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足利氏(阿波公方)
●二つ引両/桐
●清和源氏義家流  
 


 戦国時代は、応仁元年(1467)に勃発した「応仁の乱」をもってその始まりとされる。応仁の乱のそもそもの発端は、幕府三管領の一であった畠山政長と畠山義就との家督争いに、幕府の有力者である細川勝元と山名持豊(宗元)がそれぞれの政治的利害を絡めて加担し、諸大名がそれぞれに与したことで未曾有の大乱となったものである。乱そのものは、京都を中心に約十一年間続いて終息したが、その影響は全国におよび下剋上の横行する戦国時代となったのであった。
 戦乱は旧勢力の衰退を促し、新興勢力の勃興をよんだ。幕府の威勢は衰え、守護大名らも分国内の国人勢力の台頭に悩まされ、ついには被官、国人らの下剋上によって没落するものも出た。さらに、将軍も時の権力者によって簡単にすげ替えられ、将軍の権威はまったく地におちたのである。
 そのような時代に翻弄されたのが十代将軍足利義稙であった。義稙(義尹・義材)は、延徳二年(1490)に将軍職に就いたが、明応二年(1493)細川政元のクーデターによって、将軍職を追われ周防の大内義興を頼った。永正五年(1508)にいたって、細川高国が十一代将軍足利義澄を追放したことで、義稙は大内義興に奉じられて入京し、将軍に返り咲いたのであった。しかし、幕府内の権力闘争はやまず、永正八年(1511)には対抗勢力の挙兵によって高国とともに丹波に逃れ、同十六年(1519)には阿波の三好之長が細川澄元を奉じて挙兵、敗れた高国は近江に逃れたが、このとき義稙は澄元に味方して京都にとどまった。対する高国は六角氏らの力を借りて逆襲し、三好之長は自害、澄元は阿波に奔りほどなく病死した。
 以後、高国の専横は甚だしいものとなり、大永元年(1521)義稙は淡路に逃れた。高国は義晴を十二代将軍に擁立、義稙は畠山氏を恃んで再挙を図ったが、敗れて阿波の撫養に逃れ大永三年(1523)に客死したのである。

阿波公方のはじめ

 義稙は子がなかったため、十一代将軍義澄の子で義晴の弟にあたる義冬(義維)を養子としていた。義冬は阿波の細川氏に托して育てられていた人物で、大永六年、阿波の細川持隆に擁せられて上洛した。この上洛は、足利義澄のあとを義晴と義冬のいずれが相続するかが問題になったとき、細川高国が推す義晴が将軍職に就いた。将軍職継承に敗れた義冬は管領家の細川晴元、阿波護細川持隆、その執事三好元長に擁せられて堺に上陸、高国を倒した晴元は新管領となったが、案に相違して義晴を将軍として担いだのであった。
 義晴に裏切られた義冬は淡路に退き、天文三年(1534)、細川持隆に迎えられ阿波に移り、那賀郡の平島に居舘を構えて三千貫を与えられ手厚い保護を受けたのである。これが初代平島公方義冬で、その居館は平島館とよばれた。
 天文二十一年(1552)、持隆は義冬を奉じて上洛、将軍に就けようとしたが元長の子三好義賢が義冬擁立に真っ向から反対した。義賢は無駄な政局混乱を避け、領国の充実をはかることを主張し、併せて阿波守護持隆を孤立させようと図ったのである。一方、義賢の兄で時の権力者長慶にしても将軍の首のすげ替えなどは、まったく無意味と考えていたようだ。いわゆる、義冬を憐れと思う持隆と、現実路線を歩む義賢の対立でもあった。
 義賢は主君持隆の暗殺を企み、持隆を城内の龍音寺に招き、そこを急襲させて自害させたのである。持隆を亡き者にした義賢は、持隆の子真之を傀儡守護に祭り上げて阿波の実権を掌握した。さらに、持隆の室小少将局(大形殿)を妻とし、義治と存保を生ませるという悪逆振りを見せた。まさに、下剋上であった。
 その後、永禄五年(1562)義賢は兄長慶救援の戦に出陣して、泉州久米田で討死した。ついで、三好長慶も病死し、三好氏は大いに動揺した。この事態に三好氏の重臣篠原長房は、松永久秀および三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と協議し、長慶死後の京畿における三好勢力を保持させることとした。しかし、三人衆と久秀との間はとかく不協和音が生じて対立争闘が相次いだ。長房は大兵を率いて兵庫に上陸、松永久秀軍を各地に圧倒し、大和の多聞山城に逼塞せしめた。

つかの間の将軍職、そして近世へ

 ここに至って、三人衆の誘いを受けた篠原長房は平島公方義冬を擁して上洛せんとした。しかし、義冬は病を得て上洛を果すことができず、その子義親が代って上洛した。そして、永禄十一年(1568)、義親(義栄と改名)に将軍宣下が下り、阿波公方義栄は十四代将軍となったのである。しかし、義栄の将軍職も長くは続かなかった。先に松永久秀・三好義継らの謀叛によって殺害された十三代将軍義輝の弟義昭を奉じた織田信長が上洛、松永久秀が降り、三好三人衆も敵せず退くに至った。支持者を失った義栄は阿波に帰らざるを得ず、帰国まもなく撫養で病没した。
 義栄のあとを継いだ弟義助は平島館にあって上洛の機会をうかがっていたが、京都における阿波勢力の本拠「上屋形」細川氏が織田信長のために壊滅せられ、さらに、土佐の長曾我部元親の阿波国侵入にあって「下屋形」細川氏に代った三好氏も滅亡するに至った。ついに、頼るべき勢力もなく自ら力を持たぬ平島公方義助の上洛の野望は、はかなくも崩れていった。
 天正十年(1582)、阿波を支配下においた長曾我部元親は、公方家の伝統的権威を尊重し、所領(平島郷十二村・吉井・楠根・丹生・和食の三千貫)を従来通り保証したのである。やがて、織田信長のあとを継承した羽柴(のち豊臣)秀吉が天下人として台頭、天正十三年、秀吉の四国征伐に敗れた長曾我部元親は土佐へと帰っていった。このとき、阿波一国は蜂須賀氏に与えられた。
 かくして戦国時代は終焉を迎え、関ヶ原の合戦を経て徳川家康が天下人の座に就いた。阿波藩主蜂須賀氏は、平島公方の禄を大幅に削減し、さらには、平島姓に改めさせるなど平島公方の権威を引き下げる政策をとった。以後、蜂須賀氏に対する不満を蔵しつつ平島館に過し、江戸時代中期も過ぎたころの当主九代公方義根のとき、蜂須賀氏に増禄を求めた。しかし、それは容れられず、ついに文化二年(1805)阿波国を去って紀州に行き、さらに京都へ帰っていった。ここに至って、平島公方足利氏の歴史は幕を閉じたのである。・2004年11月16日

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■参考略系図


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