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神保氏
●竪二つ引両
●惟宗姓か?
『見聞諸家紋』には、輪のない二つ引両が「宗家 神保」と注されて記載されている。
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神保氏は、上野国多胡郡辛科郷神保邑を名字の地とするという。その出自に関しては諸説があり、惟宗氏・平氏・橘氏の三つが流布されている。ちなみに、越中神保氏の仮名をみると、宗三郎・惣(宗)左衛門・総二郎などを名乗っていること。さらに、戦国時代の長誠・長職ら神保氏惣領が宗(惣)右衛門を称していることから、神保氏は惟宗姓を意識していたことがうかがえる。いずれにしろ、いつのころか鎌倉に出た神保氏は畠山氏に仕え、畠山氏が越中守護になると、これに従って越中に入国したものと考えられる。
神保氏が畠山氏と関係をもった始めは明らかでないが、明徳三年(1392)八月二十八日の相国寺供養に臨む将軍義満に供奉した守護級武士とその随兵を記した『相国寺供養記』によると、畠山満家の郎党三十騎の中に宗三郎国久・肥前守氏久・四郎右衛門尉国氏の三人の神保氏が記載されており、この頃までに畠山氏近臣の地位を得ていたものと思われる。とはいえ、神保氏が越中へ入部したのがいつごろかは明らかではない。
越中における神保氏の初見は、嘉吉三年(1443)十二月、守護畠山持国奉行人が越中宮河荘を徳大寺雑掌に渡し、年貢は上杉治部少輔に沙汰させるよう神保備中守に命じたものである。備中守は国宗で、守護代であった。国宗は宗三郎国久の子あるいは孫にあたる人物で、越中神保氏の惣領であったとみられる。
他方、『新撰菟玖波集』に作品を採りあげられた神保氏弘が知られる。『新撰菟玖波集作者部類』には「畠山内神保能登守惟宗氏弘」とあり、惟宗姓を名乗っていったことが知られる。氏弘は、文明十八年(1486)ごろ、御料所阿努庄の代官職を請負っており、残された史料などから四郎右衛門尉と称していたとみられる。そして、その名乗りからみて『相国寺供養記』に記載された四郎右衛門尉国氏の系統と推測される。
越中守護代となる
越中守護は南北朝期に頻々と交替したが、康暦二年(1380)には畠山基国が任じられ、以後、その子孫が世襲した。基国は越中とともに河内・紀伊・能登の守護も兼ね、一括して畠山惣領家が相続した。守護畠山氏は在京していたため、畠山氏に代わり遊佐・神保・椎名の三氏が守護代として政治に関わっていた。はじめは、遊佐氏が一国守護代として政治に関与していたが、遊佐氏も在京しており現地には又守護代が置かれていた。
嘉吉元年(1441)に始まった持国と持永の畠山家の家督争いは、同年七月の「嘉吉の変」により将軍義教=持永に加担した遊佐氏の没落を招き、代わって神保氏の台頭を招いた。先述のように神保氏の越中入国時は不明だが、守護代としての初見は国宗である。神保氏は射水・婦負両郡の守護代を兼ね、守護とともに在京し、紀伊などの支配にも関わっていたことが知られている。このころ、椎名氏も守護代に任ぜられたものと考えられている。こうして、砺波郡を遊佐氏、新川郡を椎名氏、射水・婦負の二郡を神保氏に支配させるという三守護代方式で、遊佐・椎名・神保氏はそれぞれ実権を握っていった。
持国と持永による家督争いは、嘉吉の変で将軍義教が殺害されたのちに持国が上洛し、一方の持永は失脚して京都から逃れ、持国が畠山家の家督と守護職を継承した。没落した持永は越中に逃れようとしたが、越中の国人らに入国を拒否され越中で討たれた。かくして、畠山惣領家の家督争いは結着をみたが、持国には実子がなく、文安五年(1448)弟持富の子弥三郎を養子にした。ところが、その後に実子義就が誕生し持国は義就に家督を譲ろうとした。
これに対して、享徳三年(1454)畠山氏の有力被官である遊佐・神保氏らは義就から離れ弥三郎を擁立しようとしたため、弥三郎と義就とは畠山惣領家の家督をめぐって争い弥三郎方が敗北した。その結果、弥三郎擁立に加担した神保一族の多くが殺害された。弥三郎は逃れて細川勝元にかくまわれ、その支援を受けて反撃に出た。敗れた義就は没落し弥三郎が家督を相続したが、間もなく形成は逆転、義就が上洛してくると代わって弥三郎が没落することになった。かくして、畠山惣領家の家督は義就が継承した。
