児玉党
軍配団扇
(武蔵七党の一) |
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団扇は涼具として古くより用いられてきた。また「アオグ」という行為は神を呼び寄せるものとして、
また団扇そのものが神の依代として尊ばれてきた。いまでも、伊勢神宮の御田植神事の際に大団扇を畦に立て、
神事の最後にその大団扇を奪い競い合い、豊作を祈るということが行われている。これをみても扇が神と関係の
深いものであったことが分かる。
この神の依代である団扇を家紋としたのが「団扇紋」で、団扇紋は武蔵七党の一つでその中心勢力であった児玉党の
家紋として知られる。そして、家紋のなかでももっとも古いものの一つともされている。団扇紋は楕円形に柄の付いた
団扇を紋章化したもので、骨の数によって「五本骨団扇」「十本骨団扇」などと呼ばれ、団扇の数で「一つ団扇」
「三つ団扇」などと呼び分けられる。また、団扇のなかに多の紋を組み合わせたものも多い。のちには軍配団扇が
多くなり、本来の団扇紋を圧倒するようになった。
●児玉党の代名詞
軍配紋を代表家紋として用いる児玉氏は、系図によれば藤原姓有道氏流で、『源平盛衰記』にも「児玉の党、
団扇の印をかかげて」とみえるなど、平安末期においてすでに児玉党が「団扇」を旗印として用いていたことが知られる。
とはいえ、当時は団扇そのものを党の印として用いていたようで、それが、のちに図案化され家紋として
用いられるようになったと思われる。
児玉氏からは多くの一族が輩出している。中国地方に西遷して土着、戦国時代、毛利氏に仕えた児玉氏が「団扇に笹」、
上野の小幡氏が「軍配団扇に笹」、同じく倉賀野氏が「団扇之内ニ松竹」、近江の三雲氏が「軍配団扇に一文字」、遠く肥後国に移住した小代氏が
「軍配団扇に三つ亀甲」、徳川氏に仕えて近世大名となった
奥平氏が「軍配団扇に松」などなど、児玉氏一族は挙って軍配団扇を用いている。
・児玉氏の団扇に笹・小幡氏の軍配団扇に笹・三雲氏の軍配団扇に一文字・小代氏の軍配団扇に三つ亀甲
一方、中世武家の家紋を知る確かな史料では、応仁の乱のころ幕府奉行の蜷川氏が記録したという『見聞諸家紋』にも
児玉氏一族の紋が収められている。粟生田次郎左衛門尉経行の「軍配団扇に月に松竹」、真下氏の「軍配団扇に松竹鶴亀」、
富田氏の「軍配団扇に笹」などで、それぞれ軍配団扇に鶴・松・竹などのめでたい文様を組み合せているのが特徴的である。
また、上杉謙信が遺した『関東衆幕紋書付(関東幕注文)』にも多くの児玉一族の幕紋が記されている。それによれば、
上州の白井衆のうち小幡三河守が「団の内六竹」、大類弥六郎が「うちハの内切竹にほうわう」、反町が「うちわの内きり竹にほうわう」を用い、箕輪衆の倉賀野左衛門五郎が「団の内松竹」、沼田衆の阿佐美小三良が「竹に団之紋」を用いた。野州では足利衆のうち小幡次郎と小幡道佐が「かふ竹団」、本庄左衛門三良が「団之内本之字」、武州では成田氏に属した本庄左衛門佐が「団之内本之字」、同じく岩槻衆の浅羽下総守が「団之文」、さらに勝沼衆の岡部氏が「団之内の十方」と、児玉一族が関東一円に繁衍し、それぞれ「団扇」紋を用いていたことが知られる。
文字通り「団扇」紋は児玉一族を代表する紋であり、いま団扇紋を用いる家の場合、まず児玉氏となんらかのゆかりがあるものと考えられる。
………
注)『関東幕注文』の部分の「団」は団扇、「ほうわう」は鳳凰のことであり、それぞれの紋の表記は原文に従った。
[児玉党家伝]
■児玉氏
■小幡氏
■倉賀野氏
■三雲氏
■小代氏
■奥平氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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