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三雲氏
●軍配団扇に一文字
●武蔵七党児玉氏後裔  
図柄は「寛政重修諸家譜-家紋」から作成。  


 戦国時代、江南の戦国大名であった佐々木六角氏の宿老の一人として知られる三雲氏は、武蔵七党の一、児玉党の分かれと伝えられている。児玉党は藤原内大臣伊周の子伊行が児玉を称したことに始まるといい、児玉家弘はのちに庄を称し、その子弘方は浅見(阿佐見)氏を称した。その子浅見太郎実高は源頼朝に仕えて奥州征伐に従い勲功を挙げ、建保四年(1216)十二月左兵衛尉に任じた。
 浅見氏は武蔵国児玉庄をはじめ、上野国高山庄、吾妻郡中山村、越後国荏保等の地を領した。その後、実高六代の孫家実は関東より越後国に赴いた。おりしも一揆が起こり、家実は守護に属して一揆討伐に功を挙げたと伝えられる。家実は応永四年(1397)に死去したとあることから、南北朝時代を生きた人物であった。

三雲氏の登場

 家実ののち三雲氏の動向は知れないが、寛政重修諸家譜によれば明応年中(1492〜1501)、新左衛門実乃(さねのり)が甲賀郡下甲賀を領して三雲に住した。そして、地名にちなんではじめて三雲を称した。その子源内左衛門行定は下甲賀ならびに野洲・栗太両郡を領して、三雲に築城してそこに拠ったという。かくして、近江国甲賀郡に土着した三雲氏は、甲賀五十三家の一つに数えられ、その領地の高は実に九万石であったという。
 とはいえ、寛永系図に記された三雲氏の伝承はそのままには受け取れないものである。郷土誌などによれば、三雲城は長享元年(1487)、足利義尚に攻められた六角高頼が、三雲新左衛門典膳実乃に命じて築かせたとある。幕府軍との直接対決を避けて甲賀に逃れた高頼は、本城観音寺城の詰めの城として三雲典膳に城を築かせたのであった。義尚の六角攻めは鈎の陣と呼ばれ、三雲氏ら甲賀五十三家の武士たちは、六角氏に属して鈎の陣を夜襲するなどして散々に幕府軍を悩ました。
 近江国甲賀郡の各地に割拠して甲賀五十三家と呼ばれた武士たちは、勢力をたくわえ地縁、血縁で結ばれ、戦国期には六角氏の麾下に属して活躍した。とくに青木・山中・隠岐・池田・和田、そして三雲の六家は大身で甲賀六家と呼ばれた。また、先述の鈎の陣に殊勲のあった二十一武士は、甲賀二十一家と称され三雲新蔵人がその一に数えられた。
 このように三雲氏は、甲賀武士の一として相応の地歩を築き、典膳実乃のころには六角氏から厚い信頼を受ける存在となっていた。しかし、九万石という所領高は破天荒に多過ぎるものといえよう。典膳実乃の築いた城ははじめ吉永城と呼ばれ、実乃のあとを継いだ行定がさらに整備し三雲城と呼ばれるようになったらしい。行定の名乗りは六角定頼(1495〜1552)の一字を賜ったと推測され、六角氏家中に重きをなしていたことがうかがわれる。

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三雲城址を探訪する

●三雲城遠望 ●三雲城への道標・虎口の石組・あちこちに土塁が確認できる・古井戸の跡、底には落ち葉が。

●城内のあちこちに石組みの名残りがあり、そこかしこに石が散在し、一部には当時の鑿跡が。●八丈岩、三雲城の一角にあり、信仰の対象にもなっているようだ。


 行定のあとは定持で、父同様に六角定頼に仕えて重きをなした。六角定頼は戦国大名六角氏の最盛期を築いたと云われる人物で、 将軍足利家からの信任も深く、晩年には管領に準ずる地位を与えられいた。定持は同じく重臣である蒲生・後藤氏らとともに、定頼の活躍をかげで支えたことは想像に難くない。また、三雲定持は単独で明との貿易を行い、幕府に莫大な寄付をするなど、かなりの経済力を有していたことが知られている。一方、三雲氏は後藤・進藤氏ら六角氏の根本被官とは違って、たとえば蒲生氏のように六角氏とはゆるやかな同盟関係にあったようだ。

