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陸奥畠山氏二本松氏
●二つ引両/村濃
●清和源氏足利氏流
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畠山氏は清和源氏で、室町幕府を開いた足利氏の一族である。しかし、そもそもの畠山氏は桓武平氏であり、鎌倉幕府草創期に活躍した武将畠山重忠の名跡を継承したものである。すなわち、北条氏の謀略に敗れた畠山重忠の妻が北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子義純と再婚した。そこで義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになり、畠山重忠の旧領も義純が受け継いだ。
以来、鎌倉末までそのまま続き、建武の争乱にあたって畠山一族は足利尊氏に従って軍功を挙げ、高国は奥州深題に補任されて東下し、その子孫が二本松畠山氏となった。高国が子の国氏とともに奥州に下ったのは、貞和二年(1346)のことであったという。このとき、高国とともに吉良貞家も深題に補任されて奥州に下向し、それまで主導権をとっていた石塔氏に代わって南朝方の伊達・田村氏らに対峙した。
ちなみに、高国の弟貞国の流れが細川氏、斯波氏と並んで幕府管領となり、さらに能登の畠山氏が分かれでた。
奥州管領畠山氏の興亡
観応元年(1350)、足利尊氏・高師直と弟直義との対立から「観応の擾乱」が起こった。擾乱は奥州にも波及し、一方の探題である吉良貞家は直義方の優勢を見越して、尊氏方に加担した畠山高国を高師直一派討伐の名目で討とうとした。翌年正月、吉良・畠山の間で熾烈な合戦が始まり、合戦は約一ヶ月にわたって繰り返された。これが有名な「岩切城の合戦」で、結果は畠山方の惨澹たる敗北に終わった。
畠山氏は高国をはじめ、嫡子の国氏、国氏の弟直泰らはいずれも自害し、畠山氏に一味した留守氏ならびにその一族も全滅の憂き目にあった。かろうじて、国氏の子大石丸(平石丸)のみが逃れて、安達太良山の奥に潜んだとも、会津耶麻郡に隠れたとも伝えられている。
その後、文和三年(1354)、畠山平石丸が白河参河守に書状を出したことが知られる。これは、家人たちに戴かれて、奥州管領としての再起をはかろうとした書状と考えられている。この年は吉良貞家の子満家、石塔義元、斯波家兼とがめまぐるしい戦いを展開した年でもあった。いったんは石塔氏が多賀国府を押さえたが、吉良氏と斯波氏が連合したため結局は追われて、斯波家兼・直持父子、吉良満家が国府を押さえた。畠山平石丸が再起を期して吉良氏と戦ったのはこのころとみられるが、吉良氏と斯波氏の連合軍のために惨敗に終わった。『余目旧記』には、再度の畠山・吉良の抗争について、「駒カ崎を根拠とする吉良方に対して畠山が長岡沢田要害まで進出した。しかし、斯波氏が吉良方の援軍となったので、長世保三十番神まで退いた。さらに畠山方は竹城保長田に移り、ここで吉良方を迎撃したが敗れ、海路二本松にのがれ、そのまま二本松殿となった」と記している。
それから三十年を経過した至徳元年(1384)、畠山修理大夫国詮(平石丸)が石河庄八幡宮に神領として河辺・急当・沢尻などの村々を安堵した判物が残されている。明徳二年(1391)には、将軍足利義満が畠山修理大夫の「分郡」たる賀美郡と「恩賞之地」たる黒川郡とを斯波詮持が抑留しているのを停止させ、これを国詮代に沙汰付けることを伊達政宗と葛西満良とに命じている。
