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山名氏
二つ引両
(清和源氏新田氏流)


 山名氏は武家の名門清和源氏の一支流で、新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を称したことに始まる。鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてこない。
 山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱であった。ときの当主政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようだ。建武の新政が発足したのち新田義貞が上洛すると、時氏ら山名一族も一緒に京に上ったが、足利尊氏が新政に叛旗を翻すと政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方するようになった。以後、山名氏は尊氏に属して行動、尊氏の九州落ちにも同行して信頼をかち取っていった。そして、氏が上洛の軍を起こすと、時氏は尊氏軍の一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍した。

山名氏の興亡

 尊氏が京都を制圧すると後醍醐天皇は吉野に奔って南朝をひらかれ、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開いた。時代は南北朝の対立へと推移したのである。建武四年(1337)、時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いた。かくして、時氏は山名氏発展の礎を切り拓いたのであった。
 時氏は伯耆の南朝勢力を駆逐し、出雲・因幡にも進出するなどして、山陰地方に隠然たる勢力を築き上げた。そして、出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任され、貞和二年(1345)には侍所の頭人(所司)に任じられ、幕府重臣へと成り上がった。観応元年(1350)、尊氏と直義の対立から観応の擾乱が起こるとはじめは尊氏に味方していたが、のちに直義派に転じ勢力の保持につとめた。その後、直義が謀殺されると、時氏ら山名氏一族は南朝方と通じ、さらに直義の養子直冬を擁して幕府と対立を続けた。
 やがて、直冬が勢力を失うと幕府に帰順したが、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するという強気な姿勢であった。このような時氏に対して不満の声が高かったと伝えられるが、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったといえよう。時氏には嫡男の師義を頭に多くの男子があり、応安三年(1370)、時氏が死去すると師義が惣領となって但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分かった。師義が早世すると弟の時義が惣領となり、但馬・隠岐・伯耆・備後の守護職に任じ、次兄義理は紀伊・美作守護職、四兄氏清は丹波・山城・和泉三ケ国の守護職、師義の実子で甥の満幸が丹後・出雲守護職、同じく甥の氏家が因幡守護職に任じられ、一族で守護領国は十二ヶ国を数えた。それは、室町時代の日本全国六十八州のうち六分の一にあたり、山名氏は「六分一殿」とか「六分一家衆」と呼ばれる大勢力になった。
 ところが、このように一族が分立したことが山名氏内訌の要因となったのである。康応元年(1389)、惣領の時義が四十四歳の壮年で死去した。時義のあとは嫡男の時熙が継いだが、それに不満を持つ氏清との間で対立が生じた。これをみたときの将軍足利義満は、強大化した山名氏排斥の好機として内訌を煽ったのである。そして、山名氏は同士討ちを演じ、時熙らは敗れて没落、代わって但馬守護職には氏清が、伯耆・隠岐守護職には満幸が任じられて内訌は克服されたかに思われた。ところが、義満が追放した時熙らを復帰させたことで、将軍に不信を抱いた氏清らは南朝方に通じて挙兵、京に攻め込んだ。いわゆる明徳の乱であり、この乱により氏清は戦死、満幸は敗走して没落した。乱後、時熙に但馬国、氏幸(之)に伯耆国、氏家に因幡国の守護職がそれぞれ安堵された。山名氏は将軍義満の謀略にまんまとのせられて大きく勢力を後退し、但馬・伯耆・因幡三国の守護職を保つばかりとなった。

