播磨黒田氏は、近江源氏佐々木氏の後裔とするのが一般的である。ところが、黒田庄町黒田の区有文書のなかに、従来の説と趣を異にする「黒田氏系図」が伝わっている。
同系図によれば、黒田氏の初代を重勝とし、一貫して播磨国多可郡黒田城に住したことになっている。その歴代のうち、重康の妻赤松貞村妹と、重範の妻佐々木高信女を除けば、すべてが近隣の土豪との姻戚関係である。重貞、重昭の妻の実家石原氏については、平等院領黒田庄石原の住人であり、その祖先が南北朝期に将軍の直臣団に加わっていた。また、重隆の妻比延氏の家は、黒田の南に接した住吉領比延庄に住したものと考えられる。そして、比延氏は明徳の乱に参加して戦功を挙げたことが確認できる。
重勝は明徳二年(1391)二月の内野合戦に参加したことになっており、姻戚関係にあった比延氏と重勝が相伴って明徳の乱に臨んだ様子がうかがわれる。また、重隆の舅にあたる比延常範は宮内少輔を称し、このことは比延系図・黒田系図ともに共通している。さらに、常範が天文・弘治年中(1532〜58)に比延城主であったとされていることも、重隆の没年が永禄十年(1567)とする点とも、時代的に矛盾はない。
さて、従来の系図と黒田庄に残された黒田氏系図であるが、重隆以前はまったく異なった内容であるところから、いずれか一方を偽作系図とせざるを得ない。戦国期の他の大名においても見られるように、黒田氏においても、自家の系図に作為を加えることによって、家系を誇ろうとしたことは十分に考えられる。その場合、佐々木氏の出自をもつ黒田氏が、わざわざ播磨の一土豪黒田氏につないだ偽系図を作成する必要はまったく考え難い。逆に、一土豪に発した黒田氏が、信長・秀吉に仕えて豊前十二万石の大名に成長したとしたら、それにふさわしい家系として、名族佐々木氏出自という偽系図を作り上げた可能性は充分に考えられる。
二つの黒田氏系図のいまひとつの違いは、職隆と官兵衛孝高との関係である。従来の系図が、職隆を重隆の子とし、この職隆が小寺氏の猶子となったとしているのに対し、黒田区有系図では職隆は本来小寺姓であり、孝高がこの猶子となってはじめて小寺姓を名乗ったということになっていることである。
黒田区有系図は粗末な写本であり、決して立派なものではない。しかし、その内容には充分に信頼できるものが含まれている。さて、黒田氏の出自は、名族佐々木氏の後裔、はたまた播磨国の一土豪、そのいずれであったのだろうか。
■参考略系図
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