衰えたりとはいえ、畠山氏は未だなお奥州管領としての格式を保持していたようだが、遠隔地の所領は斯波氏によって押領され、その実力は弱体化していた。また、明徳二年は南北朝の合一がなり、南北朝時代が終わりを告げた年でもあった。そして、応永七年(1400)、斯波大崎氏が幕府から奥州探題に任じられ、南北朝動乱の初期から続いた奥州四管領時代にもピリオドが打たれた。かろうじて管領として生きてきた畠山氏は、この年を画期として西安達の領主、いわば国人領主あるいは地方大名への途を歩むことになったのである。
二本松畠山氏の成立
畠山氏の二本松支配が本格的となったのは、畠山氏を再興させた国詮の時代からであった。国詮は四人の息子たちを領内の各地に分立させ、領国支配を確立せんとした。
長男の上野介満国は、川崎村、大将内の城を預けられ、勢力を伸ばしつつあった伊達氏に対する備えをになった。二男の次郎満詮は本宮に城を築いて本宮殿と称し、また鹿子田家を継いだとする説もある。そして、三男の満泰が正嫡ということで二本松に住んで家督を継ぎ、四男の式部少輔氏泰は椚山に新城を築いて新城殿と呼ばれた。
そして、国詮時代に領内の開発・寺社などの創建もさかんに行われ、国詮のあとを受けた満泰のとき畠山氏の所領拡大はいっそう進んでいくことになる。満泰は、武勇絶倫の器量を有したといい、居城を殿岡から白旗山に移し二本松城と号した。この満泰から持泰にけけての時期から「奥の畠山氏」という呼称はなくなり、「奥の二本松氏」と呼ばれるようになったことが記録などから知られる。また、畠山氏から二本松氏と呼ばれるようになったことは、畠山氏が幕府管領畠山氏とは異なり、在地化した国人領主という存在になり下がったことも示している。
満泰には三人の息子がいたが、家督を嫡子の満盛が継いだ。満盛の「満」は将軍足利義満から一字を拝領したもので、満盛は従四位下修理大夫に任官している。二男の持重は義満の子義持から一字を拝領したものと思われる。そして、三男の家継は高玉の地を与えられて一家を立てた。高玉の地は葦名氏との境に位置しており、満泰の時代に二本松畠山氏領となったものであろう。その後、満盛が早死し子息の徳万丸が幼少であったため、弟の持重が家督を継いだ。しかし、成長した徳万丸は将軍義政から一字を拝領して政泰を名乗り、家督をめぐって持重と争った。そして、敗れた政泰は高倉城に移り、以後、政泰の子孫は二本松畠山氏と敵対関係を続けた。
このように、国詮・満泰の二代において、二本松畠山氏の版図が築かれたといえよう。そして、代々の当主は将軍から一字を拝領するなど、奥州の地において一定の地位を維持したのである。
応永二十年(1413)伊達持宗が鎌倉府に対して叛乱を起したとき、畠山国詮は鎌倉公方足利持氏の命令を受けて参戦し
伊達氏攻略に活躍している。ついで、永享十年(1438)に「永享の乱」が起ると、それから二年後の十二年に畠山満泰は
塩松城主の石橋氏・石川氏らとともに笹川公方満直を殺害したと伝えている。
■ 二本松畠山氏の世系混乱の考察
南奥州の動乱
十五世紀中ごろより南奥州は、白河結城氏、伊達氏を軸とする戦国動乱の時代に入った。そして、足利政権を背景とする畠山氏の威勢も次第に衰退をみせるようになり、持泰以降は一介の地方大名になったと思われる。その衰退を裏付けるかのように、持泰のあとを継いだといわれる政国から戦国大名となった義国に至るまでの系譜は諸説あって一定しない。
長享三年(1489)、伊達尚宗は越後守護の上杉房定から援軍を求められ、永正六年(1509)には守護代長尾為景と対立する岳父上杉定実に援軍を送るため、長井の国人衆に軍勢催促を行った。このように伊達氏は尚宗の代になると越後にむけて軍事行動を起こせるほどの存在になり、伊達領国の南境に位置する二本松畠山氏も伊達氏から影響を受けるようになった。とはいえ、足利氏一門であり、奥州管領職にもあった畠山氏を尚宗は粗略に扱うことはなく、畠山氏は伊達氏の影響下にあるとはいえ、それなりに親密な関係を保っていたようだ。
