上野国西部の武士団に児玉党有道氏がいた。その児玉党の分かれで倉賀野を名字の地とした御家人が倉賀野氏であった。建久元年(1190)、源頼朝が上洛したとき、倉賀野三郎が随行していることから、この時点ですでに御家人となっていたことが知られる。三郎は建久六年にも頼朝の上洛を護衛しており、倉賀野三郎がはじめて御家人になった人物であったことは疑いない。 三郎の実名は不詳だが、系図に倉賀野三郎の注があるのは高俊であり、この高俊が倉賀野氏の祖と比定される。南北朝時代、倉賀野頼行が倉賀野城を築き、以後、倉賀野氏は同城を本拠として室町時代、戦国時代を生き抜くことになるのである。 関東の戦乱 室町時代、関東は鎌倉府が支配を委ねられ、足利尊氏の二男基氏の子孫が公方を世襲し、それを上杉氏が管領として補佐する体制が機能していた。ところが、鎌倉公方はややもすれば、京都将軍家と対立姿勢を示し、それが関東戦乱の要因となった。とくに足利持氏が鎌倉公方になると、上杉禅秀の乱が起り、ついで持氏と管領上杉氏の対立から永享十年(1438)に永享の乱が起こった。 永享の乱で持氏が滅亡したあと、上杉氏専制を嫌う関東諸将が持氏の遺児を擁して結城城に立て籠った。この一連の争乱において、長野・小幡氏らが中心となって上州一揆が編成され、山内上杉氏の守護体制を支えた。倉賀野氏も上州一揆に加わり、結城合戦において倉賀野左衛門五郎が上杉氏の指揮下に属して城攻めに参陣している。その後、倉賀野氏は山内上杉氏に仕えたようで、享徳の乱、長享の乱にも参加したと思われるが、具体的な行動は不明である。 公方足利氏、管領上杉氏らによる不毛な合戦は、国人と呼ばれる在地領主の自立を促し、世の中は下剋上が横行する戦国時代へと推移していった。そして、新興勢力伊勢新九郎(北条早雲)が関東に姿をあらわすのである。北条早雲は小田原を拠点とすると、相模を席巻し、ついで武蔵へと勢力を拡大していった。氏綱の代になると扇谷上杉氏の居城であった江戸城、河越城を攻略、着実に武蔵を蚕食していった。さらに、古河公方家の内紛を好機として公方家と姻戚を結び、その勢力は侮れないものとなっていった。 後北条氏の勢力拡大を危惧した関東管領上杉憲政は扇谷上杉朝定と結び、さらに古河公方晴氏とも連合して、天文十四年(1545)、北条綱成が守る河越城を攻撃した。その勢は七万といわれる大軍で、倉賀野三河守行政も上杉氏に従って出陣していた。戦いは大軍を動員した連合軍の優勢に展開したが、天文十五年、北条氏康の巧みな駆け引きによっ生じた油断を突かれて連合軍の一大敗北に終わった。敗戦のなかで、扇谷上杉朝定、三河守行政ら一万三千人の将兵が戦死したと伝えられる。かくして、北条氏康は一躍関東の覇者に躍り出たのである。 乱世に翻弄される 三河守行政が戦死したのちの倉賀野では、金井小源太、福田加賀守、富田伊勢守、須田大隈守、田沼庄衛門ら「倉賀野十六騎」の人々が協力して幼主を助けて倉賀野城を守った。 その一方で天文十五年、倉賀野中務少輔が上杉憲政の奏者をつとめ、同年十月に武田信玄が信濃の村上義清を攻撃したとき、上杉憲政は上野勢二万三千を率いて信濃勢の支援のために出陣したが、その陣中に倉賀野六郎・淡路守兄弟が加わっていた。倉賀野氏にはいくつかの流れがあったことは疑いなく、嫡流以外の倉賀野氏の活躍が知られるが、それぞれの系譜上の関係は明確ではない。 永禄三年(1560)、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東管領上杉憲政の要請を入れて関東に出馬してきた。関東に兵を入れた景虎は参陣してきた関東諸将の陣幕を記録した『関東幕注文』を作成したが、そのなかの箕輪衆の一員として倉賀野左衛門五郎がみえ、幕紋は「団之内ニ松竹」と記されている。 倉賀野左衛門五郎は直行(尚行)で、翌四年春、景虎に従って小田原攻めに参加した。しかし、同年十二月、北条勢・武田勢の巻き返しによって倉賀野城は攻撃にさらされた。直行は橋爪若狭守らに助けられてよく敵を撃退した。永禄六年、南上州を席巻した武田信玄は木部に陣を布いて、ふたたび倉賀野城に迫ったが、これも撃退している。しかし、『城主故城塁記』には、倉賀野十六騎のうちの金井秀景が永禄二年秋に信玄に従ったとあり、倉賀野衆内部に内訌分裂があったことをにおわせている。 永禄八年六月、倉賀野城はついに武田軍の攻撃によって落城、信玄は箕輪城攻撃に向った。上杉謙信はただちに上州方面における作戦を展開したが、翌九年に箕輪城は落城した。その後、倉賀野直行は謙信のもとに走って、倉賀野城奪還を企てたが、ついに回復はならなかった。その後、直行は長左衛門統基と改め直江山城に仕えたという。そして、直江氏断絶後は上杉氏に仕えたようで、江戸時代における米沢藩士の記録である『米府鹿子』に、倉賀野氏の名前が記され「隅立四つ目結」が家紋として記されている。 倉賀野氏の家紋 倉賀野氏の家紋に関する記録は、『関東幕注文』『米府鹿子』のものが知られ、さらに『応仁武鑑』に記された「対い雁」の家紋が知られる。倉賀野氏は児玉党の分かれであることから、「団扇紋」がもっともふさわしいものであるが、時代によって使い分けていたものか、あるいは『応仁武鑑』のものは誤記で、『米府鹿子』のものは近世になって家紋を改めたものと考えられる。
■参考略系図 ・『応仁武鑑』所収の系図を参考にしたが、世代数などに疑問が残るものである。 |