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三箇氏
源氏車
(伝秀郷流佐藤忠信後裔)
・秀郷流佐藤氏の紋を仮に掲載。三箇氏が用いた家紋をご存知の方、ご教示ください。


 戦国時代の歴史を知る一級史料の一つに、宣教師ルイス・フロイスの残した『日本史』がある。 そのなかに、「飯盛城で七十三人の武士が集団で洗礼を受けた」と記されている。その一人が、 河内三箇城主の三箇伯耆守頼照(洗礼名サンチョ)であった。 飯盛山城址 三箇氏は、当時、河内飯盛城を拠点として畿内一円に威勢を振るった三好長慶の被官で、 三箇城は飯盛城の西方を固める支城の一つであった。
 中世の河内は大和川の氾濫原で、現代からは想像の難しい一大湿原をなしていた。三箇は深野池の中にあった いくつかの島が、水量の加減によって三つに見えることから起こった地名だという。 そして、平安時代後期には、河内国讃良郡三箇庄として三箇、灰塚、氷野の集落が成立していた。 飯盛山西麓の北条は、かつての条里制の名残を伝えた地名である。また、平安時代の女流歌人清少納言が 『ないりそ(勿入)の淵』と記したところは、深野池の出口が絞られて新開池へ注ぐ地点だったところといい、 淵跡の碑が建立されている。三箇は京と河内国府を結ぶ官道が通り、河内でも古くから開けたところであった。
 官道は東高野街道とも呼ばれ一帯は戦略上重要な場所であったことから、南北朝時代には 四条畷の合戦が行われ、戦国時代には飯盛城を舞台に数多の戦いが繰り広げられた。また、摂河泉と大和を繋ぐ 水上交通の要衝でもあったため、要地を押える三箇氏は三箇城主として重要な存在であったことがうかがわれる。 三箇城はフロイスが書簡の中で「湖」と記したほど広大な深野池に築かれた城で、池を天然の惣濠とした要害であった。
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写真:深野池越しにら飯盛山城を見る

その出自を探る

 備後福山藩主阿部氏に仕えた『三箇氏系図』によれば、三箇氏は藤原氏秀郷流で、源義経に仕え四天王の一人である 佐藤四郎兵衛尉忠信の後裔となっている。忠信は奥州藤原秀衡の家臣で、兄の三郎兵衛継信とともに義経に付けられて 平泉から出陣した。二人の活躍は『吾妻鏡』や『源平盛衰記』に詳しいが、継信は屋島の合戦で討死、忠信は義経の 身代わりとなって京で討死したと伝えられている。佐藤氏の菩提寺である医王寺の石塔には忠信の享年三十四歳とあり (源平盛衰記では二十六歳)、子の義信は吉野に近い大和国宇智郡今井庄小山の地に住したという。
 義信の孫信之は小山城主井上氏の反乱の討伐戦に参加、その功によって宇智郡内に所領を与えられ、子頼之は大和に 立ち寄った前執権北条時頼から一字を賜った。そして、次ぎの包頼が河内国讃良郡三箇村に移住し、佐藤から三箇に 改めたのだという。やがて、南北朝時代を迎えると、後醍醐天皇に味方した頼繁は大和国十市郡にも所領を与えられ、 宇野、秋山氏らと姻戚関係を結ぶなどして勢力を広げていったらしい。
 一方、『姓氏家系大辞典』には、三箇氏は清和源氏宇野氏族で「サカ」と称し、宇智郡の豪族であったと 記されている。実際、大和の中世における宇智郡の国人領主で、今井庄三箇城主三箇氏がいた。応仁の乱の一因 ともなった畠山氏の内訌がつづいたとき、宇智郡の武士たちは政長派と義就派に分かれて戦った。 三箇氏は宇野・坂合部・野原・大岡氏らとともに政長に味方し、二見・嶋野・栄山氏らは義就に味方して両派の争いが 続けられた。
 弘治三年(1557)、大和国宇知郡の国人一揆が分郡守護畠山氏の被官平氏に宛てた申し入れ状には、国人一揆の 一人として三箇治部左衛門尉頼盛が二見氏、宇野氏らとともに署名、花押を書いている。宇智郡は河内守護である 畠山氏が分郡守護であったことから、三箇氏らは一揆で取り決めたことを郡代平氏に申し入れ、心得させているので ある。かつて対立した宇智郡の国人たちは、十六世紀のなかば大同団結して一揆を結び、みずからの生活と権益を乱世から 守ろうとしたのであろう。
 三箇氏の子孫はいまも五條市に続き、大和武士の数少ない中世文書を伝えている。それによれば、畠山政長は誉田城の 戦いにおいて戦死した三箇与五郎の忠節への感状を与え、さらに、与五郎の跡を春熊に安堵している。三箇氏は 畠山政長に属して、懸命の働きをなしていたのであった。また、さきの春熊への所領安堵に際して、野原弥五郎宛にも文書が発給されているが「舎弟春熊丸為」とあることから三箇氏と野原氏とが親戚関係にあったことが知られる。
 三箇氏系図は江戸時代後期に作成されたもので、その内容を鵜呑みにすることはできない。 河内三箇氏は、フロイスの『日本史』に頼照が登場する永禄年間(1558〜69)以前のことは不詳というしかないようだ。 おそらく、河内守護畠山氏の被官となった大和宇智郡の三箇氏の一族が、 畠山氏との関係から河内に移住したのではなかろうか。清和源氏宇野氏は頼親流で、 代々の三箇氏の名乗りに「頼」の字が用いられていることも宇野氏の後裔を思わせるものがある。 また、頼照の娘は平盛長、坂合部延宗に嫁いだとあるが、いずれも宇智郡に関わる武士と思われ、 三箇氏には大和との関係をにおわせることが多い。