三雲行定の出自
……………
三雲氏の系図を見ると実乃に至る代々は「実」の字を名乗りの通字としているが、行定の代より実の字は用いられなくなる。一説によれば、行定は実乃の養子となった人物で、甲斐武田氏の重臣小山田氏の一族であったとも、関東管領上杉氏の一族であったともいう。小山田行定は武田信玄の上洛の先駆として近江に入ったところを捕えられたが、甲州流兵法の達人ということから横田対馬守に預けられた。そして、のちに三雲典膳の女婿に迎えられ、甲州流築城法によって三雲城を整備したのだという。武田信玄との関係はともかくとして、行定なる人物が三雲典膳の養子となったことは信じていいのではないだろうか。【郷土教育資料附三雲村郷土誌】


六角氏宿老の一人となる

 天文二十一年(1552)、六角定頼が死去すると嫡男義賢(承禎)が六角氏の当主となった。このころになると、江北守護であった佐々木京極氏を下剋上で凌駕した浅井氏が勢力を拡大、六角氏との対立姿勢を露にしてきた。永禄年間、長政が浅井氏の当主となると、情勢は次第に六角氏の劣勢へと傾いていった。
 そのようなおりの永禄六年(1563)十月、六角氏を揺るがす事件がおこった。すなわち、承禎から家督を譲られた義弼が重臣後藤但馬守父子三人を謀殺したのである。いわゆる観音寺騒動で、永田・三上・進藤・平井氏らの重臣たちが一斉に義弼から離反した。ことの成りゆきに窮した承禎・義弼父子は、三雲定持・蒲生定秀らを恃んで観音寺城から逃れ去った。騒動は三雲定持、蒲生定秀らの奔走で一応の収拾をみせたが、六角氏は大きく勢力を後退させることになった。
 永禄九年(1567)、六角承禎は佐和山付近において浅井長政と戦った。この合戦において定持の嫡男賢持は戦死し、家督は弟の成持が継いだ。三雲氏の家督を継いだ成持は蒲生賢秀・後藤秀勝・進藤貞治・平井定武・目賀田綱清らと並んで、六角家中「六宿老」の一人と称された。永禄十年(1567)「六角氏式目」が制定されると、成持は父定持とともに式目の遵守を誓う起請文を提出している。このころ、六角氏の立場はすでに家臣に擁立されるに過ぎないものとなっていた。
 翌永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じた尾張の織田信長が上洛の軍を起した。承禎・義弼父子は信長から協力要請を受けたが、浅井長政との対立関係から要請を受け入れることはなかった。信長軍の攻撃を受けた六角父子は、観音寺城を逃れて成持の守る三雲城に奔った。そして、六角氏は執拗に信長に抵抗したが頽勢を挽回するには至らず、元亀元年(1570)、鯰江城落城をもって近江守護六角氏は没落した。このとき、三雲定持は六角氏に従って織田軍と戦い戦死した。六角家臣らが主家から離れていくなかで、三雲氏は最期まで六角氏に忠義を尽したといえよう。

その後の三雲氏

 六角氏の没落と父の戦死ののち、成持は所領と居城を失い浪人の身と なったようだ。やがて、天正十二年(1584)に至って、織田信雄に仕えた。同年、織田信雄と豊臣秀吉とが手切れになると、成持は滝川雄利とともに伊勢国松賀島城に立て籠り、のちまた雄利とともに浜田城を守った。
 これらの功により信雄より近江国の旧領をもとのごとく与えるとの書状を得、家康からも「本領相違なし」との書をもらった。しかし、秀吉と信雄の和議により、その事は成らなかった。 その後、信雄のもとを去り、蒲生氏郷のもとに身を寄せたが、三雲氏の再興はならず慶長八年(1605)十二月に死去した。
 成持の跡を継いだ成長は、文禄二年(1593)、肥前名護屋において徳川家康に召し出された。以後、家康に仕えることになった成長は、大番を勤めて上総国望陀郡に采地五百石を与えられた。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に参加し、その功によって近江国甲賀郡のうちに千石を加増された。大坂冬・夏の陣にも参陣して、元和三年(1617)采地の朱印状を拝領した。ところが、寛永十二年(1635)成長、嫡子成時が相次いで死去したことで三雲氏の嫡流は絶えた。しかし、成時の弟成賢の流れが旗本として残り、三雲の家名を後世に伝えた。
 三雲氏が分かれ出たという武蔵七党児玉氏の代表紋は「軍配団扇」であった。三雲氏も児玉一族らしく、「軍配に一文字」を家紋としている。中世、武士にとって家紋は始祖以来の血脈を示す重要なものであった。家紋を見る限り、三雲氏は児玉氏の後裔であったといえよう。別に、団扇の内笹一文字、丸に九枚笹も用いたという。・2006年11月05日

参考資料:水口町史・甲賀郡誌・寛政重修諸家譜 ほか】

●児玉党の家紋─考察



■参考略系図


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