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庁南武田氏
●割 菱
●清和源氏武田支族
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武田氏は清和源氏で、新羅三郎義光の後裔と伝えられる。鎌倉、室町時代を通じて甲斐守護に任じられ、多くの一族が分出した。
南北朝合一がなって間もない応永二十三年(1416)、鎌倉公方足利持氏と前管領上杉氏憲(禅秀)が対立し、「上杉禅秀の乱」が起こった。禅秀の舅であった甲斐守護の武田信満は禅秀に与して、翌年、鎌倉府の軍勢に攻められて敗れ木賊山で自殺した。武田氏は離散に追い込まれ、甲斐国では、国人層が勢力を拡大していった。
信満の子信長は、宗家を継いだ子の伊豆千代丸を助けて武田氏の勢力回復につとめたがならず、雌伏の時を過ごした。その後、「永享の乱」が起ると信長は幕府軍に加わって、持氏討伐に活躍したことで相模に所領を賜った。持氏の敗死でいったん滅亡した鎌倉府は、嘉吉七年(1447)、持氏の遺児成氏が赦されて再興された。信長は鎌倉府に出仕して公方成氏の近臣となった。ところが、公方成氏は管領上杉氏と対立し「享徳の乱」を引き起こした。乱に際して、信長は安房の里見義実、下総の結城成朝らとともに成氏に味方して各地を転戦し、一連の戦功によって上総守護代に任じられた。
上総に入った信長は庁南・真理谷の二城を築いて根拠とした。さらに久留里や椎津・造南・峰上・笹子などに城を築いて一族を配置し、支配体制を確立していった。そして、真理谷城には嫡男の信高を入れ、自らは庁南城に拠った。
庁南武田氏の興亡
信長は文明九年(1477)ごろに没し、そのあとを継いだ信高も信長と前後して死去した。信高のあと、庁南城には長男の道信が入り、真里谷城は信興が、久留里城には信房が入ったという。そして、道信の系は庁南武田氏と呼ばれ、信興の系は真里谷武田氏と呼ばれるようになった。
かくして、道信に始まった庁南武田氏は、宗信−吉信−清信と続いた。そして、清信は武田信玄の三男を養子として家を継がせ豊信(初名信栄)を名乗らせたという。
庁南武田氏二代の宗信は、二十三歳で家督を継ぎ、天文二十年(1551)九十三歳に至るまで長命を保った。その間、真里谷本家を助け、二度にわたる本家の内訌を調停して庁南武田氏の力を内外に示した。しかし、その前半生は酒井氏の台頭と小弓城主原胤隆との国境争いに骨身を削った。土気城を拠点とする酒井氏の勢力拡大は、武田氏の東上総支配を揺るがせ、北総進出への道を閉ざされることになり、武田氏にとっては大きな障害となる存在であった。しかし、酒井氏はますます勢力を拡大し、ついには庁南武田氏領と酒井氏領とは直接境を接するまでになった。また、下総と上総の国境を流れる村田川の氾濫による地形の変化から、武田氏と小弓城主原氏とは国境争いを引き起こした。
原氏には千葉氏の後楯もあって、武田氏は戦うたびに退けられていた。これを見兼ねたのが真里谷武田信勝で、信勝は足利義明を奥州から迎えて、その声望によって房総の諸豪を糾合して原氏にあたろうとした。そして、永正十四年(1517)足利義明を大将に真里谷武田信保・庁南武田宗信、さらに里見義堯が加わった連合軍六千人で小弓城を攻めこれを落城させた。敗れた原一族は、城主胤隆をはじめことごとく自刃して果て潰滅状態となった。以後、小弓城には足利義明が入り、小弓御所となったことは先述の通りである。
その後、真里谷宗家で信隆と信応との間に内訌が起こり、義明を戴く庁南武田吉信は信応に加担して信隆と対立した。天文七年(1538)、小弓義明の勢力拡大を危惧する古河公方足利晴氏は、後北条氏を頼んで下総葛西城を攻め、さらに小弓城を攻略せんとした。これに対し、小弓義明は房総諸豪に参陣を求めた。里見義堯・真里谷信応・同信助、そして、庁南武田吉信、さらに土気酒井敏房・東金酒井玄治らが国府台に集った。これが第一次国府台合戦であり、結果は、後北条方の勝利に終わった。義明は戦死し、里見・両武田・両酒井氏らは自領に逃げ帰った。とはいえ、国府台合戦後、庁南武田氏にはしばしの平穏が訪れたようだ。
