ヘッダイメージ



能登畠山氏 ●ダイジェスト
二つ引両
(清和源氏足利氏流)
村 濃


 畠山氏は桓武平氏秩父氏流で、権守重綱の孫重能が畠山庄司になり畠山を称したことに始まる。重能の子重忠は武勇にすぐれていたうえ義と情に厚く「鎌倉武士の鑑」といわれた。重忠は頼朝の挙兵に際して平家方に属し、三浦一族を攻め安房に追っている。その後、頼朝が再起して武蔵国に入ってくると、ただちに降を乞い頼朝麾下に加わった。
 重忠の武勇を伝える話は数多あるが、かれの名を不朽にしたのは一の谷の合戦である。このとき重忠は範頼軍に加わっていたが、梶原景時がいるのを嫌い、義経の軍に加わった。そして、義経に従って一の谷の目のくらむような断崖の上に立った重忠は、愛馬「三日月」を背中に負って崖を降りた。これには勇猛果敢な鎌倉武士も唖然としてしまったという。幕府成立後、重忠は御家人として忠勤を励んだ。ところが、梶原景時の讒言によって、誅伐がきまった。親友の下河辺行平が起請文を差し出したらどうかとの勧めに、「起請文は心のやましい者が書くもの」といった。この話を聞いた頼朝は疑いを解き、以後、重忠を股肱の臣として遇した。
 頼朝が死ぬと、北条時政・義時父子が幕府の実権を握り、反勢力を次々と倒していった。そして、北条義時の陰謀は重忠の身に迫り、元久二年(1205)、鎌倉からの呼びだしがあり先発した息子の重保が由比ケ浜で殺された。遅れて出発した重忠は、途中で重保の死と討っ手がくることを知ったが、重忠は逃げなかった。この時従う者わずかに三十四騎。重忠は「義時め、謀りおったか」と破顔し、そのまま進んで二股川で討っ手と遭遇、群がる討っ手につっこみ激闘のすえ討死した。
 残された畠山重忠の妻は北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子義純と再婚し、義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになった。もちろん畠山重忠の旧領は義純に与えられた。以後、畠山氏は清和源氏の一族となったのである。以来、鎌倉末までそのまま続き、建武の争乱には足利尊氏に従って軍功を挙げ、室町幕府の重臣となったのである。

 室町時代初頭、畠山国清が足利尊氏に従って戦功をあげ、鎌倉公方足利基氏の執事なり専権を振るった。その弟義深は、能登・越中・河内・和泉などの守護になり、その子基国は三代将軍義満に重用され、明徳の乱・応永の乱に戦功を挙げ、幕府の管領となった。基国の子満家が宗家を継ぎ、その弟満則が能登守護となり、以後この系統を能登畠山氏と呼ぶ。
 満則は七尾城を築き、そこを代々の居城とした。しかし、その後の歴史については諸説あって一定していない。その系図をみても、

      ┌義有
 満則−義忠┴政国−義統┬義信
            └家俊 
とするもの。あるいは、

 満則−義忠┬義有−義統−義元
      └政国

とするもの、といった具合である。
 義統についてみれば、義総と同一人であるといわれ、義継・義続と出てくるものも義統のことだといわれ、系図上にはかなりの混乱がみられる。
 義統は、亨禄年間(1528-32)当時禅僧の間でも師儒といわれて尊敬を集めていた清生宣賢を京都より招き『孟子趙注』や『中庸章句』などの講義を受け、文化人大名として知られている。しかしその嫡男義則は大の漁色家であったといわれ、それがもとで家臣の排斥を受けて越後に亡命している。
 その跡を義則の子義隆が継ぎ、さらに義春が継いだ。義春を義則の弟とする説、義則の子で義隆の弟とする説などがある。
 上杉謙信が越中にはじめて侵攻したのは永禄三年であった。しかし謙信は関東の北条氏康、甲斐の武田信玄らに牽制され、南した作戦は容易に進まなかった。元亀三年、椎名康胤と結んだ越中の一向一揆が信玄の西上作戦に呼応して蠢動した。しかし、翌年信玄が没し越中勢は拠り所がなくなり、たちまち謙信に越中は平定された。謙信はすぐさま加賀侵攻を企てる。
 一方、織田信長は越前の朝倉氏を滅ぼし、一揆に北上して南加賀まで進出してきた。謙信と信長は信玄在世中は同盟関係にあったが、ここにおいて両者は加賀をはさんで衝突する様相を呈した。だが、謙信は関東の情勢が不穏のためいったん帰国、信長も越前に諸将を配置して引き上げた。ところが、その虚に乗じて一向一揆が南加賀を奪還し、さらに越前も制圧するに至った。
 天正三年信長は再度越前に侵攻し、翌年には加賀に足を踏み入れ、一向一揆を圧倒した。一方謙信は信長の北国進出に対抗して一向一揆と和睦し、加賀への進撃を前に能登の平定を図った。このころ、七尾城主畠山氏は内紛が続いていて、当主も幼少の畠山春王丸であった。しかし、天険の要害七尾城での篭城作戦をとり、城兵よく越後勢の猛攻に耐え死守した。
 ところが篭城戦のさなかに春王丸が没し、城内は動揺したが、城兵よく上杉勢の攻撃をしのいだ。手を焼いた謙信は内応者をさぐり、遊佐・温井・三宅らがそれに応じ、一人反対するのは長綱連ばかりとなった。そして、遊佐氏らはクーデターを起こし長氏一族を殺害、謙信に降った。ここに七尾城は謙信の手に落ち、能登の名門畠山氏は滅亡した。
 宗家滅亡後、先の義春は上杉謙信によって上条の上杉家を継ぎ、上杉義春となっていたが、のちに畠山に復した。謙信の死後、秀吉に仕えて馬廻となり河内国高安郡に五百石を与えられ、関ヶ原の合戦後は家康に仕え、結局。高家として三千石を領して江戸時代に続いた。


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