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六郷氏
●三つ亀甲の内七曜
●藤原南家二階堂氏流  
 


  六郷氏は、藤原南家二階堂氏の後裔とする点では一致するが、系譜には不明の部分が多い。
 六郷とは六つの「郷」を意味していることばで、郷はいくつかの村が集まったもので、近世でいうところの村よりはるかに広い村が単位となっていただけに、六郷とはかなり広い領域であった。しかし、六郷氏の名字のもとになったと思われる「六郷」が、具体的にどこの地をさしているのかは分からない。ちなみに菅江真澄が著した『月の出羽路』には「六郷三ケ村をはじめ西は飯田村より東は六郷東根まで、村々の古帳、古記録にも六郷某村と字ある村々、此わたりに廿ケ村ほどもありけるよしをいへり。」という記述がある。
 一般的に、平安時代ごろから自分が支配している地域の地名を名字とするならわしが生じた。さらに、律令体制が崩壊し名田が成立してくる過程で、自分の名前をつけて「○○名」として土地の保有を主張するようになった。これが名字の発祥であり、地名と名字の結びつきは、土地支配にまで拡大されていったのである。この傾向は、中世を通じて全国的に続けられ多くの名字が発生した。
 六郷氏も六つの郷を支配した二階堂氏が、その領域の支配者であることを内外に示す意味を込めて、六郷を名乗るようになったことは、時代の趨勢からもうなづけることである。では、六郷氏の祖である二階堂氏はいつごろどのような経緯で出羽に入部してきたのであろうか。

奥州合戦後の武士移住

 文治五年(1189)、源頼朝による奥州征伐(奥州合戦)が行われ、平泉藤原氏は滅亡し、その遺領には多くの関東御家人が地頭職を与えられて入部してきた。このとき、出羽北部には、秋田郡に橘氏、鹿角郡に成田氏、比内郡に浅利氏、雄勝郡に小野寺氏、平鹿郡に平賀氏らが地頭職を得た。しかし、六郷を含む山本郡の地頭については、いまのところそれに関する史料は残っていない。
 『小野寺盛衰記』では「文治の役畢て、我が地方に地頭なるものがそれぞれ封ぜられた。小野寺氏は勿論、其の他、後年に至り地方の豪族と称するものは多くは其の末葉のものである。六郷氏なども勿論、其の末葉のものであろう」と説明している。
 その後、残された棟札などから、中原親能・宮道国平が山本郡の地頭職と関係をもっていたのではないかといわれるようになった。中原親能・宮道国平は奥州合戦に参加し、奥州に土地を賜ったことが知られている。さらに「大河兼任の乱」に際して、その討伐に力を尽した。とはいえ、二人のうちいずれが山本郡の地頭であったかは断定できないが、双方ともに山本郡地頭職に関与したことはほぼ通説となりつつある。
 しかし、山本郡内の六郷地方を二階堂氏がいつごろ領有するようになったのか、そして、中原・宮道氏らとどのような関係をもっていたかについては、必ずしも明確ではない。

二階堂氏の入部

 二階堂氏の六郷地方入部に関しては、江戸時代前期(寛文十二年=1672)の年号の入った『諏訪大明神縁起』に「二階堂遠江守行基為仙北郡城主行基於至徳年中下向之時召供土岐佐々木之両典土岐名乗矢部佐々木名乗須田」という記述がある。これによれば、二階堂遠江守行基が、仙北郡領主として記載され、南北朝末期の至徳年中(1384〜87)に入部し、そのとき土岐と佐々木の両武士を召し連れてきたと理解できるのである。他方、熊野神社に伝わる記録によれば、二階堂帯刀が建久年間(1190〜98)に右大将頼朝の命令によって入部したとある。
 諏訪大明神の縁起も熊野神社の記録も、二階堂氏が他所から入部してきたことに関しては共通している。建久年間に入部したとすれば、奥州合戦の功によって与えられたとも考えられる。しかし、『吾妻鏡』の記事などから、山本郡の地頭職を与えられたのは中原親能・宮道国平らであり、それはまず間違いのないことである。
 他方、二階堂氏の宗家は奥州合戦の功によって、陸奥の南にある岩瀬地方に領地を賜り入部している。このことから、二階堂氏が奥州に領地を保有していたことは事実であり、その庶流が出羽に進出したものと考えられる。そして、山本郡の地頭職を与えられた中原親能・宮道国平の代官として山本郡に入部し実際の所領管理をつとめた。その後、南北朝末期に至って、中原氏が持っていたと思われる地頭職を二階堂氏が受け継いだのではないかと考えられる。
 二階堂氏の入部を考えるうえでの史料として『藤原姓久米氏家伝系図』がある。久米氏は二階堂氏の一族で、系図は二階堂道蘊から書き始められている。道蘊は鎌倉末期の人物で、元弘の乱では北条氏に味方して千早城攻撃にも参加した。建武の新政にも参画し、その後の中先代の乱に関係して一族とともに処刑された。ここに二階堂一族は四散し、その一つが出羽に定着したというものである。
 このように、のちの六郷氏に連なるであろう二階堂氏の出羽入部に関しては諸説があり、定説は見出せていないというのが現状である。