敬虔なキリシタン、三箇氏

 さて、三好長慶に仕えた頼照は、永禄六年(1563)、飯盛山城で日本人修道士ロレンソの説教に接して改宗を決意し、 翌年、宣教師ガスパル・ヴィレラを招いて受洗した。一族や家臣の多くも共に改宗し、妻もルシアという洗礼名を持つ キリシタンとなった。頼照は熱心な信徒となり、宣教師の生活にも保護を与えた。
 日本に初めて西洋医学を持ち込んだといわれるルイス・デ・アルメイダは「予が日本で見た最も信仰厚きキリシタンに 属す」と評し、 フロイスは「イエズス会士に対して真の父の如き庇護を与えた人」と評すなど、それぞれ頼照を高く評価している。 アルメイダはのちに大和の沢・十市を訪れ、同地では一時的にキリスト教が栄えた。その背景には三箇氏と 大和との関係があり、アルメイダの布教をカゲから支えたのではなかろうか。
 また、永禄十一年にはロレンソやフランシスコ・カブラルらの前でキリスト教と日本人の宗教観に関する演説を行い、 これに感銘を受けたカブラルは演説の内容を当時ポルトガル領であったインドのゴアに送って 日本人の聡明さについて喧伝している。カブラルはのちにゴアでインド管区長を務めた人物で、 頼照が相当に明晰な人物であったことがうかがわれる。 このように頼照は西洋の文物目当ての俄キリシタンではなく、敬虔な信仰心を持ったキリシタン武将であった。しかし、 その信仰心が行き過ぎた結果、領内の寺院をことごことく破壊するという行為も行っている。
 永禄七年、三好長慶が病死したのちは三好義継に属した。永禄十一年、足利義昭を奉じた織田信長が尾張から上洛 してくると、義継は信長に降り北河内を安堵され若江城に拠った。ところが、のちに三好三人衆と結んで信長と対立、 天正元年(1573)、信長の攻撃を受けた若江城は落ち義継は自害した。ここに 三好氏が滅亡すると、頼照は織田信長に属して所領を安堵され、佐久間信盛の指揮下に入った。
 頼照は摂津・河内の本願寺勢力と戦う先兵の任を担いながら、キリシタンを保護して領内に千五百人のキリシタンを 擁した。そして、高槻城の高山右近、若江城の池田丹後守、岡山城の結城ジョアンらと並んで城下を近畿キリシタンの 一大拠点とし、頼照が築いた教会は「五畿内で最も大にして美麗」と称えられた。教会はJR住道駅前に建っていたようで、 教会付近を角堂と呼んでいたことから住道の地名が起こったといわれる。


