戦国山城を歩く
波多野氏が第一歩を刻んだ城─ 奥谷城址訪問記   


波多野氏の居城といえば、三好氏、明智光秀らを迎え撃った八上城が知られる。 そもそも、波多野氏は応仁の乱に際して石見国出身の吉見清秀が細川勝元に 属して活躍したことで、細川氏の守護領国である丹波多紀郡に所領を与えられたのが丹波と関係をもったはじめで、 いわゆる余所者であった。多紀郡に入部した清秀は篠山市街北東の雲部本庄周辺に館を構え、 波多野氏発展の第一歩を刻んだ。
清秀の子元清(稙通)は、細川政元の謀殺をきっかけに起こった細川氏の内訌を、 たくみに泳いで勢力を拡大していった。そして永正年間(1504〜21)浅路山(高城山)西麓の 八上奥谷に蕪丸(奥谷)城を築き、さらに高城山上に八上城を築いて、 丹波における有力国人領主へへと成長していった。以後、波多野氏は中央政界に威を振るったかと思えば 領地を失うという挫折にも見舞われながら、秀治の代に丹波の戦国大名になりあがった。しかし、 新興勢力の織田信長との対応に失敗して、八上城を舞台とした籠城戦のすえに滅亡してしまった。興って滅ぶまで百年、 まことに呆気ないことだが、奥谷城は丹波の覇者に駆け上がった波多野氏が最初の一歩を踏み出した城址だ。

奥谷城址と八上城址
東仙寺方面から奥谷城址(左)と八上城址を見る

奥谷城址は高城山から伸びる南西尾根の先端の小山にあり、奥谷川を天然の濠とした要害である。 登り口は虎口のある南西麓にあり、城址説明板が格好の目印として立っている。 かつて、南西麓から北西麓にかけて堀があり、その中央部に虎口へと通じる橋があったようだが、 いまは堀も埋め立てられて往時の雰囲気は失われている。 城址に取りつくと虎口で、さらに登ると左手に竹やぶが生い茂った居館曲輪、 右手の山腹には雑木と雑草が生い茂る帯曲輪がある。 山上の曲輪を目指して急斜面を這うようにして登ること数分、正面に山上主郭の切岸と南腰曲輪への分岐へとたどり着く。 腰曲輪は60坪くらいの広さで、雑木の隙間から南方に東仙寺跡、西方に法光寺山城址が見える。

奥谷02 登城口 奥谷03
奥谷城址を遠望   登城口   山上主郭の切岸と南曲輪

腰曲輪から北に伸びた城道を登ると主郭虎口を経て広い主郭に登り立つ。主郭は400坪くらいの広さで、 東斜面に帯曲輪、竪堀などが設けられている。 主郭北側に横堀が切られ、土橋で北曲輪とつながっている。横堀はそのまま竪堀として東西斜面に落とされ、 北曲輪北端は高さ十メートル以上を測る大堀切で穿たれ、北方山上に位置する高城山方面への尾根筋を遮断している。

奥谷04 奥谷05 登城口
主郭への虎口   北曲輪を結ぶ土橋と竪堀   尾根と曲輪を穿つ大堀切

大堀切から西側山腹を捲きながら竪堀を横切り、西側斜面に築かれた曲輪に取り付く。 そこから、竹やぶと化した居館曲輪へと下っていく。いずれの曲輪も北側は斜面を削り残した土塁で防御し、 奥谷入り口方面からの攻撃に備えた縄張りであることが実感される。 奥谷城は館城というべき小さなもので、その立地は谷の奥に偏りすぎているようにみえる。おそらく、 奥谷城は殿町一帯の支配を主体としたもので、のちに勢力を拡大するにつれて多紀郡に睨みを利かす 高城山上に八上城を築いて本城とした。その時点で、奥谷城は八上城と城下町とを結ぶ 番城へと機能変化したものと思われる。
奥谷城は城跡説明版も立てられ、曲輪・竪堀・大堀切など遺構の残存状態は良好であるる。 しかし、曲輪群の探索は生い茂る竹、雑草、雑木には手を焼かされた。加えて、それぞれの曲輪からの視界も ほとんどない。城址としての残存状態がよいだけに、少し手を加えるだけで素晴らしい史跡になると思われるだけに 残念なことであった。

竪堀 奥谷07 東仙寺址の宝篋印塔
竪堀を見上げる   西斜面の居館曲輪に残る北側土塁   東仙寺址の伝波多野氏の宝篋印塔

奥谷城のある殿町一帯は波多野氏の城下町として機能し、谷中央部には波多野氏の平時の居館、 高城山麓側には家臣の屋敷が建ちならび、西方山麓には法光寺などの寺社仏閣が存在していた。 越前朝倉氏の居城址である一乗谷に通じる城下町と城砦がセットになったところであったが、 圃場整備によって波多野氏時代の地形は失われてしまったようだ。
とはいえ、高城山麓側には往時の区画・石垣を利用したと思われる家々が軒を並べ、谷筋の南奥には 波多野氏が庇護したという東仙寺址があり、その一角に波多野氏のものという宝篋印塔も残っている。 また、波多野氏は西方の法光寺山上にも城砦群を築き、東方の八上城、そして奥谷城と、三位一体で 本拠地の防衛を図った。改めて殿町一帯を眺めると、戦国時代の風景が見えるような錯覚におそわれる。

奥谷01
東仙寺方面から殿町を見る(右:奥谷城址、左:法光寺山城址)

ところで、法光寺山を市民憩いの森に開発しようとする動きがあったというが、八上城跡一帯が国指定史跡に なったことで回避されたとのことだ。たしかに法光寺山上の城址をつなぐ山道は快適なものだが、 それは山城遺構があってのものであり、戦国山城ファンにとってはまことに危うい構想であった。
また、一昨年(2007)に 八上城に登ったとき、遊歩道が設けられていた。それはかつて登ったときにはなかったもので、国指定をきっかけに、 古道や縄張りを無視して作られたものと聞いた。城址を完璧に保護しろ!とはいわないが、もう少し、 後世に伝えるべき郷土の歴史遺産として、あるべき姿に保存してほしいと願わずにいられない。


● 登城 : 2009年1月24日・2月24日
  


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