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能登畠山氏
●二つ引両/村濃
●清和源氏足利氏流
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畠山氏は桓武平氏秩父氏流で、権守重綱の孫重能が畠山庄司になり畠山を称したことに始まる。重忠は頼朝の挙兵に際して平家方に属したが、のちに降を乞い頼朝麾下に加わった。鎌倉幕府成立後、重忠は御家人として忠勤を励んだ。ところが、梶原景時の讒言によって、誅伐がきまった。親友の下河辺行平が起請文を差し出したらどうかとの勧めに、「起請文は心のやましい者が書くもの」といった。この話を聞いた頼朝は疑いを解き、以後、重忠を股肱の臣として遇した。
頼朝が死ぬと、北条時政・義時父子が幕府の実権を握り、反勢力を次々と倒していった。そして、元久二年(1205)、重忠のもとに鎌倉からの呼び出しがあり先発した息子の重保が由比ケ浜で殺された。遅れて出発した重忠は、途中で重保の死と討っ手がくることを知ったが、そのまま進んで二股川で討っ手と遭遇し激闘のすえに討死した。
残された畠山重忠の妻は北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子義純と再婚し、義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになった。もちろん畠山重忠の旧領は義純に与えられた。以後、畠山氏は清和源氏の一族となったのである。以来、鎌倉末までそのまま続き、建武の争乱には足利尊氏に従って軍功を挙げ、室町幕府の重臣となったのである。
畠山氏の台頭
南北朝時代のはじめ、畠山高国は奥州深題として東下しその子孫は二本松畠山氏となった。一方、高国の弟貞国の孫国清は足利尊氏に従って戦功をあげ、鎌倉公方足利基氏の執事なり専権を振るったが、やがて基氏に追われて没落した。
国清の弟義深は、幕府に仕えて能登・越中・河内・和泉などの守護となり、その子基国は「明徳の乱」「応永の乱」に功を立て、斯波氏・細川氏とならぶ三管領の一人に数えられるに至った。基国が没したとき、長男の満家は将軍足利義満の忌避にふれていたため次男の満慶(満則)が宗家を継ぎ、河内・紀伊・越中・能登の守護になった。その後、満慶は兄満家に家督を譲り渡し、能登一国の守護になった。このことは、当時父子兄弟が相争う時代にあってまれに見る美談であった。以後、満慶の子孫が能登守護職を世襲して戦国時代に至ることになる。
能登一国守護となった満慶(満則)は能登に入部したといわれるが、その時期については諸説がなされている。おそらく入部したとしても、能登一国守護となった応永十五年(1408)以降のことであろうと思われる。とはいえ、満慶の能登滞在はごく短期間であったろう。満慶は兄満家とともに将軍足利義持の側近として晩年まで幕府内で高い地位を保ち、将軍相伴衆の一人でもあったからである。
満家のあとは嫡男の義忠が継いだが、義忠の代に畠山宗家で相続争いが起こった。畠山満家には三子があり、初め長男の持国が家を継いだが、嘉吉元年(1441)将軍義教の勘気を蒙り、代わって弟の持永が当主となった。ところが同年六月、嘉吉の乱が起こり義教は播磨守護である赤松満祐に殺害されたため、持国が再び当主となった。
畠山氏宗家の内訌
持国には男子がなく、弟持富の子政長を養子にしていたが、その後実子義就が生まれた。結局、持国は家督を義就に譲ったが、有力被官である遊佐・神保氏らが義就から離れ、義就と政長は深刻な対立をきたすようになった。
享徳四年(1455)持国が没すると、抗争は激しさを増した。政長は細川勝元を、義就は山名持豊(宗全)をそれぞれ頼り、大和・河内などで合戦を繰り返すようになった。これが、応仁の乱の原因の一つに数えられる畠山氏の内訌である。以後、畠山宗家の内訌は戦国末期まで続き、その力を衰退させてゆくことになる。
能登畠山氏も宗家の争いと無関係ではいられなかった。義忠は能登畠山氏出身の政国(孫ともいわれる)が義就の猶子になっていたため、持国・義就派であった。その後、畠山宗家の内訌は、義就が出仕を停止され河内に落ち、政国がそのあとを継いだが、直後に政長が立ち政国も河内に奔った。義就派の義忠は晩年に至って憂き目を見ることになったのである。
