末の藩主祟広のとき老中を勤め、はじめて三万石の大名となった。

参考資料:北海道史/松前町史 ほか】  →ダイジェストへ

●武田氏の家紋─考察

■参考略系図
 


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