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児玉氏
唐団扇に五枚笹
(武蔵七党児玉党後裔)


 藤原姓で武蔵国から興った。丈部氏後裔、有道氏族で武蔵七党のなかで強い勢力をもった児玉氏の出自で、藤原鎌足十四代の孫遠岩を遠祖とし、武蔵国児玉郡を領知して、在名をとって児玉氏を称したという。
 児玉氏は、承久の乱で北条義時に属して軍功があり、安芸国豊田郡竹仁村を受領して地頭職となった。弘安四年、鎌倉から安芸国の所領に子息を下し、元軍来襲のときは門司関で防戦するように命じられて、経行・貞行・維親らの後裔が安芸国に下向した。元応二年、維親から六代目光行は海上警固のため安芸国亀頚警固を命じられている。
 南北朝時代は足利直冬に属し、将軍方に属した大内氏に地頭職を奪われたが、のちに取り戻し一時大内氏に属したこともあった。その後、児玉氏三家は、毛利時親に従って安芸国に下向し、以来譜代の重臣となり、毛利元就以来、数々の合戦で軍功を挙げ、毛利氏の成長に力を尽くした。
 経行系児玉氏の児玉就光は、天文九年の郡山城籠城戦をはじめ、同十一年の尼子攻め、同二十三年安芸矢野城攻め、同赤石口の合戦、永禄十二年(1569)周防五か村の一揆鎮圧などに参陣し、永禄元年周防富田郷、同二年安芸山里などで給地を与えられた。天正八年(1580)四月、備中賀茂の小倉城攻めで次男元房を亡くしている。
 就光の叔父が就忠で、一族の維親系児玉氏を継いだ。家中での人当たりも良く、行政手腕にも優れていたことから、元就の側近に抜擢され、桂就忠とともに元就の意を奉じて給地を打ち渡すなど奉行人をつとめた。天文十九年(1550)、当主隆元の下に毛利氏全体の運営にあたる五奉行体制が確立すると、その一員に加わった。同二十三年頃、元就の被官衆への打ち渡しを任務する元就奉行人が形成されると、これにも参画した。
 藩政期には、経行後裔は児玉縫殿、維親後裔は児玉遠江、貞行後裔は児玉五左衛門をそれぞれ称して、毛利氏家臣のなかで重きをなした。

●児玉党の家紋─考察



■参考略系図
 
  


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