義忠のあとは孫の義統が継いだ。義統も祖父義忠と同じく宗家の内訌に巻き込まれていった。京から追われていた義就は、応仁元年(1467)山名宗全の尽力によって京都に帰った。その結果、政長は管領職を罷免されてしまった。これに憤った政長は上御霊社に陣を布いて義就方と対峙したが、義就軍に攻められて敗北した。この戦いが、都を灰燼に帰し、日本国内を戦乱の渦に叩き込んだ「応仁の乱」の直接のきっかけとなった。
応仁の大乱
応仁の乱に際して、義就に近い能登守護畠山義統は山名宗全を盟主とする西軍に属した。応仁二年、義統の能登兵が帰国しようとした際、東軍方の加賀守護冨樫氏と合戦になり多くの戦死者を出している。その後、畠山義就に実子が生まれたため、義就の猶子になっていた政国と義就の間柄が悪くなり、政国は越前に逃れたが殺害された。このため、義就と義統の仲も円滑を欠くようになった。
乱はその後も続いたが、文明六年(1474)義就が河内に引き上げたため、最後まで京で抵抗していた義統も領国能登に下向した。能登守護畠山氏は満慶・義忠・義統と三代におよび在京していたが、ここに初めて義統が能登に在国することになった。
このころ、一向一揆が次第に勢力を強め、長享二年(1488)には加賀守護冨樫政親が一向一揆に攻められて自害した。義統は将軍義尚の命で加賀に派兵したが、かえって一向一揆に敗れて帰国した。その後、加賀の一向一揆に触発された能登の一向一揆が畠山氏の攻撃を図ったが事前に露見し、義統は首謀者を処刑した。
能登守護家として権威を誇ってきた畠山氏であったが、能登国にも時代の波風は押し寄せていたのである。他方、中央政界も紛争が絶えず、能登守護畠山氏も安泰ではいられなかった。明応二年(1492)足利将軍義材(義稙)は畠山政長とともに、畠山義就の子基家を討伐するため河内に出陣した。ところがその間に、細川政元がクーデターを起こし、義澄を将軍職に据えた。政長は政元に攻められて自害し義稙は幽閉されたが、神保長誠の働きで救出され、畠山宗家の領国である越中国放生津に奔った。このとき、義統は越前の朝倉氏らとともに義稙を支援した。
明応六年、義統が死去すると嫡男義元があとを継ぎ父と同様に義稙を支援する立場をとった。明応八年、義稙は北陸兵をひきいて入京したが、政元に敗れて大内義興を頼って周防に逃れた。
能登畠山氏の内訌
京都で政変が繰り返されているころ、能登でも家督をめぐる内訌が勃発した。その背景には、この時代の一特長である惣領制の崩壊と下剋上の風潮があった。室町時代の守護は在京が原則であったため、国元の政治は守護代あるいは一族の者に任すことが多かった。その結果、在京の守護と領国を経営する勢力との間で対立が起った。加えて、幕府内部の政変がそのまま守護職の任免に影響をおよぼし、権力を掌握した側に付いた者が守護に任じられるということになったのである。
明応九年(1500)頃から守護義元と守護代の遊佐統秀に擁立された弟の弥次郎慶致との間で確執が生じ、翌文亀元年(1501)、義元は上杉氏を頼って越後に逃れた。ここに、能登畠山氏は一族対立の危機に直面するのである。加えて、永正期(1504〜20)になると畿内から北陸にかけて大規模な一向一揆が蜂起し、能登国もその例外ではなかった。この事態に際して、義元・慶致両派の間に危機感が高まり、やがて和睦が成立、守護方による一揆の鎮圧がはかられた。
ところで、講和の条件は義元の能登国帰国=守護復帰であり、守護職を兄義元に譲るかたちで隠退する慶致の嫡男義総を義元の後継者に定めるというものであった。かくして、能登畠山氏は一族対立の危機を巧みな政治的妥協によって収拾し、戦国大名へと発展する端緒をつかむことができた。
永正五年(1508)、義興に擁された義稙が将軍に復帰すると、義元はこれに呼応して上洛し、大内義興や細川高国らと並んで義稙の側近として活動した。ところが、永正十年(1512)の秋、一向一揆と結ぶ国人・土豪の反乱が起こると、義元は急ぎ能登に帰国し、養子で甥の畠山義総の協力を得て反乱を無事制圧した。ここにおいて、守護能登畠山氏の権威は一層高まり、戦国大名への道を大きく踏み出すことになったのである。
戦国大名への飛躍