応仁の乱、時代は戦国へ

 さて、因幡山名氏は時氏がはじめて伯耆守護職に任じられてのち、氏冬、氏重、そして氏家へと守護職は山名一族に相伝された。氏家のあと煕貴(高)が守護職を継承、因幡山名氏の守護領国体制は順調に進むかと思われた。ところが嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱に際して、将軍とともに赤松邸を訪問していた煕貴が討死してしまった。思いがけない煕貴の死後、宗家但馬山名持豊(宗全)の子勝豊が養子となって家督を継いだことで、因幡山名氏は但馬山名氏の影響下におかれるようになった。とはいうものの、勝豊が因幡守護に補任された形跡はなく、煕貴のあとにあらわれる因幡守護は煕幸で、煕幸のつぎは伯耆山名氏から入った豊氏が守護職を継いでいる。このように、通説として語られる煕貴・勝豊の位置づけはもとより、因幡山名氏の世系は混乱をきたしているように見える。
山名宗全の邸址  将軍義教暗殺事件は、将軍権力を失墜させ、幕府体制を大きく動揺させた。この嘉吉の乱でもっとも活躍したのは 山名持豊で、赤松満祐滅亡後、持豊は赤松氏が有していた播磨・備前・美作の守護職に任じられ、 山名氏の勢力は大きく回復された。そして、通説によれば文正元年(1466)、因幡山名氏は時氏のころからの 本拠であった巨濃郡二上山城から、・・郡布施の天神山に新たな城を築いて本拠とした。当時、管領畠山氏、 斯波氏の家督をめぐる内訌、将軍継嗣問題などで幕府は動揺のなかにあり、管領細川政元と幕府重鎮の山名宗全とが 対立関係に陥っていた。そして、応仁元年(1467)、畠山義就と同政長の衝突で応仁の乱が起こった。
 乱に際して山名勝豊は波多野・矢部・山口ら因幡の兵を率い、伯耆の山名教之は小鴨・南条・進ら伯耆衆と和智・山内・宮ら備後の兵を率いて上洛、東軍細川方の兵と激戦を展開した。応仁の乱は京の町を焦土とかして、文明九年(1477)、一応の収束となった。山名氏は乱のはじめのころに、播磨・美作・備前の守護職を赤松政則に奪い返されていた。また、応仁の乱さなかに宗全が死去して、嫡孫の教豊が家督となるなど時代は大きく動いていた。
 乱は終わったものの戦乱の余波は全国に及び、世の中は下剋上が横行する戦国時代へと推移していた。文明十一年、因幡では国人毛利氏が反乱を起こした。京にいた守護豊時はただちに下向して毛利氏の追討にあたったが、守護方は散々な敗北を喫するという情勢となった。この事態に対して但馬山名政豊は重臣の垣屋氏らを豊数の援軍に送り、翌年の春ごろに毛利方は鎮圧されたが在地の国人領主の自立化の動きはいよいよ活発化し、守護領国体制は大きく揺らぎ続けるのである。
・写真 : 西陣の名の起こりとなった山名宗全の邸址