六郷氏の系譜

 南北朝期に、出羽山本郡に入部してきた二階堂氏に関して、室町時代の動向は明確ではない、その動きが記録などから確認されるようになるのは、戦国末期から織豊時代の道行、その子の政乗に至ってからである。そして、戦国時代における六郷氏に関わる初見史料は、天正五年(1577)に二階堂道行が涅槃(ねはん)像を永泉寺に寄進したことを記した「永泉寺什物涅槃像事」で、それには「大旦那藤原朝臣二階堂弾正忠道行」とある。
 永泉寺は六郷氏の菩提寺であるが、「羽後・本庄六郷家譜」によれば二階堂から六郷に改姓したのは道行の代と言い、天正十年(1582)ころ、安東愛季が小野寺義道にあてた書状にも「六郷方御奉行」の記述がある。従って天正期に入って二階堂氏が六郷姓を用いることになったことはほぼ了解してよい。とはいえ、六郷氏の出自や系譜は、二階堂氏に連なると言う伝承が残るだけで、正確な系譜は伝わっていない。
 たとえば、活動が諸史料上で明確な政乗前後の系譜にしても、

 「羽後・本庄六郷家譜」
   照行―晴泰―某―道行―政乗―政勝

 「藩翰譜系図」
   藤原道行―政乗―政勝―政信

 「寛政重修諸家譜」
   照行―晴泰―某 ―某 ―道行―政乗

 「戸沢家譜」による六郷系譜
   政直……政英……政房―政行―政乗

 などとなっており、諸本、必ずしも一致しない。

六郷氏の世系、諸説

 『羽後・本庄六郷家譜』では道行について二階堂阿波守・弾正少弼、また六郷と呼称したと記している。『藩翰譜』も弾正忠道行の子が政乗となっており、この親子関係は前掲家譜と同じである。しかし、『寛政重修諸家譜』は晴泰のあと某が二代続いている。そして某に関しては前者が河内守、後者が阿波守となっている。以上三つの系図は、江戸時代に六郷氏が幕府に提出した家系をもとに作ったものであるが、『羽後・本庄六郷家譜』・『寛政重修諸家譜』ともに、道行の父が某となっている点は特異といえる。
 六郷氏の居城、六郷城が築城されたのは道行の時と伝えられ、その子政乗の動向は各種史料に記載されている。かなり明確な史実を残している政乗からみて、祖父にあたる人物が某となっているのはいかにも不自然で、明記することをはばかる事情があったものであろうか。
 一方で、角館に拠点を置いた戸沢氏の『戸沢家譜』に六郷氏の名が散見している。まず南北朝時代に門屋城にいたとされる戸沢英盛のころに、六郷長五郎政直の名がみえる。ついで、英盛から五代下った戸沢家盛の時代に、六郷弾正政英と六郷丹波守が出てくる。家盛の次は戸沢久盛であるが、久盛の母は六郷丹後守の娘となっている。戸沢氏の系譜はこのあと寿盛・征盛・秀盛・道盛・盛安と続き、六郷氏も佐渡守・弾正・政英・政房・政行などの順に記述されている。しかし、『戸沢家譜』に記されている政乗以前の六郷氏の人物は、前掲六郷氏関係の系図には全く出てこない。  『戸沢家譜』に記載されている六郷氏の人物は、政直・政房・政行など「政」の文字が名乗りに用いられ、この点では他の六郷氏の系図にあらわれる名乗りに比べて「政」の字を通字とする一貫性が感じられる。とはいえ、史料的には先掲の「永泉寺什物涅槃像事」の方が上質であり、道行が二階堂を称していたとすれば、道行以前の人物も二階堂でなければならない。その他、深沢多市編の『小野寺研究資料』には、「六郷山城政国、同息兵庫頭政乗」という記事が紹介されている。これによると政乗の父は政国ということになり、戸沢家譜にみえる六郷氏の系譜に連なるものとも想像できる。
 このように、六郷氏の系譜・系図は諸本によってかなり異なるが、これは戦国時代の国人衆に共通にみられることで、六郷氏に限ったことではない。仙北中郡に六郷氏が在地領主として君臨したことは確かな史実であるから、政乗時代の実態を通じてその歴史を推察すべきであろうと『六郷町史」では述べられている。