天正十一年(1542)、越後守護上杉定実は伊達稙宗の三男五郎(実元)を養子に迎えようとした。これが一つの原因となって、稙宗と嫡子晴宗との間で父子の抗争が起こったのである。
稙宗は大永二年(1522)に、室町幕府から陸奥国守護職に任命され、同五年『塵芥集』を制定、さらに段銭帳を作成するなど法と財政の両面から領国支配を強化し、伊達氏の戦国大名権力を確立させた人物であった。また、子女を近隣の諸大名に入嗣・入嫁させ、また、領内の国人領主や家臣団を強力な統制のもとに被官化するなど、伊達氏の勢力を大きく伸張させた。それに伴う軍事行動も盛んで、永正十七年(1520)には最上領を攻め、十八年には寒河江領を攻めた。このような、稙宗の領内統治、外征に対して不満を抱く者も少なくなく、それに実元養子の件で越後に争乱が起こるなどして、ついには晴宗が稙宗に対立するに至ったのである。これが、世にいわれる「伊達氏天文の大乱」である。
このころの畠山氏の当主は義氏で、義氏は家臣団の統率に失敗し、離反した家臣は晴宗に従い、義氏は稙宗方に立ち、同派の田村・塩松両氏の支援を得て離反した家臣らを降伏させている。また、畠山一族の本宮氏は乱の初めから晴宗方に加担しており、畠山氏は一族・家臣の統率に緩みが生じていた。
天文十五年、義氏は本宮を攻撃し、本宮宗頼は城を棄てて磐城に出奔した。さらに義氏は田村隆顕・塩松尚義らと安積郡に兵を進め、安積郡の武士は義氏らに降った。しかし、翌年になると、晴宗方の優勢がほぼ確定し塩松尚義も晴宗方に転じた。そして天文十七年八月、稙宗・晴宗父子は和解し、伊達氏天文の乱も終結した。このときの、義氏の行動は不明だが、稙宗方として講和を迎えたものと推測されている。
戦国大名、二本松畠山氏
天文二十年(1551)、畠山尚国は白河晴綱と協力して、葦名盛氏と田村隆顕の講和を実現した。南北朝期のころ、各地域の平和的秩序は在地の国人とよばれる武士たちの連合関係によって保持されることが多かった。すなわち、国人一揆契約というものがそれである。それが、十六世紀に入ると、守護・国人のなかから成長してきた戦国大名たちの相互の紛争と合戦に、近隣の諸大名がその講和の仲介をするということが慣行化してきた。葦名氏と田村氏の講和に対して、畠山氏と白河氏が骨折りしたというのは、その典型といえるものである。
このような調停者に立つためには、独自に独立した権力を持つものでなければならなかった。すなわち戦国大名として自立していることが重要な条件であった。その意味で、畠山尚国は安積・田村・安達・白河および会津にわたる広域な地域の平和秩序を担う権力保持者=戦国大名の一員であったことを物語っている。そして、この時期における畠山氏の実力が、それを可能とさせていたことはいうまでもないだろう。
ところで、このころの畠山氏の当主は義国とするものが多い。おそらく、義国と尚国とは同一人物で、はじめ尚国と名乗り、のちに将軍足利義輝から「義」の一字を賜って義国と改めたものであろう。一字を賜ることを「偏諱を賜る」ともいうが、二本松尚国が与えられた義の字は足利将軍歴代に共通する通字である。このことから、尚国が義の字を与えられたことは、この当時においてなお、二本松畠山氏の格式の高さは室町幕府の認めるところであったことを示している。
一説に、義氏には子が無かったため、一族の新城上野介村尚の嫡子に生まれた義国を養子として家督を譲ったとする。そして、義国は「二本松城主、二本松流祖」なりと記す書もあることから、戦国大名畠山氏の「中興の祖」とみるものもある。しかし、義国の晩年に至り伊達氏の家督を輝宗が継ぐと、畠山氏と伊達氏の間に緊張が高まり、元亀のころ(1570〜72)、畠山氏は塩松氏の援兵を得て八丁目城をめぐって伊達勢と対峙したことが知られる。そして、義国は安積郡半分と安達郡半分を領して、次第に葦名盛氏・盛隆の支配下に属するようになっていった。義国は天正八年(1580)に没し、そのあとは嫡子の義継が相続した。