因幡の擾乱

 応仁の乱で播磨・備前・美作三国の守護職をえた赤松政則は、宿敵山名氏の後方撹乱を目論んで、因幡・伯耆の有力国衆を抱き込んで山名氏への反乱を起させたのであった。乱を鎮圧した政豊は播磨の奪還を目指して出兵の準備を進め、文明十五年、播磨に兵を進めた。政豊の嫡男で備後守護の俊豊も備前へ進攻して赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。但馬と播磨の国境真弓峠で赤松軍を破った政豊は、敗走する赤松軍を追って播磨に雪崩れ込んだ。かくして山名氏は播磨・備前を支配下においたが、赤松氏の抵抗は頑強で、文明十八年、劣勢に追い込まれた政豊は但馬に撤退した。
 政豊の播磨侵攻の失敗は国人領主らの反発をかい、さらに嫡男俊豊との対立を生じ、但馬は政豊派と俊豊派の間で抗争が繰り返されるようになった。但馬の混乱をみた因幡の毛利氏は、延徳元年(1489)、因幡守護に登用された山名孫次郎政実を擁してふたたび兵を挙げた。対する豊時は徳丸河原の合戦に勝利すると毛利氏の本拠私部城を攻略、若桜鬼ヶ城に逃げ込んだ政実を自害に追い込んだ。一方の但馬の内訌は俊豊方の優勢に進んだが、明応二年(1493)、細川政元のクーデタで将軍足利義材が失脚したことで事態は急変した。義材とともに河内に出陣していた俊豊は但馬に帰国したが、垣屋・太田垣氏らは政豊方に転じていて九日市城の戦いに敗れると備後へと落ちていった。
 明応の政変は因幡山名氏も影響を及ぼした。すなわち、豊時は新将軍に擁立された義澄の陣営に加わり、 嫡男豊重は前将軍義材陣営にとどまったため対立関係となったのである。その結果、豊時は二男の豊頼を後継者に 目するようになり、豊時の死後、豊重と豊頼の対立を引き起こした。ともあれ、豊時のあとは豊重がついで 守護職に任じて但馬山名氏と協調路線を保ったが、但馬山名氏が致豊から誠豊へ家督が移ると、 誠豊は豊重を排斥して弟豊頼を因幡守護に立てようとした。そして、永正九年(1512)、豊重は布施天神山城を襲撃されて討死、豊頼が家督を継いで守護となった。
 強引ともいうべき豊頼の家督継承に対して、豊重派は布施天神山城への攻撃を繰り返した。永正十年には豊重の子豊治が反抗を企て、ついに同十二年、豊治が因幡守護職に任じられたのである。豊治は将軍職に復帰した義稙(義材)に通じて権力強化を図ったが、豊頼の子誠通との対立が続き、将軍足利義晴は和睦を求める御内書を度々発行している。そのようなおりに豊治が嗣子のないまま死去したことで、誠通が因幡山名氏の家督となった。しかし、誠通の家督相続に際しては重臣や国人領主らの意見はばらばらであったため、誠通は但馬山名誠豊の後ろ盾を得て家督となり因幡の統制にあたったのである。
城址分布図  やがて、誠通は誠豊と対立するようになり、誠豊の死後、但馬山名氏を祐豊が継ぐと因幡と但馬の対立は抜き差しならない状態となった。その背景には出雲尼子氏の伯耆・因幡への勢力伸張があり、誠通は尼子氏を後ろ盾として因幡の自立を図ろうとした。それに対して但馬の山名祐豊は尼子氏勢力の進出を防ぐためにも因幡は押えておく必要があった。誠通は尼子晴久から一字をもらって久通と改め、布施天神山の東方にある久松山に出城(のち鳥取城)を築いて但馬山名氏に対峙した。
・右図: 伯耆・因幡−国人・城址分布図


乱世、生々流転

 天文十五年(1546)、山名祐豊は鳥取城番武田氏を調略、さらに尼子氏に追われた伯耆国衆を支援して 尼子氏に当てると、天神山の久通攻略を進めた。祐豊は久通の重臣で新山城在番の中村伊豆守も調略して万全を期すと、 天神山城へ攻め寄せた。そして、敗北を演じて久通を城外へと誘い出し、多治見峠において 久通は無念の討死を遂げたのであった
 久通を討ち取った祐豊は弟豊定を因幡に送り込むと国内の統制と久通の遺児らの撫育にあたらせ、 さらに弟の東楊蔵主を但馬と因幡の国境に位置ずる巨濃郡二上山城主とした。ところが、鳥取城による武田高信が 勢力を拡大、やがて尼子氏に代わって山陰に進出してきた毛利氏と結んで山名氏を凌ぐ有力者に成長した。高信は謀略で 久通の遺児らを亡き者にすると、つづいて天神山城を攻撃したため山名豊数は鹿野城へ脱出した。 毛利氏は高信を応援して鹿野城を攻撃したため、ついに鹿野城は毛利方の手に落ち豊数は没落した。 その後、豊数の弟豊国が因幡山名氏を継いで高信と対抗するようになる。
 永禄九年、尼子氏を降した毛利元就は伯耆・因幡方面へと勢力を伸ばしてきた。ところが、尼子残党が主家再興を図って挙兵、山名豊国と結んで毛利方の武田高信と対立、尼子党は若桜鬼ケ城に入って毛利氏と対峙した。豊国は高信打倒の謀略をめぐらし、高信の妹を妻としている但馬国阿勢井(芦屋)城主の塩冶肥前守を味方に引き入れることに成功した。これに対して高信は芦屋城をただちに攻撃したが、嫡男又太郎、その弟与十郎らを失う敗戦を喫した。そして天正元年(1573)、尼子党に鳥取城を攻められた高信は、ついに鳥取城を明け渡して鵯尾城に退去した。高信に代わって鳥取城に入った豊国は、謀計をもって高信を散岐の大義寺に呼び寄せると寺を閉ざして殺害した。ここに至って豊国は最大の禍根を取り除くことができたが、今度は織田信長の天下統一戦に翻弄されることになる。
 天正五年(1577)、羽柴秀吉が但馬に進攻、但馬東部は羽柴方に席捲された。ついで、天正八年の正月、秀吉は弟秀長をふたたび但馬に出陣させ、みずからは伯耆・因幡へと兵を進めた。羽柴軍は山名氏を降し但馬を平定すると因幡の諸城を攻略して鳥取城に迫った。秀吉に降伏しようとした豊国は家臣らに追放され、鳥取城には新たな城将として毛利氏から吉川経家が送り込まれたのであった。その後、鳥取城は有名な秀吉の兵糧攻めで無残に落城、因幡の戦国時代は終焉を迎えた。