幕府は義就に弥三郎追討を命じ、この動きは越中にも波及した。その結果、神保氏の拠点であった越中放生津城は落城して、神保備中守国宗は没落した。国宗の没落以後、越中は混乱が続き神保一族も没落していった。
応仁の大乱
長禄三年(1460)畠山弥三郎が赦されると、国宗の子と思われる長誠が登場し弥三郎を推戴するが、間もなく弥三郎は病死。代わって弟政長が擁立されて畠山氏の家督を継いだことで畠山氏の家督争いは解決したかに見えたが、今度は政長と義就との間に抗争が繰り返されるようになる。この両者の戦いが、やがて「応仁の大乱」を引き起こすことになるのである。
すなわち、応仁元年(1467)、神保長誠の策を入れた政長は上御霊社に布陣した。しかし、頼みの細川勝元は動けず、山名宗全(持豊)らの援助を受けた義就の攻撃に敗れ京都を落ちた。その後、細川勝元と山名宗全との間に合戦がはじまり、越中勢は紀伊・河内勢とならんで畠山政長に動員され東軍として西軍と戦った。これが「応仁の乱」の始まりであり、以後、一世紀にわたって日本は戦国時代が続くことになる。応仁の乱は越中にも影響を及ぼし、文明四年(1472)、神保氏は違乱を奏聞され、畠山政長から打渡状が沙汰されている。
明応二年(1493)、政長は将軍足利義材を伴って畠山義就の子基家を討とうと河内正覚寺に陣取ったが、細川政元のクーデターに遇い目的を遂げぬまま自害してしまった。このときの合戦で多くの越中国人が討死したが、長誠はこのとき病身の状態であったため出陣していなかった。足利義材は政元に幽閉されたが、長誠の働きで救出され放生津に匿われた。このため、放生津には義材に供奉する奉行人や奉公衆、さらに公家たちが参集し、さながら小幕府のような様相を呈して日本中の耳目を集めた。こうした放生津に対し政元・基家方は二度にわたって攻撃をかけたが、ともに失敗している。一方、敵の侵入を防ぎつつ義材・長誠らは上洛軍の編成に画策し、子の慶宗は義材軍に付き従った。
そして、文明七年(1498)義材は放生津をたち翌年入洛を試みたが、近江坂本で六角氏に阻まれ周防の大内氏を頼った。文亀元年(1501)、長誠は義材の将軍復帰を見ることもなく、波乱に富んだ生涯を閉じた。それから十年後の永正八年(1511)、義材は周防の大内氏に擁立されて将軍職に返り咲いた。
神保氏の没落
この間、越中では細川政元の画策によって大規模な一向一揆が起こり、一時は一揆方の支配するところとなった。越中を追われた国人たちは越後守護代長尾能景を頼ったため、永正三年(1506)、能景は越中に侵攻したが神保慶宗はこれに協力しなかった。そのため、芹谷野の戦いにおいて一揆軍に包囲された能景はあえない最期を遂げてしまった。これによって、越後長尾氏は神保氏を旧敵視するようになる。
能景のあとを継いだ長尾為景は、永正四年、越後守護上杉房能をクーデタで倒し、国内の対抗勢力を制圧して実権を掌握すると畠山氏の要請をいれて永正十二年(1515)から二十年にわたって軍勢を越中に進めた。迎え討つ越中国人側は、慶宗をはじめ椎名慶胤・遊佐弥九郎・土肥氏らであった。永正十六年、長尾為景・畠山義総らの越後・能登連合軍が越中に侵入した。
為景は境川で慶宗軍を破ると真見・富山に陣を張り、二上山麓まで進軍した。為景と慶宗との戦いは五十日にわたって続き、慶宗は二上山に追い込まれたようだ。そして、いよいよ陥落というとき、能登口に不慮が出来し為景軍はやむなく兵を引いて越後に帰国した。この間、慶宗の意気は盛んだったようで、為景の攻撃を受けながらも放生津報土寺の再建に努めようとしていたことが『遊行二十四祖御修業記』から知られる。
翌十七年も越後勢の越中侵攻が繰り返され、為景は畠山尚順・畠山義総らに越中進攻を求めたため、尚順指揮下の神保慶明・遊佐慶親らが為景軍との連合を命じられている。慶宗はこの包囲網に観念したのか、畠山尚順への帰参を願い出たが、為景は慶宗の帰参を拒否し武力討伐を主張している。そして、越中に攻め入り椎名の一類を破った。
