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戦国山城を歩く
かつて水に浮かぶ城だった、三箇城
中世の河内は大和川の氾濫原で、現在からは想像の難しい一大湿原をなしていた。
三箇は深野池の中にあったいくつかの島が水量の加減によって三つに見えることがあったために
三箇の地名が生まれたのだという。その島の一つに築かれたのが三箇城で、城主の伯耆守頼照は、
当時、河内飯盛城を拠点として畿内一円に威勢を振るった三好長慶の被官であった。頼照は洗礼名サンチョ
と名乗るキリシタン信徒で、三箇城はフロイスが書簡の中で「湖」と記したほど広大な深野池に築かれた
水に浮かぶ城であった。
江戸時代、大和川付替工事が行われ、さらに深野池の埋め立てなどによって、
かつての地形はまったく一変した。城址は三箇の菅原神社のあたりに比定されているが、往時を
語るものは何も残っていない。菅原神社北方にある深北緑地に残った深野池に、
かつての水郷風景を想像するばかりである。
・城址近くの深北緑地に僅かに残る深野池
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城址そばの寝屋川 ・ 城址に立つ菅原神社 ・ 神社近くの城址碑と鳥居
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菅原神社本殿 ・ 僅かに残った深野池に往時の水郷風景が… ・ 深野池から飯盛山を見る
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三箇氏
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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