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戦国山城を歩く
山岳寺院と戦国山城が並存する─ 金蔵寺城址訪問記
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山城研究家西尾孝昌氏を会長に但馬地域の中世山城の保存・整備、啓蒙に尽力されている
山名氏城跡保存会主催の「金蔵寺城」見学会に参加して、ひさしぶりに但馬の山城に登ってきた。
集合場所は但東町虫生にある安牟加神社、時間は午前九時半ということで、早めに家を出て但東町へと向かった。
舞鶴若狭道春日インターチェンジより豊岡自動車道に入り、山東インターチェンジを降りて夜久野町の天谷峠を越えて
但東町へと至る道をひた走った。
安牟加神社前に集まった参加者は十二人、事務局の川見さんから資料をもらい会長西尾さんより
金蔵寺城に関する簡単な説明をいただいたのち登り口まで車で移動、山腹の金蔵寺址を目指した。
登城前に西尾会長の挨拶と概要説明
いただいた資料によれば、金蔵寺城は弘仁年間(810〜18)に空海が開基し、盛時は寺領三千石を有して
境内八丁四方に七堂伽藍を具え、僧兵を養う一大山岳寺院であったという。いまも、一帯には「仁王曲がり」
「地蔵坂」「山本坊跡」「吉井池」「庵屋敷」などの地名や「僧都」「極楽」「山内」などの字名が残り、
近在の寺社には金蔵寺に蔵されていたという仏像や仏具が伝来していて往時の繁栄ぶりをいまに物語っている。
金蔵寺の西方山麓を走る街道は岩屋峠を越えて丹後宮津と通じる道で、往時は丹後と但馬を結ぶ主要道の一つとして
人・モノ・カネが往来したようだ。残された記録などによれば、南北朝時代の金蔵寺は南朝方に味方したため
北朝方と攻防を展開、戦国時代のはじめには丹後宮津の雲巖寺との間で抗争が繰り返された記録が残されている。
そのようなこともあって、金蔵寺は自衛の必要上から岩屋峠方面を遠望する寺域北方のピークに山城を築いたようだ。
実際に探訪した金蔵寺址は、標高320〜390mの山中に位置し、城域は東西約400m、南北600mを測る大規模なものである。
そして、西南尾根先、東南尾根先に曲輪・土塁・堀切を設け、詰め城として北方尾根上に山城群が築かれ、
山腹の本堂一帯を取り巻くように城塞化されている。まさに金蔵寺城址と呼ばれるに相応しい一大山岳寺院城だ。
配布資料の縄張図 (会長:西尾孝昌氏作成)
虫生から登りついた西南尾根先に築かれた曲輪は、虫生・中山方面からの登り道を押さえる格好の見張所となっている。
寺院址へ続く登りの尾根筋には堀切、西斜面には竪堀が落とされ、堀状の山道を登っていくと虎口状の地形があらわれ
寺院址の西方を固める広い曲輪があらわれる。曲輪は削平も丁寧で、北側は見事な削り残し土塁で防御されており、
すでに寺院址というより山城の佇まいである。
西曲輪より尾根にそって連郭式に連なる寺院址は削平も丁寧で、切岸も高い、
谷側に設けられた参道が寺院址を結ぶようにして本堂址へと続いている。本堂手前には大岩を重ねた石積、
本堂址の平坦地には崩落した石積が散在し摩耗した逆修供養塔が寂しくたたずんでいる。
さらに東南方に伸びた平坦地には、塔跡の基壇、池址、井戸跡などがよく残っている。
さらに南斜面にも曲輪が連なり、谷筋を利用した大竪堀が落とされている。一方で、
本堂後方斜面から尾根上にも僧坊址であろう平坦地が連なり、尾根に続く竪堀を登ると
尾根筋曲輪が設けられ、東北側斜面にも平坦地が連なっている。圧巻は東南に伸びる尾根筋に連続して築かれた堀切と
土塁群で、東南方面からの攻撃に備えた強い意思が感じられる素晴らしい遺構であった。さらに、
北東部にも僧坊址であったろう削平地が段状に連なり、その西端部の寺院と城址との分岐点は見事な堀切となっている。