六郷氏の勢力伸張

 戦国時代から織豊期における六郷氏の活動の特色は、常に向背が定まっていなかったということが上げられる。そのことは、六郷氏が周辺の国人領主と共同して動いていたことを示している。
 戦国時代の北出羽には、檜山・秋田郡に安東氏、比内郡に浅利氏、山本郡に戸沢氏、雄勝・平鹿郡に小野寺氏、南部の庄内には武藤氏などの戦国大名が割拠していた。そして、それらの大名の間に、六郷氏、本堂氏、前田氏、金沢氏、由利衆などの国人領主が小さいながらも勢力を保持していたのである。そして、六郷氏にもっとも影響を与えたのが小野寺氏と安東氏、そして戸沢氏であった。
 こうした情勢下にあって小大名に過ぎない六郷氏は、あるときは小野寺氏に従って最上地方や由利地方に転戦したり、あるいは秋田氏に従ってその内乱に参加するという行動をとっていた。これは六郷氏に限らず本堂氏や国人領主に共通したもので、かれらの処世術でもあった。
 六郷氏が小野寺氏に従ったのは、小野寺氏が最上氏、武藤氏と戦ったときで、小野寺氏は最上・伊達が対立している隙を狙ってしばしば最上地方に攻め入ったのである。天正十四年(1586)小野寺氏が最上領に侵攻したとき、六郷氏も本堂・久米・金沢氏らとともに参陣している。また、天正十七年に秋田氏の内訌である湊合戦が起ると、六郷政乗は実季の要請に協力して出陣した。その一方で、六郷氏は小野寺氏と対戦もしている。そのことは、天正十六年、最上義光が由利の小介川治部に書を送り、抗争中の小野寺・六郷両氏に講和をするように進言していることから知られる。
 六郷領は雄物川中流域の仙北平野北域一円にわたり、また玉川・丸子川などの合流地帯で、支配地域としてはまことに優れた所であった。そのような土地に割拠する六郷氏は小さいながらも独立性の強い領主で、小野寺氏の麾下として行動することが多かったとはいえ、小野寺氏に対して一定の自立性を固持していたようだ。六郷氏が小野寺氏と戦ったのは、領土拡張のための戦いというよりは、既成の勢力を維持するための攻防であったようだ。

六郷衆のこと

 六郷氏の周辺には、神尾・金沢・久米・戸蒔・法(堀)田・金子らの国人領主がいた。そのうちの神尾・金沢・久米の三氏が六郷氏と関係が深く、俗にいわれる「六郷衆」を形成していたようだ。『中外経緯伝』の「名護御留守在陣之衆」に秋田太郎、小野寺孫十郎に混じって「六郷衆」の記載がある。このことは、六郷氏を中心とした同族団が、外部からもそのように見られながら行動していたことを示している。
 『奥羽永慶軍記』の「岩崎合戦、六郷一味の事」に、六郷兵庫(政乗)の弟が金沢権太郎であり、神尾町蔵人は六郷一族であること、そして、蔵人が六郷家にあって一方の大将である旨の記載がある。他方、『戸沢家譜』には、天正三年のころ、神尾尾張、同十四年ころ神尾豊前、同十五年ごろ、神尾雅楽がいたとあり、六郷氏取巻衆として家臣団の一翼を担っていたものであろう。
 金沢氏は、地名を名字としているだけにその地に成長した国人領主であった。小野寺氏の強い影響を受け、「永慶軍記」では六郷氏と並列の形で登場している。『小野寺系図』に景道の弟道秀が金沢城主とあって、金沢氏が小野寺氏の一族となっていることを記載している。一方、先述のように金沢権太郎は六郷政乗の弟とも書いてある。金沢氏領は小野寺・六郷両氏の中間に位置していることから双方と婚姻関係をもつことがあり、ときによって小野寺、六郷氏という風に揺れ動いていたものと想像される。
 久米氏は南北朝期に二階堂氏から分かれた家で、六郷氏に近い一族であった。戦国・織豊期、飯詰の野守館にいたことから、飯詰氏と記されることもある。そして、久米氏の領地は北は六郷領、東は金沢領にそれぞれ接しており、六郷衆と呼ばれるにふさわしい存在であった。
 六郷氏はこれら、六郷衆と呼ばれる国人領主たちと連携することで、戦国から織豊の激動の時代を生き抜いたのである。