城址碑 深野池
写真:三箇菅原神社の城址碑 ・ 僅かに残る深野池がかつての風景を思わせる
→ 三箇界隈を歩く


乱世を生きる

 天正五年(1577)、信長と本願寺との戦いが激化、本願寺の一揆勢が船に分乗して大和川を逆登り三箇城に 押し寄せることもあったが、よく城を保った。一方、先述のように信仰心から領内の社寺を全て 破壊するという行為があり、これを見たキリシタン嫌いの河内国人の一人多羅尾常陸介は頼照が毛利氏に通じていると信長に讒訴した。 近江永原に幽閉され窮地に陥った頼照は、息子頼連の弁明と信盛の執り成しによって疑いを晴らすことができたのち、 家督を頼連に譲ると信仰に没頭したという。
 家督を継いだ頼連もマンショの洗礼名を持ち、フロイスによれば「非常に器用で、甚だしく武技を好んだ」とあり、 さきの父頼照への弁明といい、父に劣らぬひとかどの人物であったようだ。
 天正八年(1580)、織田信長と本願寺との間に講和が成立、本願寺は大坂石山から退いていった。 以後、領内はしばしの平穏を迎え、頼連は信仰と治世に過ごし三箇氏は最盛期を迎えた。ところが天正十年六月、 明智光秀の謀反によって織田信長が京都本能寺で戦死した。頼連は明智光秀に加担したため、光秀が山崎の合戦で 羽柴秀吉に敗れると、三箇城は秀吉方の諸将に攻撃され一族とともに大和の筒井順慶のもとに逃れた。 三箇氏は筒井氏との間にはかねてより交流があったようで、ここにも、三箇氏が大和と浅からぬ関係を持っていたことがうかがわれる。
 頼連の敗亡によって、城は落ち、教会は焼き払われ、保護者を失ったキリシタン領民も四散し、三箇は廃墟と化したという。イエズス会年報には、三箇一帯が「収穫後のブドウ園のごとく、一房の実も残らず」という状態であったことが記録されている。足場固めに忙しい秀吉は大和に奔った頼連を深く追求することもなく、筒井定次に仕えることを黙許したようだ。以後、頼連は振るわず、文禄の役に従軍したのち浪人、同じキリシタンである小西行長に仕えて上津浦に所領を与えられたが、関ヶ原の敗戦で小西家も滅亡してしまった。
 その後の頼連の行動は知れないが、一説に武士を捨てて三箇に隠棲したとも伝えられる。頼連ののちの三箇氏はキリスト教を改宗し、孫の重武・重則らは備後福山藩主水野氏に仕えた。水野氏も元禄十一年(1698)、嗣子なくして改易、浪人となった三箇氏は大坂に移住したといわれている。

その後のこと

 頼連の甥頼稙は河内三箇出身の「三箇アントニオ」という人物と同一人思われ、安土セミナリヨに入学し、さらに 遠く有馬セミナリヨに移った。キリシタン禁教令が発せられたあとも信仰を捨てず、江戸幕府が禁教令を発布した後も 修道士として布教に励んだという。棄教すれば助命すると幕吏に持ちかけられたが拒絶し、元和八年(1622)、長崎の 立山において妻マグダレナや他の信者55名とともに殉教を遂げた。三箇マティアスは頼稙の弟頼成といわれ、 敬虔なキリシタンとして行動したが、慶長十九年(1614)、高山右近らとともに国外追放となりマニラで没した。
 一方、江戸時代の宝永元年(1704)に大和川付替工事が行われ、さらに深野池の埋め立てなどによって、かつての 地形はまったく一変した。戦国時代、フロイスの報告によって遠くヨーロッパにまでその名を知られた三箇城と周辺の 水景は失われ、三箇氏の遺跡もまったく消え失せてしまった。余談ながら、大和の国人領主であった三箇氏の子孫は、 江戸時代には郷士級の家として続き一族から旗本能勢氏の家臣となった者もいたと伝えられている 。・2010年01月28日

【主な参考資料:wolfpacさまのサイト・大和武士・大東市史・五條市史 など】


■参考略系図
wolfpacさま のサイトのうち、河内三箇城跡に掲載されていました系図から作成させていただきました。

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