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二本松畠山氏の世系混乱
・二本松市史の説より



 南北朝期における畠山氏の歴代は、いずれの系図も「高国─国氏─国詮」となっている。しかし、 室町期になると国詮のあとが「満泰─持重─政国」とするものと「満泰─持泰─政泰」とするものとの 二通りになっている。

 『花営三代記』の応永三十二年(1425)の正月四日の条に、管領畠山満家に招かれた将軍義持の同行者のなかに「畠山修理大夫七郎持重」がみえる。『積達館基考』はこの持重を持泰のことであるとしている。また、『山口道斎物語』も同様に推定している。
 これらのことから、持重ははじめ持泰と名乗り、のちの持重と改名したとも考えられるが、そうともいえないのである。すなわち、『両畠山系図』によれば、二本松に畠山持重が生存していた時期に、別に畠山持重がいるのである。『積達館基考』『山口道斎物語』の編者たちは、『花営三代記』にみえる畠山持重をそのまま二本松畠山氏の当主と考えたのであろう。持重の父は満泰であり、満泰の「満」の字は将軍義満から与えられ、「泰」の字は遠祖畠山泰国からとったものと思われ、満泰は子の元服に際して将軍義持から一字を賜り、みずからの「泰」の字を与えて「持泰」と名乗らせたと考えらる。持重はおそらく持泰が正しいのではなかろうか。

 ついで、政泰と政国の場合はどうか。いずれの「政」の字も将軍義政から拝領したものと思われる、政国は高国から国詮までの通字であた「国」を用いたと思われ、政泰は祖父・父の通字である「泰」の字を用いたものであろう。持泰の名は『積達館基考』『山口道斎物語』には、持泰の兄にあたる満盛の子としてみえ、『積達館基考』は「政国」と「政泰」は同一人物である想定している。一方、『両畠山氏系図』『奥陽仙道通鑑』などでは、政国のところを政泰と記している。
 『奥陽仙道通鑑』などが、政泰を持泰の子としているのは、あるいは政泰は満盛の子であって、持泰が政泰を養子として迎えたものかも知れない。既述のように政泰は持泰に追われて高倉城に移ったが、持泰の養子として迎えられ、二本松畠山氏の家督となって二本松畠山氏を安泰ならしめた人物であろうか。
 このように、政泰が持泰の養子となって二本松畠山氏宗家を継いだとすれば、室町初期において二本松畠山氏内部で、一族間にかなり深刻な争いがあったことを予測させる。この時期、畠山氏に限らず宗家と庶子家との間で家督をめぐる抗争が多くあったことは歴史が語るところである。この後も、二本松畠山氏の系図は当主の名が混乱を見せていることから、畠山氏一族の内訌はかなり複雑であったことをうかがわせている。

 このような一族間の内訌を克服したものは戦国大名に飛躍し、一族間の争いをひきずったまま戦国時代を迎えた家の多くは衰退・没落を余儀なくされている。二本松畠山氏が戦国末期に伊達政宗と争って敗れた原因は、このようなことが要因となったと考えてまず間違いないであろう。

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