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蠣崎(松前)氏 ●ダイジェスト
丸に割菱
(清和源氏武田氏流)


 長禄元年(1457)五月、アイヌの酋長であるコシャマインが、和人の横暴に対してアイヌを糾合して、和人豪族の館を攻め、和人方は茂別・花沢の二館だけが残るだけとなった。その時、花沢館主の蠣崎修理大夫季繁の客となっていた武田信広がコシャマイン父子を射殺したことで、乱は和人方の勝利に終わった。乱後、信広は茂別館主下国安東八郎式部大輔家政の娘を娶り、蠣崎姓を名乗り、松前氏の祖になったという。
 とはいえ、コシャマインの乱に関しての具体的な事暦は明らかではなく、わずかに松前氏の古い記録に記されているだけで、他書には見えない。ただ分かることは、乱の発生した年代が、下北半島の豪族蠣崎蔵人が南部氏に追われ、また、下国政季が大畑から蝦夷島に移ったとする年と前後していることである。
 蝦夷島諸館主のなかで、先の下国家政は、政季の弟であるとするのが定説で、下国定季については種々の説があり一定していない。しかし、安東氏の通字である”季”の字を名乗りにしていことから、十三湊安東氏の一族であったようだ。そして、他の館主の名乗りにも”季”の字が多いことから、おそらく安東宗家から”季’の字を戴いた、安東氏の被官であり、十三湊安東氏の跡を継ぐ大館安東氏に服属していた者たちであろう。さらに、のちの松前氏家臣団のなかにもかれらの名前を見いだせるのである。
 さて、信広は、若狭守護武田信賢の子として生まれたが、武勇に勝れていたが、粗暴の振舞いも多く、父に嫌われついには排除されようとした。しかし、信広の武勇を惜しむ家臣らの手引きによって若狭国を出奔したという。時に宝暦三年(1451)、21歳のときであったという。信広は、まず関東におもむき、さらに下北の田名部に移って蠣崎氏の館に寓し、のち安東政季の蝦夷島渡りに従って海を渡り、花沢館の蠣崎季繁の客となっていたのだという。
 しかし、若狭武田氏側の記録には、まったくこうした事実は見当たらない。それより、花沢館主蠣崎氏は、南部氏などの記録によると八戸政経に追われて蝦夷島に渡った蠣崎蔵人本人ではないかと思われ、『祐清私記』では、蔵人こそ松前氏の祖先だといっている。
 すくなくとも、蠣崎氏と若狭武田氏との関係は、昆布取引などを通じて下北の蠣崎と若狭とは古くから関係があったようだが、記録としては、天文十二年(1543)、蠣崎氏が家臣を若狭に遣わし、武田信豊に敬意を表して以来、初めて生まれたものであるようだ。
 いずれにしても安東氏の娘を嫁とし、蠣崎氏を継ぎ、上ノ国から州崎館に移った武田信広が松前氏の祖となったことは間違いない。しかし、信広から季広に至るまでは、いずれも蠣崎氏を称している。  四代季広の時には、西蝦夷の奉行といわれる地位を獲得し、蝦夷地の中の「和人地」を獲得し、実際の在地領主としての大名領国制を展開した。
 蠣崎氏がもっとも飛躍するのは、五代慶広の時で、慶広は姉妹を津軽・秋田地方の豪族のもとに入嫁させ、弟たちはそれぞれ分家させ、同族結合を基盤に蝦夷地支配に乗り出すのである。天正十八年、秀吉の天下統一に際して上洛して、安東氏に代わって蝦夷支配の承認を得、着々と松前藩の基礎を築いていった。九戸の乱にはアイヌを率いて参戦している。
 秀吉没後、慶広は家康に近づき、慶長四年蠣崎氏を松前氏に改め、松前城を築いた。以後、代々封を継いで徳川政権下における異色の大名として、明治維新に至るまで存続した。

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