■戦国期、上総・下総勢力図
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乱世を生きる
ところが、吉信の嫡男である清信が早世したことから後継者問題が起こった。このとき、甲斐の武田信玄に三男が生まれたことを知り、これを養子に迎えることになった。「武田系図」には、信玄と正室三条氏との間に生まれた三男として西保三郎が載せられている。迎えられた信玄の三男は西保三郎と思われ、「上総武田系図」には初め信栄を名乗ったことが記されている。その後、天文二十一年に豊信と改めた。
天正十五年(1587)、島津氏を屈服させて九州を平定した秀吉は、後北条氏や里見氏らに服属することを促した。里見氏は秀吉に太刀や黄金などを贈って秀吉に従うことを表明し、北条氏直も徳川家康を通じて秀吉と和睦した。しかし、後北条氏は領内の諸城を修築して合戦の準備をする一方、奥州の伊達政宗と結んで秀吉への反抗的態度をみせはじめた。さらに、後北条氏は領内の諸将に軍勢を率いて小田原に参陣するように命じた。これに、万喜城主の土岐氏も応えて三百騎を小田原に送った。万喜城が手薄になったのを見た庁南武田豊信は、兵を率いて万喜城に押し寄せた。
武田勢は松丸に陣を布いて万喜城を激しく攻撃したため、さすがに万喜城も危うくなった。そのとき、土岐方の矢竹城主浅生主水助と国府台城主加治五郎らが、松丸の武田勢を急襲した。城攻めに注意を取られていた武田勢は大敗を喫し退却した。土岐勢はその退路を断とうとして、山中甲斐守らを火の子坂に配置し武田軍を攻撃した。激戦が展開されたが、ここでも武田勢は敗れ、重臣多賀六郎左衛門を討たれるなど散々の体で庁南城に逃げ帰った。
小田原攻めを決した秀吉は、天正十八年(1590)三月、大軍を率いて京都を進発した。後北条方は籠城に決し、関東の諸将に小田原防衛に駆け付けるように檄を飛ばした。これに千葉、原、高城らの千葉一族、土気・東金の両酒井氏、万喜城主の土岐氏らが小田原に兵を送った。このとき、真里谷武田信高と庁武田豊信はどちらに加担するべきか迷ったようで、小田原に兵を送った様子もなく、豊臣秀吉のもとへ参陣もしていない。里見義康は秀吉の求めに応じたが、万喜城の土岐氏と合戦をしていため出陣が遅れた。
七月、秀吉の降服勧告を受け入れた北条氏直は小田原城を開城し、後北条氏は壊滅した。その間、房総半島には浅野長吉を将とする豊臣軍が進攻し、後北条側に加担したり、中立的態度をとった諸将の居城を攻め落としていた。小田原城に入った秀吉は戦後処理をして賞罰を行い、後北条氏が領した関八州は家康に与え、里見義康は参陣が遅れたという理由で上総・下総の地を没収され安房一国だけが与えられた。態度が不鮮明だった両武田氏は、ここにおいて没落の運命となった。
上総武田氏の没落
庁南城主の武田豊信は徳川勢に攻められて自刃して果てたとも、信濃国松代の長国寺に逃れて蟄居しそこで死去したともいわれる。嫡子の氏信は上総月出に退去したといい、庁南城は破却され庁南武田氏の記録も失われてしまった。月出に逃れた氏信は、重臣であった梅沢図書などに奉じられて上埴生郡山内村に土着し、郷士となって子孫相続いたと伝えられている。
一方、真里谷城の真里谷信高は徳川勢に降服し、真里谷城を開城すると、下野国の那須に落去し、那須家に寓居して終わったという。こうして、戦国時代の上総に勢力を築き、盛時の所領はあわせて二十五万〜二十八万石と推定される真里谷・庁南の両武田氏は没落した。その最期は、まことに呆気無いものであったといえよう。・2005年6月22日
【参考資料:長南町史/君津市史 ほか】
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