久通の最期に関しては諸説があり、『因幡民談記』では天文十七年、但馬山名氏に攻められて 天神山城で討死したと記され、それを「申の年崩れ」というとある。ここでは「山ア城史料調査報告書」の 考証に沿って記述した。


余滴

 鳥取城が落ちたのち、因幡一国は秀吉配下の武将たちに分与された。鳥取城には宮部継潤が入って戦後処理にあたり、若桜鬼ケ城には荒木重堅、岩井郡桐山城には垣屋光成、気多郡鹿野城には亀井茲矩などが配された。一方、豊国はといえば、鳥取城が返してもらえることもなく、秀吉の御伽衆となって世過ぎをした。秀吉没後は徳川家康に通じ、 関が原の合戦の戦功により但馬七美郡六千七百石を与えられ、子孫は交代寄合として家名を保った。
 こうして因幡山名氏の歴史を概観してみると、はたして因幡山名氏と家は存在したのかと首をかしげたくなる。たとえば守護大名から戦国大名になった甲斐の武田氏、豊後の大友氏らは一家相伝で守護職をつないできたが、因幡山名氏の場合は、但馬山名氏を宗家として一族の間で守護職を相伝しており、家としての存在感はまことに希薄なものというしかない。伯耆山名氏にしてもそうだが、山名氏の場合、山名家というより山名群という表現が適当かと思われる。
 ところで、徳川家康の御伽衆として駿府城にあった豊国に、家康が「そちは朽木元綱を粗相人だと称しているらしいが、そちの方が元綱よりよほど粗相人だろう」と話しかけた。「なぜでしょうか?」と問いかけた豊国に対して家康は「元綱は殿中での振舞いに祖粗があったとしても、先祖伝来の朽木谷を守っている。そちは"六分の一殿"と称されるほどの 先祖を持ちながら、領地を全て失った。これ以上の粗相人はあるまい」と言った。すると、豊国は「おっしゃる通りでございます。せめて先祖の十分の一の領地を持つ身になりとうございます」と答えて家康を苦笑させたという。また、足利将軍から拝領した古羽織を着て家康の前に出た豊国をみて、家康は「物持ちがよいのも考え物だぞ」といったところ「これはかつて足利義晴さまにいただいたいもの」と答えた。それを聞いた家康は「豊国は古い恩義に背かない律義者だ」と賞したと伝えられる。
 山名氏は古い家であり、三河の土豪からなりあがった徳川家康の家に比べると、系図といい、歴史といい別格のものがあった。とはいえ、豊国が律義者であったとは言い難いし、一国を支配しながらも何やら腰砕けしたかのように所領を失ったことなどは、戦国武将としての逞しさを感じさせない。そこらへんにも、因幡山名氏という確たる武家が存在していなかったことを感じさせる。

参考資料:鳥取県史・鳥取県史タブレット・山ア城史料調査報告書・守護/戦国大名事典・日本城郭体系 など】

●但馬山名氏 ●伯耆山名氏 ●因幡山名氏

■参考略系図
・尊卑分脈・群書類従系図部の「山名氏系図」などから作成


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