これに対して、慶宗は神通川を越えて太田荘に陣取り、新庄城に陣取る為景勢と対峙し、十二月、慶宗は新庄城に総攻撃をかけた。戦闘は朝から夕まで続き、双方とも被害は大きかった。やがて、戦いは慶宗側に不利に傾き、奮戦したものの神保慶宗は惨敗を喫した。慶宗は神通川や湿原を敗走したが、ついにあきらめ射水郡域で自害して果てた。ここに神保氏の勢力は大きく後退し、慶宗戦死後の大永・享禄期、越中国内における神保氏の活動は史料上から見えなくなる。
復活と長職の活躍
さて、慶宗を打ち破った長尾為景は天文五年(1536)守護代職を嫡子晴景に譲り、同年十二月に没している。その後、晴景と弟の景虎との間で抗争があったが、越後守護上杉定実の斡旋によって、天文十七年十二月、景虎が兄の跡を継ぐというかたちで長尾氏の家督を継承した。この長尾景虎こそ、のちの上杉謙信にほかならない。
長尾為景と戦って戦死した神保慶宗には実子がいた。その名前が明確になるのは、天文十四年(1545)、玉永院宝寿に宛てた制札に見える神保長職である。長職は、神保氏の冬の時代を払拭し、以前にもまして勢力を広げ、椎名氏の支配領域にまで進出した。富山城の築城も長職によるものと考えられ、椎名氏と越中を二分して確執を繰り返した。神保長職が戦った椎名氏は、畠山尚順によって新川郡守護代に補任された長尾氏の代官であり、椎名氏との戦いは同時に長尾氏との戦いとなった。
永禄三年(1560)春、景虎は越中に進攻した。これは神保・椎名が互いに相争い、「椎名滅亡に至るかもしれず、しかも甲府へ申し合わせている」ことへの対処であった。景虎の出馬に対して、神保長職は居城富山城を抜け増山城に移ったが、景虎の攻勢に長職は落居し行方知れずという状況になった。長尾景虎は神保氏を破り、椎名氏を安泰にして帰国した。しかし、景虎に敗れたものの長職のダメージは少なかったようで、間もなく、極楽寺に禁制を下すなどの活動をみせている。
その後、関東管領となり上杉氏から名跡を譲られ上杉輝虎と改めた景虎は、永禄五年七月越中に進攻し、神保長職と長職に与する国人らと戦いこれを打ち破った。上杉と神保の戦いは十月上旬まで続き、長職は能登守護の畠山義綱を頼り上杉方との和が成立したようだ。
上杉謙信の越中進攻は椎名氏支援のためであったが、椎名氏は永禄十一年上杉と手を切って、武田・一向一揆と結びついたのである。反上杉の動きを示した椎名氏に対して、神保氏は反一揆の動きを示し、砺波郡西条を攻撃した。とはいえ、神保長職の一向一揆に対する立場はその後も必ずしも確定しなかった。すなわち、元亀二年(1571)、長職は上杉謙信に越中出馬を要請しながら、一向宗瑞泉寺の依頼をいれて聞名寺に不入を申し付けるなど、一揆勢力との接近を図っているのである。さらに、翌三年には、武田信玄が神保・椎名が和睦して越後に乱入せんことを、一向宗勝興寺の調略を望んでいることが『勝興寺文書』から知られる。
・写真:神保長職が築き、佐々成政によって改修された富山城
神保氏の分裂と没落
永禄十一年(1568)、謙信は越中に出陣した。この出馬はさきに七尾城を追われた畠山義綱を支援し、義綱を帰国させようとしたものであった。しかし、このころ神保氏家中では、上杉氏との関係をめぐって意見が分かれ、小嶋氏を筆頭とする上杉方と寺嶋氏らの反上杉方に分裂してしまった。神保父子も同様で、長職は上杉方に、子の長住は反上杉方に立った。やがて、長職が没すると家臣団の多くは上杉家中に組み込まれた。長住は流浪の身となり、その後織田信長に仕え、上杉謙信没後の天正六年(1578)に越中に派遣された。
越中の土肥政繁・斎藤信利・神保氏張・寺崎盛永らは、越後の支配から脱するため長住のもとに集まりはじめ、
同年五月に長住は二宮左衛門大夫に知行安堵状を発したりしている。しかし、越後の河田長親の勢力は強大で、
天正八年、信長は佐々成政を加勢として越中に差し向けた。ところが天正十年(1582)、長住は上杉方の小嶋氏や
唐人氏に富山城を奪われ、その身を幽閉されたため織田家中より放たれて国外に追われた。以後、長住が越中に
還住することはなく、神保氏の消息もようとして知れない。
・2004年11月22日
【参考資料:富山県史/日本の名族=神保氏の項/富山大百科事典 ほか】
●ダイジェスト神保氏
■参考略系図
・神保氏の系図は多様なものが伝わっている。それぞれ一族ではあろうが、その関係は不詳。
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