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六郷氏 ●ダイジェスト
三つ亀甲の内七曜
(藤原南家二階堂氏流)


六郷氏は、藤原南家二階堂氏の後裔とする点では一致するが、系譜には不明の部分が多い。二階堂氏は、鎌倉中期に陸奥国に所領を有しており、六郷の地頭職も有していた可能性がある。おそらく室町中期頃二階堂庶流の某が出羽に移り、六郷に土着したものと推定される。
 六郷城が築城されたのは道行の時と伝えられ、その子政乗の動向は各種史料に記載されている。
 ところで六郷城のあった仙北郡は、古くは山北郡とも書き、山芝・仙芝とも綴られたが横手盆地の山本・平鹿・雄勝三郡の略称であり総称。天正十六年。横手城主小野寺義道の仙北七人衆に属し、同国湊城の安藤実季と戦った。このように、天正年間六郷氏は小野寺氏の被官となっていたが、その位置が戸沢氏や秋田氏などに近かったため、独立的性格が強かった。天正十八年太閣検地の時、六郷一帯に検地反対の一揆が発生したが、六郷政乗は本領の内約五千石を安堵された。
 文禄の役には、肥前国名護屋城に備う。慶長五年(1600)、小野寺義道など仙北郡の士民が悉く上杉景勝に従うなか、義道としばしば合戦し、軍功を顕わす。のち仰せにより、南部利直・戸沢政盛・本堂茂親らと山形城主最上義光に属し、景勝の陣に対す。義道は所領のことで義光と対立し、景勝は義光領を脅かしていた。ただ、出羽国の諸士は、景勝と違って「関ヶ原の合戦」を前にして、東西両陣営に通じていた面がある。
 合戦ののち大坂に至って家康・秀忠に謁した。慶長七年、旧領を改められ、加増をえて、常陸国府中において一万石の地を賜り、府中城に住じた。大坂の陣には両度とも参陣している。元和九年(1623)、新恩一万石を賜り、常陸国の領地を転じ、出羽国由利郡において二万四百石を領し、本荘に住した。以後代々封を次ぎ幕末に至り、明治維新を迎えた。

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