畠山氏の衰退
義継が相続した当時の畠山氏の置かれた立場を『仙道通鑑』は、「二本松の畠山氏次第に衰微して、義国の世に至っては漸く安達半郡、安積半郡を知行せられ、此の節、会津の葦名盛氏武威をかがやかしかば、此の下風にぞ属せられける」と記している。
畠山氏は北の伊達氏、南の葦名氏との間にあって小大名の悲哀を味わっていた。一方で、安達郡の小浜城主の大内定綱と婚姻を通じて結ぶなどの動きも示している。大内氏は石橋塩松氏の執事であったが、主家石橋氏を滅ぼして田村氏と結び、やがて国人領主として自立した。定綱ははじめ伊達氏に服属していたが、やがて、会津の葦名氏、常陸の佐竹氏に属するようになった。
天正十二年(1584)、政宗は輝宗の譲りを受けて、若冠十八歳で伊達氏十七代の家督を継いだ。このとき、大内定綱は祝辞をのべに米沢城を訪れ、ふたたび伊達氏の傘下に入って奉公したいと申し出ている。しかし、葦名氏の傘下にとどまることに決したことから、伊達政宗の攻撃を受け定綱の拠る小浜城の出城である小手森城は、政宗によって「なで斬り」と称する大殺戮によって落城した。これに震え上がった定綱は、小浜城を捨てて畠山氏を頼って二本松に身を寄せた。
定綱を迎え入れたことで二本松城も政宗の征伐を受けることになり、義継は伊達軍に抗するすべもなく降伏した。結果、畠山氏は二本松のわずか五ケ村だけの保有を許されるばかりの、事実上、滅亡の状況に瀕した。畠山義継はその窮状を隠居している政宗の父輝宗に訴えたものの、義継の願いは果たされなかった。その帰路、義継はやにわに輝宗を拉致して逃亡し、高田原で伊達家臣団に追い付かれ輝宗と刺し違えて死んだ。
怒った政宗は、ただちに二本松城に押し寄せた。一方の畠山氏は、本宮・玉井・渋川の人数がすべて二本松城に集結し、譜代の家臣らが義継の遺児国王丸(のち義綱)を守りたて、義継の従弟新城弾正が大将となり近隣の反伊達諸豪の応援も受けて籠城した。
この政宗の軍事行動に対して、反伊達連合軍は二本松城を救援するため行動を開始した。佐竹義重を中心とする葦名・磐城・石川・白河の諸氏で、連合軍は三万の大軍をもって須賀川に集結し、事態は「人取橋の合戦」へと動いた。戦いは圧倒的多数の兵を動員した連合軍が優勢であったが、夜に至って佐竹氏が兵を引き揚げたことで、合戦は伊達軍の不戦勝というかたちで終熄した。
二本松畠山氏の終焉
「人取橋の合戦」に二本松勢も出陣しようとしたが、渋川城の伊達勢に阻止されて連合軍に合流することができなかった。そして、連合軍が撤退したことで、二本松の落城と滅亡の危機はさらに深刻化した。翌年、二本松勢は伊達成実の守る渋川城を攻撃し、勝利を得たが大勢は動かなかった。
その後、相馬義胤の仲介を入れた畠山氏は二本松城を無血開城した。城主畠山国王丸らは本丸に火を放って、会津へ落ちていった。会津に逃れた国王丸は、葦名氏が摺上原の合戦で敗れたあと、常陸の佐竹氏をたよった。そして、天正十七年(1589)、常陸において葦名盛重(義広)のために殺害されたと伝えられている。ここに、奥州の名門畠山氏の嫡流は断絶した。かくして、畠山氏の嫡流は滅亡したが、一族の本宮氏が伊達氏に仕えて江戸時代になると準一家の処遇を受け、子孫は仙台藩士として続いた。・2004年11月05日
【参考資料:二本松市史/戦国大名系譜人名事典 など】
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