関ヶ原の合戦

 天正十八年(1580)、奥州仕置後の太閣検地の時、六郷一帯に検地反対の一揆が発生したが、六郷政乗は本領の内約五千石を安堵された。ここに、六郷氏は小さいながらも独立した領主(大名)の地位を与えられ、豊臣大名のひとりとして生き残ることができたのである。このとき、六郷衆と称される神尾氏、久米氏らも秀吉から知行地を安堵されている。
 かくして、六郷氏は豊臣政権下の一大名として、文禄の役には、肥前国名護屋城に出張した。豊臣政権は、家康を筆頭とする五大老と石田三成を中心とする五奉行によって運営されていたが、慶長三年(1598)に秀吉が病没したことで、これらの協調関係に亀裂が生じた。さらに、秀吉家臣団の武断派と文治派の対立が顕在化し。政情はにわかに波乱含みとなった。
 その後、豊臣家の柱石であった前田利家が病没し、五大老のひとりである上杉景勝が領国の会津に帰ってしまった。会津に帰った景勝はただちに領国の整備に着手したため、家康は豊臣家への反逆であるとして、慶長五年(1600)、会津征伐の軍を発した。これが引き金となって、天下分けめの関ヶ原の合戦が起ったのである。
 石田三成の挙兵を知った家康は、仙北郡の諸大名に対して最上義光の指揮に従うよに命じると軍を西に返した。このころ、出羽では最上氏と小野寺氏が対立、抗争していたが、小野寺氏もはじめは家康側に立ち、六郷氏も家康側に立った。対する上杉氏は東北の諸大名に味方になるように呼び掛け、上杉氏の執政直江兼続は山形の最上氏を討つため最上領に軍を発した。直江率いる上杉軍は破竹の勢いで進撃し、最上氏はたちまち窮地に追い込まれた。この情勢を見た小野寺氏はこれまでの最上氏との確執もあって、上杉方に転じた。そのころ、美濃国関ヶ原で東西の決戦が行われ、戦いは徳川家康の率いる東軍の勝利に終わった。
 その結果、上杉勢は山形から兵を引き揚げ、ついには家康に降服した。その余波は小野寺氏にも重くのしかかり、最上氏をはじめとして六郷氏らは小野寺氏を積極的に攻め立てた。『六郷家譜』にも六郷氏が小野寺氏をたびたび攻め立てたことを伝え、『秋田家文書』の実季宛政乗書状でも、六郷氏が小野寺領を攻撃中であることを述べている。

六郷政乗、大名に列す

 合戦ののち、政乗は大坂に至って家康・秀忠に謁した。慶長七年、旧領を改められ、加増をえて常陸国府中において一万石の地を賜り、府中城主に住じた。大坂の陣には、冬・夏の両度とも参陣している。
 元和九年(1623)、新恩一万石を賜り、常陸国の領地を転じ出羽国由利郡において二万四百石を領し本荘に住した。寛永十一年(1634)に政乗は死去し、そのあとは嫡子の政勝が継ぎ伊賀守に任じた。以後、子孫代々封を次ぎ幕末に至り、明治維新を迎えた。・2006年3月29日

参考資料:六郷町史/小野寺盛衰記/藩翰譜 など】  →ダイジェストページ

●二階堂氏の家紋─考察

■参考略系図
 
  


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