城址最南端部の堀切 南西尾根曲輪の削り残した土塁 本堂手前の石積
削平地群の切岸 本堂跡に残る堂址礎石 本堂跡南斜面の竪堀
本堂址後方の山腹には、五輪塔・宝篋印塔・石仏群が集められて祀られている。
かつて金蔵寺址に散在していたであろうものを一か所に集めたものだが、本来、
祀られていたところにそのままにしておくことはできなかったのだろうか?。
かつて篠山市域で中世寺院址にあった墓石群を近くの寺院に移してピラミッド型に積みなおし供養されている光景を見た。
そのときにも思ったことだが、石塔群のひとつひとつにはその場所に立てられた必然性があり、さらには
遺跡の広がりと信仰の場を示す物言わぬ標になっていたものだけにいろいろな意味で残念に思われた。
東斜面の僧坊址、切岸が見事! 東南尾根筋の連続堀切 最南端部の堀切
本堂跡後方尾根に集積された墓塔群 城址への尾根筋に切られた堀切 城址南端部の横堀と畝堀
石仏群後方の尾根を登ると堀切があらわれ、山城部の西南端曲輪へと至る。西方尾根には横堀で結ばれた
畝状竪堀が落とされ、横堀の両端も斜面に伸びる竪堀となっている。
城址は北東に伸びる尾根筋に削平の甘い曲輪群が連なり、その周囲を帯曲輪が捲いている。
主郭部には崩壊した白山神社の社殿残骸が散らばり、現代を生きる人々の信仰心の薄さを
実感させられる寒々とした光景であった。
弁当を使ったあと、西尾会長のガイドで城址を探索する。城址そのものは小ぶりなものだが、
東北方尾根筋には二重堀切、北西側の斜面には畝状竪堀・横矢掛状の出っ張りなどが設けられ、
北方の丹後方面からの攻撃に備えている。それぞれ先進の築城技術であり、詰めの城部分が戦国末期に
改修されたことを示している。記録によれば、金蔵寺は天正年間、織田勢力の攻撃を受けて滅亡したという。
おそらく、そのころに改修されたもので、戦国末期の姿をとどめたものといえそうだ。
主郭に散乱する白山神社址 北東尾根筋の堀切 主郭北西斜面の畝堀
中世、但馬を治めたのは山名氏であったが、戦国時代になると四天王とよばれる重臣勢力が台頭、なかでも
城崎郡を基盤とした垣屋氏は山名氏を凌駕する勢いをみせた。とくに戦国末期、竹野の轟城を本拠とした垣屋豊続は
毛利氏と結んで織田勢力に手ごわく抗戦した。垣屋氏の諸城で特徴的なのが畝状竪堀で、金蔵寺城の畝状竪堀も垣屋の
技術が入ったように見える。西尾会長も金蔵寺城の畝状竪堀は垣屋の技術であろうと解説され、可能性として
逃げ込むための詰めの城であったかもしれないと加えられた。とすれば、垣屋豊続は竹野から山名氏の本拠である
出石一帯、さらに但東町域までを支配下に置いていたことになる。
はたして、垣屋分家の豊続がそれほどの勢力を有していたのか、いささか疑問ありといわざるをえない。
とはいえ、金蔵寺が戦国末期に滅び去ったことは、金蔵寺を庇護していた勢力の滅亡(あるいは没落)を意味しており、
その勢力とは垣屋あるいは山名氏であったことは疑いない。
金蔵寺址の遺跡群は黙して語らないが、但馬中世史に残した足跡は小さくないところといえそうだ、
山岳寺院と山城が一体化したこのような素晴らしい遺構が城郭体系や遺跡調査報告書に漏れ、
これまで地元の「資母村誌」に記されるばかりの知られない存在であったということは驚かされた。
会長西尾氏との雑談のなかで、丹後地方の山城調査において素晴らしい山城を発見されたとのこと。
ということは、未だ発見されていない素晴らしい山城が日本各地には眠っていることであろうと思われ、
戦国山城好きな血がおおいに騒ぐのである。
● 登城 : 2011年06月05日
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