永正十二年に義元が没すると義総が家督と守護職を継承し、国人・百姓および寺社への統制強化と、収取体系の整備がはかられた。さらに、領国の政治・軍事上の拠点として石動山系の最先端部にある七尾山に城郭が築かれた。これが、戦国史上に有名な七尾城で、城が完成すると山麓には城下町が形成されるようになり、大永六年(1526)頃には、守護畠山義総は府中の守護館から七尾城内に移り住んだようだ。
義統は、享禄年間(1528〜32)当時禅僧の間でも師儒といわれて尊敬を集めていた清生宣賢を京都より招き、『孟子趙注』や『中庸章句』などの講義を受けるなど文化人大名として知られている。
天文十四年(1545)七月、能登に畠山文化を開かせたた義総が亡くなり、義続が家督を相続した。天文十六年になると、義総の弟畠山駿河父子をはじめとする能登牢人が加賀一向一揆の支援を得て、羽咋郡押水に侵入してきた。このとき、畠山氏の重臣である温井一族が活躍し、七尾城主義続方を大勝利に導いた。
この事件を契機として温井一族が台頭、それを守護代遊佐続光一党が牽制し、これに加賀の一向一揆の策動が加わったことで乱に発展、義続は七尾に籠城する事態に追い込まれた。その後、乱は遊佐・温井氏が和解したことで終結し、義続は出家して徳祐を号し家督を義綱に譲った。そして、能登畠山氏七人衆が成立し、畠山氏の治世は合議制へと移ることになる。七人衆のなかでは、温井備中入道紹春と遊佐続光の二人が双璧であった。
家臣団の内訌
やがて、続光と紹春の間に暗闘が繰り広げられ、長氏と結んだ温井氏によって続光は加賀に奔った。遊佐続光は畠山駿河を擁し、河内の遊佐・安見氏および加賀一向一揆の支援を得て七尾城に攻め寄せ、これを迎え撃った温井紹春・続宗父子らと田鶴浜・大槻で激戦を展開したが遊佐方は敗北を喫した。これが「大槻合戦」とよばれる戦いであり、以後、紹春の権勢は最高潮に達した。
しかし、温井一族の台頭を快く思わない畠山義綱は近臣の飯川義宗と謀って、飯川の家の連歌会にことよせて紹春を殺害したのである。温井一族をほうむった義綱は、守護の実権を掌握するため遊佐続光を押さえようとし、自らの親衛隊長格として井上英教・長連理を中核とした奉行人を編成した。とはいえ、このような義綱の領国再建への動きは、重臣層の反発を招いた。永禄九年(1566)、遊佐続光・長続連・八代俊盛らは、実力をもって義綱と父徳祐を七尾城から追放し、義綱の嫡男義慶(義隆)を擁立したのである。
七尾城を逐われた義綱は、越後の長尾景虎(上杉謙信)らの支援を得て能登に軍を進めた。この義綱の攻勢に対して七尾城では兵力の増強をはかり、景隆を中心とする温井一族を帰参させた。永禄十二年(1569)、義綱は越中から七尾城外に進出して七尾勢と激戦を展開した。その後も義綱の能登入国作戦が行われたことは残された史料からうかがわれるが、天正四年(1576)六月の文書を最後に義綱の消息は不明となる。
この畠山義綱の入国作戦は、結果として能登畠山氏の領国制自壊作用の一因をなしたと評する歴史家もいる。いずれにしろ、義綱は能登を回復することはできず、能登は新しい政治情勢に直面することになる。
上杉謙信の能登侵攻
上杉謙信が越中にはじめて侵攻したのは永禄三年(1560)であった。しかし、謙信は関東の北条氏康、甲斐の武田信玄らに牽制され、南下作戦を容易に進めることができなかった。元亀三年(1572)、椎名康胤と結んだ越中の一向一揆が信玄の西上作戦に呼応して蠢動した。しかし、翌天正元年(1573)信玄が没すると越中勢は拠り所をなくし、たちまち謙信に越中は平定された。謙信はすぐさま加賀侵攻を企て、一方の織田信長は越前の朝倉氏を滅ぼし、一気に北上して南加賀まで進出してきた。
謙信と信長は信玄在世中は同盟関係にあったが、ここにおいて両者は加賀をはさんで衝突する様相を呈した。だが、謙信は関東の情勢が不穏のためいったん帰国、信長も越前に諸将を配置して引き上げた。ところが、その虚に乗じて一向一揆が南加賀を奪還し、さらに越前も制圧するに至った。
このような情勢のなか、天正二年七月、七尾城主の畠山義隆が重臣らによって毒殺された。義隆毒殺の下手人については諸説があり、遊佐続光と温井景隆が毒殺したというもの、長続連が毒殺したというもの、さらには続連と三宅長盛が毒殺したというものなどがある。いずれにしろ、義隆があまりに「能き大将」に成長してきたことに危惧を抱いた重臣たちが共同謀議を行った結果と考えられる。義隆の死後は、わずか二歳の春王丸が城主に擁立された。
翌天正三年、七尾城将の温井景隆・長綱連・遊佐盛光らは謙信に近付く動きをみせた。八月、謙信は織田信長と対決するため能登への遠征を開始し、七尾城へは謙信の麾下に加わるように使者を送った。このころ、謙信は畠山義綱の弟で、人質であり猶子でもあった畠山義春(上条政繁)を七尾の新城主として送り込もうとしたようで、事実上の降伏をうながしたものと考えられる。この謙信からの要求を七尾城内の諸将が、蹴ったことはいうまでもない。
畠山氏の滅亡
天正三年八月、信長は越前に侵攻し、翌年には加賀に足を踏み入れ一向一揆を圧倒した。一方の謙信は信長の北国進出に対抗して一向一揆と和睦し、加賀への進撃を前に能登の平定を図った。このころ、七尾城主畠山氏の当主は幼少の畠山春王丸であったが、重臣らは天険の要害七尾城を恃んで籠城作戦をとり、よく越後勢の猛攻に耐え城を死守した。
籠城の七尾軍はそれぞれの持口を定めて上杉軍の攻撃を防いだ。大手赤坂口には長綱連・杉山則直・孝恩寺長連龍ら、搦手大石谷口は温井景隆・三宅長盛、木落口は遊佐続光・盛光父子、このほか誉田・甲斐庄・神保氏らが所々を守った。城主の畠山春王丸は長続連と二本松義有が守って、七尾城は孤立無縁ながら上杉軍と対峙した。
ところが、城内に疫病が流行して籠城戦のさなかに春王丸が没し、城内は動揺したが城兵よく上杉勢の攻撃をしのいだ。そのようななか、長綱連は織田軍の来援に死活をかけ、弟の連龍を城外に脱出させた。さらに、一揆を穴水辺に蜂起させたが上杉軍によって追い散らされ、態勢を挽回することはできなかった。城を脱出した連龍は海に浮かんで近江安土城の信長と連絡をつけることができ、織田軍は南加賀にまで進出したものの、加賀一向一揆に阻まれて能登に入ることはできなかった。
七尾城の堅守に手を焼いた謙信は内応者をさぐり、遊佐・温井・三宅らがそれに応じ、一人反対するのは長綱連ばかりとなった。こうして九月十五日、続光の手引きによって木落口から城内に入った上杉軍は「長対馬一類一族百余人」を討ち取った。長続連・綱連父子をはじめとした長一族の戦死は、同時に七尾城の落城であり能登畠山氏の滅亡でもあった。
その後の畠山氏
七尾城が落城したとき、畠山一門の松波義親は、神保・河野・熊木らと、根拠地の珠洲郡松波城へ逃れ最後の一戦をこころみ、奮戦して自害あるいは討死したことが『長家家譜』に記されている。
宗家滅亡後、先の義春は上条上杉家を継ぎ弥五郎政繁(入道宜順)と名乗った。謙信の死後、景勝に仕えたがのちに景勝との間に隙を生じ、天正十四年七月上方へ出奔した。その後、関ヶ原の合戦を機に家康に従い本姓畠山に復した。
宜順の長男景広(長則)は上杉景勝に仕え、子孫は畠山に復し侍組に列し「高家」という上杉家中の最上席にあった。二男の長員は、父が畠山姓に復したとき、謙信から受けた恩義に報いるために上杉姓として別家を興した。これが畠山上杉家で、慶長六年(1601)、家康に拝謁し千四百九十石余石を与えられ、子孫は江戸幕府の「高家」に列した。三男は人質として豊臣家に送られた長真で、のちに越後に戻ったが上杉氏を出奔した父義春のいる河内国へ向かった。慶長六年、家康に拝謁し、元和三年(1617)に大和国宇智郡三千百二十石を与えられ、兄長員と同じく徳川家旗本に列した。のちに畠山に復して子の代に奥高家となり、子孫は旗本高家として存続した。・2004年11月08日
■ 奥州畠山氏
■ バージョン1。
【参考資料:日本の名族/石川県史 など】
■参考略系図
満則は七尾城を築いて畠山氏代々の居城としたが、満則後の系図については諸説あって一定していない。
┌義有
満則−義忠┴政国−義統┬義信
└家俊
とするもの。あるいは、
満則−義忠┬義有−義統−義元
└政国
とするもの、といった具合である。義統についてみれば、義総と同一人であるといわれ、義継・義続と出てくるものも義統のことだといわれ、系図上にはかなりの混乱がみられる。
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